協会の歩み 2007年
2007年(平成19年) 定期総会開催
 2007年度の定期総会が2月3日(土)午前10時から岡山プラザホテル5階の延養の間で開かれた。開会に先立ち、昨年度亡くなられた山崎十六夫、海野元太郎さんに黙祷を捧げてご冥福を祈った。
 片岡和男会長は開会の挨拶で、「凍結状態が続いていた中国洛陽市との行政間交流が復活し、昨年4月には岡山市民友好訪中団が洛陽を訪問、7月には連維良洛陽市長を団長とする訪問団が岡山市を訪れ、岡山市と洛陽市の日中友好事業が正しい軌道に回復されたことは、大変喜ばしいことです。協会は、一昨年来、洛陽市の緑化と桃の産地化への取組みを始め、公開文化講座、『中国三誌』の普及活動、教育交流、福祉、医療、看護、介護などの研修活動などに継続し取り組んできました。本年もこうした交流の拡大をさらに進めたいと思います。」と述べた。
 続いて、議長に理事の赤木宣雄氏が就任し、書記に萱野哲朗氏を、議事署名人に家野四郎氏を委嘱したあと審議に入った。慎重審議の結果、提案された議案はすべて承認された。
 10時から、同じ「延養の間」で二十五周年記念コンサート『友好賛歌』が開かれました。歌手は、ソプラノ歌手の村上彩子さん、ピアノ伴奏は大石邦子さんで、全11曲が披露された。最後の「北国の春」は、1番目は中国人留学生11人が中国語で、2番目は日本人全員が日本語で合唱し、3番目はそれぞれ好きな言葉で歌い、村上さんの熱い思いのこもった演出を感じた。
 同日協会設立二十五周年記念祝賀会が、岡山プラザホテル延養の間で盛大に開かれた。参加者は約百名。会長、来賓の挨拶、乾杯に続き、歓談があちこちで盛り上がり、交流が広がった。
「私と中国」 ・・・協会会員 池田武久
 私は中国東北の丹東生まれです。ご縁があって数年前に岡山市日中友好協会に入会して以来毎年協会催行の中国旅行には一度ならず参加しています。そして長春から引き揚げて以来すっかり忘れていた中国語を再び習うようになったのは2年前でした。しかし70歳の老化した頭脳では覚えが悪く所謂同学の足を引っ張ってばかりです。
 そんなこんなで昨年は何と5回も中国を訪れました。協会のツアーで岡山との友好二十五周年の洛陽へ、長春会ツアーで引き揚げルートを辿る旅で長春へ、葫蘆島へ、丹東からの留学生の案内で我的出生地丹東再訪と瀋陽観光へ、大連から引き揚げた高校同期と大連へ、そして西安と敦煌の5回です。
 西安へは岡山県が建立した吉備真備の二十周年記念に石井岡山県知事の訪問団に参加したのですが、問題はその後の敦煌観光で起こりました。観光を終えた3日目の夜中のこと、私は盲腸炎を発症したのでした。夜中に腹痛で目を覚まし大下痢をしました。取り敢えず持参していたバファリンを飲んで凌ぎ朝方添乗のNさんから下痢止めを貰って飲んで皆さんと共に西安へ飛びました。ところが西安空港で再び腹痛と吐き気に襲われ空港の救急室で盲腸だと診断されてビックリしました。ともかく救急センターで貰って飲んだ薬で症状が治まったので一行と一便遅れで上海へ辿り着き診て貰った病院で即手術と言われたのを無理を言って一夜抗生物質等の点滴で症状を抑えてもらいほうほうの体で一人先行して帰岡して済生会病院でその日のうちに手術をして貰い一件落着となりました。しかし将に危機一髪だったようです。原因は何だったのでしょうか。
 西安空港からずっとお世話になりっぱなしの地元ガイドのKさん、添乗のNさんにこの場をお借りし改めてお礼を申し上げます。更に同行の方々にもご心配をおかけしてしまいました。しかし西安空港の救急医と上海の病院の外科医の対応の良さと貰って飲んだ薬の効き目に感心しました。中国大好き人間が改めて中国を見直しました。謝謝!
洛陽市緑化協力植樹・「日中友好桃園」開幕式参加
「日中友好桃園」が開園!
 5月15日、洛陽市の黄河沿いの山村で『日中友好桃園』の開園式が、洛陽市政府や地元の中学校の生徒、農民そして日本から訪中した岡山市日中友好訪中団のメンバー18名を含め、約100名が参加して盛大に行われた。式典では、地元を代表して挨拶に立った洛陽市孟津県長の王永興氏が、岡山市日中友好協会の長年にわたる緑化協力支援と地元農民の協力を称えた。また訪中団を代表して片岡和男協会長が、友好のシンボルとして日中合作による桃が、立派に育ち、産地化して地元の利益に役立てば幸いと大きな期待を表明した。
この桃園は、2005年から協会が洛陽市人民対外友好協会をカウンターパートナーとして実施している「洛陽小浪底緑化協力事業」の一環として、良質な日本の品種を洛陽の在来の桃の枝に接木し、桃の産地として有名な岡山の生産技術を活かして、昨年より準備を進めてきたもの。本年は秋に摘果と剪伐をして、来年の夏の収穫を目指している。
なお、この事業は日本政府の外務省などが日中国交正常化三十五周年の記念事業として実施している『日中文化・スポーツ交流事業』に、岡山の団体としては初めて認定されている。

