協会の歩み 1994年〜1995年
岡山に恐竜博物館を計画、モンゴルで化石の発掘をする石井博士
1994年(平成6年) 総会で副会長に永山氏
 平成6年度総会は2月6日(日)日本生命ビルで開き任期満了に伴う役員改選を行った。新たに副会長・永山久也氏(下津井電鉄社長)理事に片岡琢之(岡山ビジネス学院事務局長)古松研三氏(日本唐木貿易取締役)を選び他は全員留任した。講演は石井健一理学博士(林原自然科学博物館準備室)が「恐竜の絶滅が教えるもの」と題して人類も例外ではないという貴重な警告を拝聴した。終わって懇親会ではバザーが開店、洛陽市の養老院に義援金を贈る趣旨がよく知られて人気を呼び書画、唐三彩などがまたたく間に引き取られた。また協会の運動に貢献著しいと六車清茂、坂本佐和子両氏に感謝状が贈られた。
ライオンズクラブが洛陽の生徒を招待
 岡山平成ライオンズクラブ(綾野勝二会長)が洛陽市外国語学校の生徒と付添い教師計25人を岡山へ招待した。日本から子供たちが訪問することがあっても中国から子供たちが訪問するのは珍しく大歓迎を受けた。一行は2月2日大阪空港着、夕刻バスで岡山へ、ホテルに泊まったのは先生方だけで、生徒はみなライオンズ会員宅のホームステイ4泊の旅を満喫した。
 2人一組で畳の部屋に寝るー全く珍しいことばかり。食事は日本食、風呂はシャワーでなくお湯の溢れる日本風呂など異文化体験だった。滞在中は遊園地や学校、市内観光など家族ぐるみで歓待された。それだけに別れるときは悲しく新幹線岡山駅は目を真赤に泣きはらす人が多かった。
洛陽市の養老院を慰問し協会からの浄財を寄付
洛陽市の養老院へ義援金
 協会は洛陽市の福祉向上を願う中で、対象を老人にしぼり第一回の義援金として30万円を4月13日洛陽市に贈った。この日訪中団に同行していた三島会長は歓迎会の席でバザーによる益金であることを説明「人生の最後を歩む老人にどうか愛の手を」と挨拶した。この後第二福利院(有料老人ホーム)に案内され中国も遅まきながら老人対策に手をつけた事情を聞かされた。
 同福利院は200人収容を目的に4月オープンしたばかり建物は建ったが設備は足らないものだらけということから、早速テレビ購入費に当てられた。後に届いた礼状によるとテレビの外に健康器具一式も購入されテレビと共に老人たちに喜ばれているという。
恐竜の卵の調査団を派遣
 洛陽市対外文化交流会の方双建氏は7月23日岡山で記者会見し、洛陽南方の南陽市に広がる恐竜の卵の化石群について説明した。それによると40平方キロにわたる山肌に数十個単位で卵がゴロゴロあるという。盗難を恐れて一部を残しすべて地中に埋めた。卵の大きさは15センチ〜30センチともいう。
 これに応えてアジア・コミュニケーションズは見学者を募ったところ7人が名乗り出たので8月上旬調査団を編成して訪中した。調査団の帰国報告によると、果たして丘陵地に深い穴が所々に見えた。その中に卵の化石が何十個もあった。総数は恐らく数万個に上ると管理人はいった。付近の畑は至る所に恐竜とおぼしき化石の骨片がいくらでも拾えた。学術的研究のために仮設の陳列館が建てられ、最大30センチの卵をのぞくことができたという。
上海市が江草副会長に「友好の貢献を賛える」白玉蘭賞を贈る
江草副会長に白玉蘭賞
 旭川荘理事長・江草安彦氏(協会副会長)は8月24日訪中先の上海で、上海市に最も貢献した人に贈られる白玉蘭賞を受けた。これまで日本人でこの賞を貰った例は友好都市大阪の知事たち数人という。江草氏の場合は福祉向上の功績が評価された。協会では受賞を喜び後日役員会で祝賀パーティーを開いた。なお白玉蘭とは白もくれんの意でもくれんは上海の市花になっている。
