2000年3月
平成12年3月
  132号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
岡山県日中教育交流協議会設立1年 会報「悠久」を創刊
 岡山県と中国の青少年を中心とする教育交流を進め、未来を担う両国の青少年が、文通や作品交換をはじめ、相互訪問等による対話を通じて、自国と相手国の歴史・文化・生活などを学び合い、理解し合って友好を深め、国際性を身につけた人間として大きく成長することを願って、平成11年3月に設立された県日中教育交流協議会が1周年を迎え、会報「悠久」を発刊した。

 最初の活動として、1,000校に及ぶ県下の幼・小・中・高の教育交流の実態アンケートを実施。この実態調査は、現在中国と交流を進めている学校には更に充実した交流の発展に、これから交流を始めようとしている学校には、その手がかりとして、また、平成14年度から導入される総合的な学習の参考資料として役立つものと期待されている。

 「悠久」創刊号によると、既に、中国へ修学旅行に出かけている学校は、県立落合高校・富村立富中学校の2校である。代表団相互訪問実施校は、県立閑谷高等学校・賀陽町立大和中学校・早島町立早島小学校・岡山市立綾南小学校。特色のある交流をしている学校は、県立勝間田高校、毎年春休みに中国の砂漠を緑化する「緑の協力隊」に生徒・教員がボランティアで参加している。岡山市福田中学校は、友好都市洛陽市の外国語学校と姉妹縁組を結び、手紙のやりとり、絵画・習字の交換を行っている。美作第一小学校は、スポーツ・文化・民俗芸能・書画等多岐にわたって江蘇省鎮江市との交流を重ねてきた。これからの交流に熱い思いと期待を寄せている学校は、牛窓町立牛窓西小学校である。最近、上海市の閘北第一中心小学校との交流が実現した。子どもたちが岡山県出身の内山完造先生の心を心として、新しい時代の日中友好の架け橋になる活動ができることを期待している。
※協議会では希望者に悠久を贈呈している。(問い合わせは事務局まで)

中国信陽市溮河区 就学困難な児童へ奨学金交付 田口さん交付式に参列
 新見市と友好都市縁組みを締結している中国河南省信陽市溮河区で、経済的な理由により就学が困難な児童に対する奨学金が初めて交付された。これは、会員の田口光代さんらが寄付した基金を基礎に設立された『日中教育基金』の益金を運用するもの。

 田口さんは、夫の克己氏が戦時中に、信陽市の青年に命を助けられた人である。夫の死後も信陽市で恩返しの意味で図書館を寄贈したこともある。

 この基金は新見市民らの基金と合わせ、約500万円になっており、民間の基金としては少なくない額である。これまで日本円のまま銀行に預けられていたが、昨年溮河区人民政府の区長一行が新見市を訪問したとき、新見市と田口さんの合意を経て、中国の人民元に替えて金利運用することが決まった。

 初めての奨学金交付式は、4月1日に田口さんら10名の訪中団が列席し、信陽市で挙行される。今回田口さんから奨学金を受けるのは9名の児童でそれぞれ人民元580元(日本円で約8,000円)を受けることになっている。

 訪問団を組織した田口さんは『少しでも信陽市の人材育成に役立てば有り難い。子どもたちの笑顔が嬉しい』と、今回も記念品の他に基金を持参し加えることにしている。ちなみに、4月1日は田口さんの86回目の誕生日にあたり、中国側の粋な計らいが伺える。

2000年度第1回理事会 3月14日協会事務所で開く
 去る14日協会事務所において、片岡新会長の下、新任の理事を含め2000年度第1回の理事会が開催され活発な討議がなされた。

 冒頭片岡新会長が挨拶に立ち、前任の会長等が築いてこられた日中友好の運動を踏まえ更に広く関係各位のご協力を得て推進したい、とりわけ明年は岡山・洛陽友好提携20周年、また当協会設立20周年の佳節にあたり一層のご尽力を賜りたいとの力強い挨拶で始まった。

 続いて参加役員理事の紹介が有り、各理事も自己紹介とともに新体制での抱負を語った。

①事務局から当面する下記の訪中予定について説明が有った。
    ○岡山市友好訪中団(4/16~4/21)
    ○信陽友好訪問団(3/31~4/4)
    ○日中友好レリーフ完成式訪問団(4/21~4/25)