協会訪中団植樹に汗を流す
 日中友好桃園の開園式を終えた訪中団は場所を今年度の植樹地域に移動し、植樹作業に取り掛かった。作業現場は急な斜面の道を500メートルほど下ったところにあり、参加者の中には山道をすべりころげる人もいたほどの丘陵地だった。現場にはすでに地元の農民の方々が、苗を運んでいて、団員はその苗を一本一本丁寧に、植えていった。2時間ほどの作業で、230本の苗を植えつけ、作業を終えた団員たちが農民等と写真を撮ったり声を掛け合ったりして交流を深めた。
この苗は、栗やどんぐりの苗で、今年の3月に種からポットで育成したもの。今期26.7ヘクタールの植林計画の中で、槐や女貞などの植樹の間に植え付けていく予定で140キロの種を準備して苗を育成している。
「洛陽・白馬寺の釈印楽方丈さま」 ・・・協会会員 牛田和子
 山門を入ると、同行者の中からため息とも感嘆の声ともつかないものが聞こえました。視線の先には黄土色の僧服を素敵に身にまとい、日に焼けた子顔に真っ白い歯が印象的で清潔感あふれる若い僧が、長い僧服の裾を風になびかせてにこやかにこちらに近づいてくるではありませんか。「ほら、あの方、あの方。ね、素敵でしょ。この方に会えるので、ここまできたのよ。」
 じつはその数日前、私は5月11日「岡山市日中友好協会友好訪中団」の一員として岡山空港を発ちました。上海、北京を経て翌日はバスで北京の北東にある承徳に向け、悠々として大地を走ること4時間。街のほぼ半分を占めている避暑山荘は、起伏に富んだ山や武列河や湖を背景に中国建築の粋を集めた建造物と柳をはじめ多くの樹木が互いに引き立てている風向明媚なところです。清の皇帝が蒸し暑い北京の夏を避け、5月から9月までここで政治を行っていたといわれ、中国で現存する最大の豪壮な清の皇帝の離宮(世界遺産)は、想像を超えたスケールでした。途中、万里の長城の金山嶺に立ち寄り、今回の目的である「日中友好桃園」の開幕式、引き続き炎天下のなかで現地の人の協力を得て植樹を行い、洛陽市の熱烈歓迎の一環として白馬寺を訪問したのでした。
 印楽方丈さまは片岡団長、川野さん、松井さんと親しく言葉を交わされ、私たちを寺の中に招き入れました。みずみずしいスイカをごちそうになりながらの歓談でした。白馬寺は仏教伝来の源と云われ、西暦68年に建立された中国でもっとも古い仏教寺院。その由緒ある寺に入山されたのが30歳すぎ、弱冠38歳のときには上座につかれ、数年後には白馬寺のトップに就任されたということなので、40代はじめの初々しさに、すっかり心奪われたのでした。終始さわやかな笑顔で団員一人ひとりに接してくださっている光景は、中国四千年の歴史のなかに新しい中国を見ているようで、いまもはっきり脳裏に浮かびます。
 街には、高速道路ができ、車があふれ、あたらいい高層ビル群の谷間には伝統的な中国建築が見え隠れしています。その中に暮らす人々、公演で太極拳に興ずる人々、ホテルやレストランで働く人、ガイドさん、そして今回の訪中団を受け入れてくださった洛陽市人民対外友好協会の方々の変わらぬ人情と素朴な人柄に感銘を受けています。それは多分、古き良き時代の日本にもあったものです。私たちが生きてきた日本で、この50年くらい大きく社会が変化した時代はないのではないかと云われるくらい、いま世の中は混沌としています。新聞は、ほぼ毎日のように悲惨な事件を伝え、殺伐とした気持ちになります。
 そんなとき、優しさをこめ真っ直ぐ前を見て語りかけていらっしゃる印楽方丈さまの写真から、生きる力を感じています。