富中の修学旅行生が中国の中学生とバスケット競技を楽しむ
岡山から中国へ修学旅行
 中国への修学旅行団が10月27日大阪を飛び立った。これは苫田郡富村富中(正躰三千男校長)の2年生で、北京に3泊しその間学校訪問、自由市場見学、万里の長城など観光地も参観し30日帰国した。訪問校は昌平ニ中校といい給食を一緒に食べたりバスケットボールの試合をする一幕も。悠久の歴史を知り大いに感激したという。県下には訪中の修学旅行団は他に例がないので反響が大きく他校から問い合わせが多かった。
洛陽市から友好訪日団
 洛陽市友好訪日団(張玉麟副市長が団長)が11月18日から10日間訪日した。一行は6人で市役所のトップばかり。福祉施設や理科大、商工会議所など訪問し友好を深めた。また人民中国社訪日団(沈錫飛団長)が11月11日四国から岡山入りして協会を訪ねた。歓迎パーティーでは前年創刊40周年の記念式に訪中した会員たちに囲まれ肩をたたいて友情を確認しあった。後楽園など見学後、次の訪門地福山市へ向かった。
阪神大震災の中国人留学生を救えと義援金を渡す(中が劉総領事)
1995年(平成7年) 被災の留学生に義援金
 正月気分も冷めやらぬ1月17日阪神大震災が勃発、死者6千人という痛ましい大惨事が起きた。岡山は隣県であることから各方面の救援隊が駆けつけた。会員の中で最もめざましかったのは医師・菅波茂氏のAMDAだった。震災当日に医療班を送り込み火焔の中で救済に当たった。食料を毎日運んだ黒住教、信者を動員した最上稲荷なども光っていた。
 協会に入った情報では神戸の留学生がSOSを発信。彼らは家を焼かれ家財を失いアルバイト先まで灰に化した。研修生を含む在阪一千人のうち20人が圧死したという話だった。協会報に救済の募金が発表されると毎日のように振替送金が続き2.3.4月号にわたって寄付者の名前が報告された。中には匿名でという人や役員以外の人まで協会の義挙に賛成した篤志家も現れる始末。岡山ではなく他県の惨事ではあるが日中友好の精神は広くあまねく広がった。
 結局総額85万9千円(111件)に達し、2回に分けて中国駐大阪総領事館に届けた。劉智剛総領事は殊の外感激して「日本人のご厚意としてありがたく預かります。留学生のために有効に使います。岡山の友人の皆さんに私のお礼の気持ちを良く伝えてください」と言った。
南京虐殺記念館にはまず黙祷して入場する訪中団
北京、洛陽、南京へ訪中団
 洛陽市へ今年も陽春4月に友好訪中団を派遣した。一行は三島会長を団長とする22人。北京にまず入国、それから夜行長距離列車で洛陽入りした。折から満開の牡丹が大歓迎し、在洛中は昼も夜も楽しい集いがひっきりなしだった。中でも岡山で留学生に日本語を教えたことのある団員の一人は「懐かしい先生」とばかり多くの元留学生に取り囲まれ表情を崩しっぱなし。また団長は洛陽の老人福祉に30万円を前年に続き市長に贈り市長から感謝の言葉が返された。イベントのヒットは大型舞踊劇「牡丹領」の鑑賞だった。三万人の観衆を集め洛陽市の昔から今日までをライトの中で演出した。新しい劇として感銘を受けた人が多かった。
 一行は帰途南京、上海に立ち寄ったが、南京虐殺記念館では余りにひどい内容で改めて侵略戦争の残酷さに驚き棒立ちする有様。手を合わせて託びご冥福を祈った。
 また北京では団員の中の三誌友の会会員が小路副団長と共に人民中国社を訪ね沈錫飛社長と懇談、その後郭沫若故居、宋慶齢記念館を案内して貰った。
 一方上海では魯迅記念館を訪ねたところ岡山出身の内山完造と同県人だと大歓迎された。凌副館長自ら案内に立ち全館を見学、特に内山さんのコーナーでは「魯迅先生の恩人です」と強い口調で郷土の先輩を賛えた。
初のボーリング大会に汗を流して声援また声援