②協会組織運営について
 現在設けられている各委員会の活性化について活発に意見交換がなされた。

 特に本機関紙の充実については、協会の重要な活動のひとつで、各理事から幅広い提案が出された。

 機関紙制作へ一般会員の方の参画や、地域性、記事作りの分担など積極的に意見が出た。

 広報委員会は引き続き岡本理事が担当し、他理事も協力して行く事が確認された。

 各委員会の人選については、会員の参加を募っていくことが提案された。

 また理事会については、年4回程度開催してはどうかとの提案が有り了承された。

 事務局運営については、常勤事務員を置くとの報告があった。

③会員拡大について
 明年20周年に当たり目標500人をめざして会員勧誘の推進が確認された。

④20周年記念行事について
 行政と連動して、早期に企画を立ち上げなければならない。詳細については今後事業委員会を中心に検討される。(洞理事)
情報をお寄せ下さい
今までも、会員・読者提供の情報を掲載してきましたが、いっそう紙面を充実させるため、会員の身近な情報を求めます。訪中の思い出話、中国観光スポットの耳より情報、趣味でやっている漢詩、和歌、俳句、川柳、中国の古典研究等何でも気軽にお寄せ下さい。

岡山―僕の第二の故郷(ふるさと)                            留学生 劉 磊(石が3つ)
 11歳のある日、僕は中国の学校の先生に、最後の試験の答案を提出しました。―そう、あの日から僕の岡山での"留学生"生活が始まったのです。「光陰矢の如し」の諺どおり、またたく間に7年という歳月が過ぎ、僕は7年前の"ウブ"な子供とは似ても似つかぬ18歳の"ヒゲ"の生えた青年になりました。大学進学で仙台へ飛び立つ日が目前に迫った今、過ぎ去った日々を振り返る内に、僕は、はるか以前から岡山を僕の第二の故郷と感じていたことに気づきました。

岡山との出会い
 7年前、岡山と出会った僕と家族ですが、両親は勉学で忙しくて、なかなか僕を構ってくれませんでした。自分がもはや"小皇帝"じゃないと痛感させられたばかりでなく、言葉が通じないので、いつも一人ぼっちだった僕は、少しふさぎ込んで家で過ごしていました。しかし、初めて小学校へ行き、親切な先生と、笑顔一杯の同級生を目にした瞬間、「僕は一人じゃない」と強く感じることができました。

小・中校の思い出
 先生方の指導のもと、重ねに重ねた練習のおかげで、中学生弁論大会に入賞できた時の興奮や、AMDAの募金活動に参加した時の充実感と達成感は、今でも忘れることができません。コンサートや講演などで教養を高めてくれたシンフォニーホール、日本三大名園の一つで、今年、見事な"雪化粧"を披露してくれた後楽園、わずか2年間でしたが、楽しい思い出がぎっしりとつまった弘西小学校、3年間心身の成長の場を与えてくれた旭中学校などは今や、美しい記憶の1ページとなって脳裏に焼きついています。

高校を巣立って大学へ
 先日、僕は岡山県立操山高等学校を卒業しました。卒業式の壇上に立ち答辞を読み上げた時、思わず涙がこみ上げてきて溢れ出るのをどうすることもできなかったのが、まるで、きのうのように鮮烈に思い出されます。あの時、僕に涙させたのは、母校を巣立つ寂しさでしたが、それと全く同じ気持ちを、今、抱いています。岡山を離れたら、いつまた、あのゆったりと流れ、心を澄ましてくれる旭川に会えるのだろうか。いつになれば、また、見慣れたこの岡山の町並を目にすることができるのだろうか。いつになれば親しみ敬ってきた人々と、また、顔を合わせられるのだろうか。毎日、毎日、同じことを考えながら過ごしています。

さらば岡山よ
 次の7年をどこで過ごすかはまだ解りません。しかし、過去、岡山での7年間は、僕の心が一番成長した7年間でした。僕の個性も、価値観もすべて岡山で育ちました。岡山は僕の第二の故郷です。岡山は言わば僕の今後の長い人生の出発点になると思います。

