協会の歩み 1988年〜1989年
1988年(昭和63年) 63年度総会開く
 2月6日、本年度総会を日本生命ホールで開いた。役員改選を行い設立以来会長を勤めた赤木五郎氏が会長を退任し新たに設けられた名誉会長に、そして六車会長代行が会長にそれぞれ推薦された。また、新たに理事2名、会計監査2名が推薦され承認された。
 本年度の活動方針では平和条約締結10周年事業として、新岡山空港発のチャーター便「岡山県民の翼訪中団」と「瀬戸大橋架橋記念博覧会」に協力しこれらを成功させるよう努力することにした。恒例の互礼会は八仙閣で15名の中国人留学生を招いて行われた。また永住帰国した喜多川さん一家を招待、みんなで激励の拍手を送った。
河南省旅遊局代表団が来日
 2月27日、河南省旅遊局一行3名が来日し当協会を訪問した。新見市と交流のある信陽市に以前いた王文佳氏らで3人とも「対外連絡処日本語部」担当だけであって流暢な日本語を話す。今回の来日は観光宣伝のためで1ヶ月間日本に滞在し旅行社等を訪問の予定。
カシュガルから歌舞団が来岡、エキゾチックな音楽を聞かせて人気
カシュガルからも歌舞団
 3月2日、中国西端のオアシス、カシュガルから歌舞団が来岡。2日には協会主催の歓迎会が岡山ターミナルホテルで行われた。ウルグイ族の美しい民族衣装をまとい神秘的な顔立ちの団員たちが入場すると「綺麗」との声が上がっていた。
 六車会長と歌舞団のバイニサ・アブドレイム団長が挨拶の後、代表団は約70名の出席者と和やかに語らい、代表団によるエギゾチックな歌と踊りが披露されると、出席者も飛び入り参加して友好を深めた。最後に歌舞団と出席者全員で手をつなぎ「四季の歌」を声高らかに歌い宴を閉じた。
岡山空港初のチャーター機が洛陽に到着したときの記念撮影
岡山空港発の初チャーター
 3月14日、新岡山空港開港後初めての国際線チャーター便が中国の北京、洛陽、上海に飛んだ。これは協会と両備バスの共同企画で全日空の協力と洛陽市対外友好協会の招聘によるもので、岡崎嘉平太氏を団長とする102名。岡山と洛陽の交流史に残る事業となった。北京では人民大会堂でレセプションが行われ中国側から孫平化中日友好協会会長、次期駐日大使・楊振亞氏ら政府要人が出席。挨拶に立った孫平化氏は岡崎氏の長年にわたる中日友好への貢献、岡山・洛陽の都市縁組への協力を讃えた。
 16日、洛陽新空港に着陸すると武振国・洛陽市長ら市幹部、少年少女歓迎団員ら300名が出迎えた。同日夜の歓迎会の席上で岡崎氏に洛陽市名誉市民証が贈られた。17日には洛陽市主催の「訪問団歓迎の夕べ」に招待されるなどして上海経由で19日岡山空港に帰着した。
瀬戸大橋のウォークに洛陽からも
 4月2日、梁鴻雁・洛陽市民政局長を団長とする「洛陽市身体障害者訪日団」一行5名が来岡した。旭川荘が今回初めて招いたもので、協会が洛陽市との連絡、折衝にあたった。
 代表団は、団長の他、秘書長の張恩・対外友好協会副会長と車椅子に乗った3名の身体障害者がいた。内訳はベアリング工場勤務の張建玲さん、売店に勤める王紅霞さん(女性)、電気店経営の美慶偉さん、「中国・洛陽」と書かれた揃いのユニフォームに身を包んで元気に到着した。訪日団は、4月3日の瀬戸大橋ブリッジ・ウォークに旭川荘の人々と参加し、また旭川荘で開かれた運動会にも加わって交流を深めた。洛陽市では、この訪日を機会に旭川荘との福祉交流を深めたいとの意向を示している。
瀬戸大橋博覧会に洛陽の日が設けられ吉・洛陽代表が挨拶
大橋博覧会に「洛陽の日」行事
 世紀の大工事といわれた瀬戸大橋の架橋を祝って2月から8月まで岡山県主催の大博覧会が開かれたが4月14日、この会場で「洛陽の日」の記念式典が開催された。
 式典には松本岡山市長、協会から六車会長、両備グループ、華僑総会、中国側から洛陽市対外友好協会・吉長栄顧問、戴保安同副会長、そして中国大使館から王豊玉参事官、許金平三等書記官が参列した。席上、洛陽市の吉長栄団長が挨拶の後、引き続いて洛陽牡丹一千株贈呈の目録が両備バスの松田会長から松本市長に贈られた。この牡丹は博覧会の後は半田山植物園に移植され毎年春には市民の目を楽しませている。
 なお、博覧会の期間中、洛陽牡丹の展覧、洛陽市の紹介、「洛陽の日」開催などに協会が貢献したことが認められ、閉会式の際に県から感謝状が協会に贈られた。
洛陽大の副教授など相次ぎ来岡
 8月17日、協会派遣留学生の担任でもある李鴻恩氏が協会の招きにより来岡した。滞在中、中国語上級クラスが開かれ「日本語と中国語の比較」「唐詩」等を講義した。また、教え子の各家庭を訪問し実際に日本の家庭の雰囲気に触れ、さらに妹尾中学校を訪問して日本の教育現場を見学した。