虎頭要塞日中共同学術調査団 日本側調査研究所報告書発刊
 虎頭要塞日中共同学術調査団が2005年から2007年にかけ、4回にわたって調査した報告書がこのたび発刊されることになった。これは、岡崎久弥氏が代表を務める虎頭要塞日本側研究センター(通称JCR-KF)が発行したものでA4版、250ページに及ぶ学術調査記録である。報告書は直近の調査からさかのぼる形式で記されており、調査団の副団長兼調査班長の任にあたっている防衛庁戦史資料室主席研究員の辻田文雄氏の克明な調査報告や軍事考古学研究者の山本達也氏の詳細な計測・作図が収められている。また、調査団に同行した様々な立場の人々の率直な感想が掲載されており、読み物としても興味深い。

○ 虎頭要塞とは…
 『中華人民共和国、黒龍江省・最東端の国境の街・虎林市虎頭鎮。そこには、日本の旧関東軍が第二次大戦中、対ソ戦を想定して、山稜の地下に極秘裏に築城した、東洋最大の重火力軍事要塞があります。虎頭には、他の巨大トンネル群と共に、各種の要塞重砲が大量に配備されていました。当時、同じく東洋最大の巨砲といわれた口径41センチ榴弾砲(射程20キロ)が、厚いコンクリート製ドームの中に設置され、シベリア鉄道を射程におさめていました。更に、世界でも稀な、列車砲(列車で移動する巨砲。射程50キロ)も存在し、虎頭要塞は当時の関東軍の最高機密とされていました』(虎頭要塞日本側研究センター「豆知識」より抜粋)

 発行した岡崎久弥氏はセンターの方針について以下の基本方針を明記している。『日中共同学術調査と平和友好活動の精神…中国の関東軍要塞の発掘・保存意義の実現は、戦争で塗炭の苦しみを味わった元兵士と遺族の皆さんによる80年代初頭から長年月にわたる無私無欲、誠心誠意の日中交流の成果であり、私たちは、先人への尽きない敬意と、広範な市民が参加して実現した歴史を謙虚な姿勢で後世に伝え、その成果を市民に広く還元しながら、より幅広い活動へ展開するように細心の注意を払う必要があります。共同調査の本来の目的は過去の歴史を直視しつつも、日中間で未来志向の友好交流が促進されることです。(略)』

 今回の報告書の発刊にあたって、岡崎氏は「多くの若い人々に読んでもらい、歴史的事実を知ってほしい」と期待している。「虎頭要塞を守備していた旧関東軍・第十五国境警備隊は8月9日のソ連対日参戦以降、戦闘に突入し、8月15日の終戦の連絡を信用せず、8月19日に組織的戦闘が再開され、8月26日まで破滅的な戦闘を展開し約3,000人いた守備隊の生存者はわずか53名でほぼ全滅した」(報告書より)