日中でボーリング大会
 6月10日両備ボウルで第1回岡山市日中友好協会ボーリング大会という珍しいイベントが開催された。これは近頃若者を対象にした交流事業が少ないということから理事会の要請で小野理事ら若い会員が放ったヒット。
 中国側は留学生を中心に若者が25人勢揃い、一方日本側も若い会員を集めてそれでも平均年齢はずっと上。腕前はというと中国側はゲームが初めてという人が殆ど。開会前の即席教育でほぼルールを理解しゲームが進む度に腕を上げる。最高賞にこそ嶋村市課長補佐にとられたが2位には研修生の胡明磊君が輝いた。ストライクが出ると両手をあげて飛び跳ねる、ボールが傍路にそれると「あー」と絶句する−など2時間はわいわいガヤガヤで大騒ぎ。終って別室で両軍拍手のうち缶ジュースの乾杯。戦いは終れば互いに相手の腕を誉めあった。入賞者は次の通り。
 [優勝]嶋村慶博(市国際課長補佐)300点、[中国人最高得点賞]胡明磊(研修生)264点、[ピッタシ賞]岡崎寿美(主婦)100点、[女性最高得点賞]松田麗子(岡大生)225点、[ブービー賞]張建華(元留学生)90点、[ニアピン賞]孫侃(岡大留学生)白神浩子(理大職員)、[参加賞]全員
協会員3人が三木賞受彰
 三木理事を顕彰する三木記念賞が今年も8月に表彰された。例年のこの賞に協会会員が含まれることがあるが今年は受賞者6人のうち半分の3人が協会関係者であった。その人たちとは江草安彦旭川荘理事長、両備グループ代表・松田基氏、アジア医師連絡協議会代表の菅波茂氏。
 知事のお祝いの言葉に答えて江草協会副会長は受賞者を代表して「尊敬する三木知事さんの名がつく賞を頂いて感激に堪えません。今後も精進して頑張ります」と謝辞を述べた。
「福祉の翼」の一行が上海の児童院を訪ねて激励する
夏の行事「福祉の翼」
 「福祉の翼」は平成2年から始まったが、以来毎年この愛の行事は続きこの年も8月に6度目の交流を成し遂げた。障害者のために飛行機をチャーターし上海て゜交流しよう−という奇特な行為は福祉について深い理解を持つスポンサーが100人を越す数まで集まらなければならない。
 この困難な仕事は旭川荘が音頭をとることによって達成された。これまでは3泊4日だったが今年は4泊5日。8月23日岡山空港から飛び立った。車椅子の障害者、精神の障害者、その親や介護者、福祉行政に携わる公務員、医療関係者など100人が集まった。
 交流は先例のように施設を訪問して行われたほか黄浦江遊覧船上で交歓の集いが実現した。また初めての福祉のワークショップが開催され、江草旭川荘理事長の基調講演のあと日中双方の専門家が技術的な実践報告と討論を行い成果をあげた。
岡崎嘉平太記念館の構想
 郷土の先達・岡崎嘉平太氏の遺品展が9月13日から天満屋葦川会館で開かれた。遺族が寄付したものはトラック一杯分に上るがその一部を岡山県郷土文化財団が展覧したもの。入り口に故人が愛用した机と椅子が置かれ、机の上には筆や万年筆の日用道具が並ぶ。いずれも質素なそして高潔な人柄を偲ぶもの。そして周辺には写真が飾られ在りし日の活躍ぶりを見ることができる。周恩来首相と会話の場面とか毛沢東主席と並んで歩くスナップもあった。
 展覧会に先立ち遺族の時子夫人、次男彬さんが知事と会い在りし日を語り合った。テレビでその模様が放映され知事は「偉大な岡崎さんを顕彰するため記念館を建てます。単に遺品を陳列するだけでなく岡崎精神をよく知って貰えるような工夫をしたい」といっていた。
 岡崎さんは上房郡賀陽町の生まれ、東京大卒。日銀に勤務。日中友好の功労者。平成元年92歳で卆。

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