 また9月1日、観光旅行ガイド研修のため、洛陽対外服務センターや国際旅行社の通訳が来岡、1ヶ月間両備バスで研修した。来岡したのは洛陽市外事弁分室・呉小現氏ら3名。いずれも第一線で活躍している青年達。今回の受入れは昨年に続き2回目。
 さらに、9月13日には研修生6名が劉昆氏(洛陽市外事弁分室主任)に引率されて来岡した。一行は大学教官や医師、理髪師で岡山大学、岡山理科大、病院、美容院で1年間の研修した。今回の研修生は岡山市受入れの3回目である。
内山完造頌徳碑の横にある胸像を参観するを于明新氏(右から2人目)
中国三誌友の会が誕生
 人民中国雑誌社の東京支局長である于明新さんの講演会が10月29日、日中平和友好条約締結10周年記念行事として協会主催により、岡山市オリエント美術館地下ホールで開かれた。
 于氏は「これからの日中友好」と題して2時間、流暢な日本語で熱弁を振るい聴衆に深い感銘を与えた。今回の講演を契機として、「人民中国誌」を含む中国三誌の普及に一層の拍車がかかり、その後、協会に「中国三誌友の会」誕生となった。(資料G)于氏は滞在中、山陽新聞社、井原市長訪問、内山完造碑を見学、吉備路文学館では郭沫若氏の遺筆を見学、協会の歓迎夕食会出席等、岡山在住の日中友好人士と交流した。
新春互礼会で元気な姿を見せた山本副会長のあいさつ
1989年(平成元年) 山本副会長が逝去
 協会副会長、山本修一氏が7月24日逝去された。享年80才だった。氏は、1949年に日中友好協会岡山県支部が創設されて以来、中西寛治氏らとともに日中友好運動に参加。81年に岡山市日中友好協会の再建に尽力し、今日まで副会長としてその責務を全うされ生涯を日中友好に捧げた。
中国人からの手紙
 会報「岡山と中国・22号」に中国人留学生からの礼状が掲載された。文面は次のとおり。
 「私は周春玲と申します。今年3月、中国から来日し現在岡山大学の研修生です。貴協会の藤尾尚憲先生のご親切にお礼を述べさせて頂きます。さる5月、自転車で寮に帰る途中で車にぶつかり怪我をしました。歯を3本折り、両足に傷ができました。日本へ来たばかりで本当に困りました。事故の翌日、留学生会館で藤尾先生に偶然お会いしました。先生は私を病院に連れて行き治療してもらいました。たびたびお見舞い下さいました。藤尾先生に深く感謝しています。同時に日中友好のため努力されている皆様に深い敬意を表します。(一部省略) 8月30日 中国人留学生 周春玲
岡崎嘉平太特別顧問が逝去
 当協会特別顧問で日中経済協会常任顧問の岡崎嘉平太氏が9月22日に逝去された。享年94才。岡山市日中友好協会が1981年に再建された時、いち早く発起人を引受け范曽美術館設立など日中友好に心血を注がれた。88年4月、新岡山空港開港記念に協会などが企画した「日中友好岡山県民の翼」の総団長として洛陽を訪問した。「郷土と日中友好のためならどこへでもいきます」と答えられた岡崎氏の生前の貢献、教訓は何時までも会員の耳に残っている。
寒山寺の性空方丈が岡山を初めて訪問、会員と懇談
寒山寺方丈が来岡
10月20日、「月落鳥啼霜満天」という詩で有名な中国江蘇省・寒山寺の性空方丈を団長とする訪日団4名が、協会の招請により来岡した。21日には、蓮昌寺で行われた故岡崎嘉平太氏の追悼法要に参列し、仏教関係者と共に冥福を祈った。また、協会主催の歓迎レセプションに出席し友好を深めた。
半田山植物園では丁寧に洛陽の牡丹を管理し毎年花盛りだ
洛陽牡丹を輸入
 10月23日、洛陽牡丹輸入促進団4名(難波一進団長)が洛陽に向かった。洛陽の牡丹は、すでに半田山植物園に一千本植栽されているが、今回は県青少年農林文化センター三徳園が牡丹園を開設する為輸入するもので、百品種千株が11月1日に無事到着した。
 洛陽市では、王有杰・対外友好協会会長や劉昆・外事弁公室主任が歓迎、市花木公司との交渉や牡丹の輸出のための梱包など、対外友好協会の全面的な支援を得てスムーズに進行、日本の検疫所検査でも合格した。中国の牡丹は山東省のものが多く輸入されているがやはり牡丹の本場は洛陽。この牡丹がしっかり根付いて美しい友好の花を咲かせることを祈っている。
アジアコミニュケーションズ設立
 12月12日、株式会社アジア・コミュニケーションズが設立された。同社は主に中国との貿易や旅行交流企画を業務とする。
 設立時の資本金は500万円、取締役社長に後の協会会長・三島伯之、専務に協会事務局長の松井三平、他の取締役には協会会長の六車清茂、協会副会長の小合康長、同じく江草安彦、協会理事の伊達龍治、監査役に協会幹事の形山清祐、以上の諸氏が就任した。今後中国との経済促進団体として発展が期待される。
 平成8年現在、資本金を増資して1000万円に、三島伯之氏は相談役となり、社長には松井三平氏が就任している。なお、小合康長氏は故人となった。

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