その、8月26日を発行日とした。1,000部限定自費出版。2,800円で希望者に頒布する。
中西資料より明かされる後楽園の郭沫若先生詩碑建立の新事実
 全国に先駆けて岡山で日中友好協会を立ち上げ、初代事務局長を務めた中西寛治さんが所蔵していた日中友好関係の資料を友好の証しとして保存し、今後の友好活動に役立たせるため、協会は、9月18日の理事会で遺族よりお申し出のあった資料寄贈について、受け入れることを決定し、9月21日、松井事務局長が中西さん宅を訪問し、正式に寄贈書をいただいた。これに基づき、9月29日、時あたかも日中国交正常化三十五周年のその日に、赤木理事と松井事務局長が資料を受領した。

 今後、資料を整理し、展示会や冊子の発行、会報「岡山と中国」紙上を通じて会員や岡山市民県民に広く紹介していく予定である。

 今回はその中の一つ「後楽園の郭沫若先生詩碑建立」のいきさつについて資料から紹介したい。

○ 詩碑は市民が作った!
1961年4月3日、午前11時、後楽園にて、三木行治岡山県知事、寺田熊雄岡山市長ら大勢の来賓の臨席を得て、詩碑の除幕式が挙行された。

 この詩碑は、「訪日来岡記念 郭沫若先生詩碑建設委員会(委員長-田中文男岡山大学医学部名誉教授)が一般市民に寄付を募って建立したものであった。その準備委員会や中国との連絡など、中心的な役割を果たしたのが、当時の日中友好教会岡山支部(支部長-寺田熊雄岡山市長、事務局長-中西寛治)で、建設委員会の事務局は岡山市役所内におかれていた。

 趣意書によると募金は目標額を100万円としていたが、実際には約30万円が集まった。それでも当時の金銭価値からすると大金には違いない。また石碑の万成石は市内の石材店から寄付の申し出があり、碑の鋳造も会員の手によるなど市民の積極的な協力があったことが伺える。詩碑建設収支決算書によると材料費等の支出が7万円、全体でも27万円余りとなっており、募金額内で建立できたことがわかる。いずれにせよ、場所の提供は後楽園の無償提供であったが、その他の費用は市民募金で賄ったのだ。

○ 碑文の案は二つあった!
と ころで、この詩碑建立の起こりは1955年の12月に郭沫若氏が中国科学院訪日団の団長として来日した時に、歓迎会のあった岡山ホテルの席で郭沫若氏がメニュー要旨の裏に走り書きした即興詩にさかのぼる。中西さんの資料によれば、この宴席で郭沫若氏は3枚の詩文を即興で書いている。1枚は建設委員会の委員長である田中文男氏に贈ったもので石碑となった「後楽園乃在烏城不可尋願将丹頂鶴作対立梅林」(後楽園はあるが烏城は失くなってしまった。せめて一つがいの丹頂鶴を梅林に立たせたい)である。そしてもう一つは、当時岡山大学の学長であった清水多栄氏に認めたもので「久別重遊以故郷操山雲樹鬱蒼々●年往事渾如昨信見火中出鳳凰」(久しぶりに訪ねてみると故居のように思う。操山の木々は昔のように茂り、四十年前の出来事は昨日のことのように思う。まさに鳳凰が火の中から生まれるときのようなたくましさだ)、更にもう一句、「青年是進化的原動力不断地推進人類文化到達無限高度的境地」(青年は進化の原動力である。たゆまず人類の文化を推進し、無限に近い高度な境地に到達させよ)がある。これは誰に贈ったものか不明だが、資料には毎日新聞社の記者を通じて日本青年への言葉として残したとある。

 建設委員会では前者の二首を選び、郭沫若氏に清書して送ってもらいたい旨要請し、その後直筆の書が送られてきて、最終的に「後楽園…」が選ばれた。

○詩文の元原稿が見つかる!?
 岡山ホテルのメニュー裏表紙に郭沫若氏が認めたという記述があるが、中西資料の中にそれらしいものがあった。当時の岡山ホテルのメニューがわかる方がおられたら、確定できるが、まだ推測の域を出ない。筆跡は確かで、郭沫若氏の直筆ということも貴重であるが、岡山と中国の友好の一こまを示す歴史資料としても価値がある。
「五輪はやはり魔物 大きく表情変える北京」
        ・・・元大阪市教育委員長 西崎建策
 開幕まで1年をきって、北京オリンピックの話題が、日本のメディアでもしきりに取り上げられるようになった。私はそれを見たり聞いたりするたびに、ことし5月、北京を訪れて垣間見た五輪の準備風景や街の変容ぶりを思い出す。

 建設を急ぐ競技施設の中で、ひときわ目を引いたのは九万余人収容のメーンスタジアムの国家体育場だ。鋼材を網の目状に組み合わせた外観から「鳥の巣」と呼ばれる。水のあわを集めて四角い型にはめ込んだような国家水泳センター。こちらは「水立方」の異名をとる。

 意表をつくデザインと、ユニークな愛称。やがてここで世界のアスリートたちが繰り広げるドラマは、きっと刺激的だろうと、そんな想像力をかりたてられた。

 訪れたのは黄砂の季節だったが、街のほこりっぽさは、そのせいばかりではなかった。いたるところで、道路拡張や公園造成の工事が進められ、土ぼこりを撒き上げている。その先にぼやけて見える高層ビル群。四方八方どっちを向いても林立している。「これだけ需要があるのだろうか。五輪バブルではないか」と、つい気になった。

 北京の人たちはいつ、こんなに行儀がよくなったのだろう。そう思う光景に出会った。バス停にきちんと列ができ、バスが来ると順番に乗車している。「割り込み乗車をしない、たんを吐かない…。マナー向上に当局は躍起なんだよ」と北京在住の友人の話だった。

 街も人々も大きく表情を変える北京。背景には、2ケタの成長を続ける経済力がある。国家の威信も見てとれる。そして、私はつくづく思った。「それにしても、この変容ぶり。オリンピックは魔物である」

 6年前、北京と開催都市を最終的に争ったのはトロント(カナダ)、パリ、イスタンブール(トルコ)、それに大阪だった。当時、私は大阪市の教育行政に関っており、そんな縁から五輪招致委員会のメンバーに名を連ねていた。

 ちょっと大げさにいえば、「魔物」を追いかけた関係者の一人である。だからこそ、私にとって北京五輪は無関心ではいられない。

 その祭典は、中国人が縁起のよい数字とする「八」がいくつも重なる二〇〇八年八月八日午後八時、「鳥の巣」での開会式で幕をあける。
(協会会員)
洛陽小浪底緑化協力事業へ日中緑化基金の助成が決定
 協会が洛陽市人民対外友好協会と共同で実施している洛陽市孟津県での『洛陽小浪底緑化協力事業』に対し、日中緑化交流基金(通称小渕基金)は2008年度予算として、総額560万円の助成を決定し、10月23日付けで協会に書面が届いた。

○ 洛陽市の植林現場へ
 これを受け、11月19日から21日にかけ、農業技術指導をお願いしている会員の國忠征美氏と松井事務局長が洛陽市を訪問し、2007年度の実施状況の確認作業を行うとともに、来年度計画の内容について協議した。協議には洛陽市から外事弁公室の楊明副主任、実施地の小浪底がある孟津県林業局の周宗春局長、林業指導員の王海波、梁成立氏らが参加し、内容について合意するとともに、洛陽市側から来年度(2008年)の5月か6月、桃生産の技術研修と視察を目的として岡山へ訪問する計画が明らかにされた。また、2009年以降の計画の中で、3年計画を立て、日中緑化交流基金に申請することも決定された。
岡山県日中懇話会友好訪中団に参加して
江西省は、是非行って見たいところで、またとないチャンスと思い、申し込んだ。

【10月23日】
 盧山(ロザン)は世界自然文化遺産に指定されている。一番高いところは海抜1474mの一大山地であり、夏は涼しく、避暑地としても名高く、巨岩、重畳たる山々の連なりは、白居易が「盧山の奇秀、天下の山に甲たり」と絶賛した。江西省人民政府の車で盧山の高所まで登り、花経へ、ここは白居易が遊び花を愛した所で、池があり蓮の花が名残惜しく咲いていた。そこから、くだり道、ところどころ登り道を歩いた。道から張り出した巨岩、深い谷底、圧巻は三畳泉の瀑布である。詩人の李白は「遙かに看る瀑布の長川をかくるを飛流直下三千尺」と詠んだ。また、仙人洞は砂岩の洞窟で、石の純陽殿がある。しばらく行くと樹林のなかに、フランス人たちの別荘が立ち並んでいた。ここから南昌のホテルに帰る。休憩の後、レセプション会場へ、江西省、省内の都市と友好交流縁組の岡山県、九江市と玉野市、玉島と高安市、そのほかの都市、ブラジルの都市など、大勢の参加で賑わった。

【10月24日】
 南昌市は江西省の省都で、人口111万で、名高い歴史文化の都市で、1927年8月1日周恩来、朱徳ら同志は、中国人民解放軍を終結して、蜂起した。これが八一南昌蜂起である。先ず、籐王閣見学へ、現在のものは宋代の風格である。99の石段を登っての四層の豪華な閣楼である。次に、南昌市都市計画館で、南昌市の現在の建築に将来のビル建築を見越した巨大なパノラマ模型には、驚いた。人員解放軍の蜂起を記念した広場には、高さ45.5mの記念塔が聳える。次に江西省雑技学校を訪問した。今年、岡山県公演のときチボリ公園で出会った子供たちに再会できたことは感慨深かった。午後4時より江西省外事弁室に王雨森副主任、徐波副所長ほかを表敬訪問し、歓迎会が盛大におこなわれた。なほ、南昌到着以来の通訳は岡山に在住したことのあるベテランで、とても心優しい女性の顧健紅さんである。

【10月25日】
 8時30分発、11時30分景徳鎮へ。まず湖田古窯跡を見学した。隋、唐時代から生産した白紬磁、宋代、そして明代の赤絵へと、陶磁器の芸術性、生産性の発展は素晴らしく、日本の有田焼などへ影響した。そして、土からの造形、窯での焼き上げ、微妙な細工、細かい絵の色付けなど、それぞれの場面を見せてもらった。それから、景徳鎮駅舎内の壁面に、日中友好合作レリーフとして浦上善次氏の備前焼の巨大な登板が掲げられていた。

【10月26日】
 婺源へ。この地方は山村、平地いずこも家屋は白壁で、非常に美しい田園風景と映る。白色は潔癖な人間性の住民の地方であることを示しているとのことである。環境にやさしい工場、お茶の産地、梨ができる、紅の鯉の居るところである。先ず、彩虹橋は宋の時代に建築された木族の屋根のある橋である。これを渡り、川原の石を伝い、対岸に移り、むかしの農家の使った農機具、水車を見て、産田風景区の石橋を渡ると、樟木の巨木がある。1800年の歴史があり、周囲は15mで、天下第一の古木である。渓流に沿い遊歩道を登ってゆくと、橋もあり、小さい滝がある。折り返して、素敵な山荘で、昼食を頂いた。あと、車で古民居へ、ここは、やはり白壁の集合住宅で、宋の時代に住宅を作ったとき、下水道を造っていて、亀が生息して、下水を浄化しているそうである。夕食には、婺源県人民政府外事弁公室王国栄主任、呂常委副委長、そして上饒市外事弁公室王美娟主任が加わって、話に熱がわいた。友好交流の関心のあることを覗わせた。食事が終わって、景徳鎮空港から上海虹橋空港到着。

【10月27日】
 先ず、上海工芸美術館見学へ、近代、現代の豪華な美術工芸品などの展示が見られた。次に、上海城市計画展示館へ、圧巻は、広大な屋内広場に、現在より未来の都市計画の模型見取り図が示され、また、それを立体空間としてみることができ、未来の夢が描かれているようであった。それから、魯迅公園、魯迅記念館へ。公園としては広さは上海一で、多くの人が入場していた。魯迅の坐像、会議風景、出入りしていた内山書店の風景が再現され、内山完造との当時の肝胆遭い照らした人間関係がうかがえる。ちなみに魯迅は、日本の東北大学に留学されていた。また内山完造は岡山県後月郡の出身で、戦後日中友好協会を最初に立ち上げた人である。

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