 ここに第二の故郷岡山に敬愛の気持ちを込めて「旅立ちの詩」を捧げ、僕の稚拙な文章にピリオドを打ちたいと思います。

 あなたに 僕の青春の 足跡を残し
 今日 勇気と自信を持って 旅立ちます
 いつの日か 桃太郎の様に あなたのもとに 凱旋して帰ってきます
 岡山よ ありがとう
 さようなら
 さようなら

 
国際化進む少林寺拳法             岡山市少林寺拳法連盟 理事長 赤木 宣雄
 中国には「天下の武術は少林寺より出ずる」という言葉がある。河南省登封市にあるこの寺は禅宗の開祖菩提達磨が法を伝えた場所として、そして少林寺拳法発祥の地としても有名だ。

 少林寺の僧侶たちが武術の修練をするようになったのは、唐朝の初期、李世民(後の太宗皇帝)が皇位継承を狙って起こした玄武門の変(626年)に端を発している。敵に追われた李世民が少林寺に逃げ込み、13人の僧侶が棍棒を手に敵を追い払った。これにより少林寺は唐王朝の庇護を得るようになり、僧たちが武術を磨く伝統が生まれたのだという。この話は今も広く人々に語り継がれている。

 1980年代に入って、中国でカンフー映画が上映されて大ヒット。にわかに少林寺ブームがわき起こった。少林寺の周辺や登封の街、そして河南省の省都鄭州にも続々と武術館や武術学校が出現した。こうした学校は次々と新しい武術家を輩出し、少林寺拳法の発展を後押ししている。

 対外開放が進むにつれ、中国を離れ、外国で少林寺拳法を教える武術家や指導者も増えていった。例えば、陳培という武術家は、アメリカとカナダなどに2,000人以上の弟子を抱えている。そして海外出身の多くの実力者が「聖地」少林寺に足を運び、武術を通して友をつくったり、武術学校に入学して体と技を鍛えることも珍しくなくなっている。

 少林寺拳法が国際化する中、1991年には鄭州で第1回国際小林武術祭が開かれ、大成功を収めた。この武術祭には、その後も国内外から多くの愛好者が参加している。昨年9月には第6回目を開催。中国、日本、シンガポール、トルコ、アメリカ、イタリア、ロシア、ベラルーシ、南アフリカ、メキシコなど20の国と地域から45チーム、459人の選手が鄭州体育館に集まった。海外からの参加者の中には卓越した技を持つ選手も多く、周囲を大いに驚かせた。肌の色の違う実力者たちが、それぞれ見事な演技を披露し、素晴らしい成績を残した。

 2年に1度開く小林武術祭は、世界の武芸者が集う盛大な大会として定着している。国際色が豊かな上、ルールと審査基準も合理的に整備されている。この大会の成功は、将来武術がオリンピックの種目に加えられるための大きな一歩になるはずだ。
(『人民中国』2月号より)

福建省閩南5日間の旅①                                  石村 明弘
 毎年、グループで中国旅行を実施している。今回は寒い時期でもあるので、亜熱帯に属する果物王国、日本人の味覚にあった海鮮料理のおいしい地方ということで福建省ということになった。

 2月15日、関西空港で全日空廈門直行便に搭乗、雪のため連絡便が遅れて10時50分出発、13時50分廈門空港着。入国手続きを済ませて、福建省国際旅行社のスルーガイド馬さんの案内で旅が始まった。

 廈門は福建省東南部沿岸、台湾と目と鼻の先にある美しい島だ。大陸部も含めた総面積は1,500平方キロ、常住人口150万、外来人口40万。1980年10月に経済特区に指定された。

 福建省は華僑の故郷で、全世界に住む3,000万人の華僑のうち1,000万人が福建省の出身である。華僑博物館には、海外で活動している華僑の生活の様子や写真等がパネルを使って説明してある。また、経済や産業関係の器具や当時の服装などが展示されていて見ごたえのある所であったが、残念なことに写真撮影が禁止になっていたので紹介することができない。

 万石植物公園の草花区には、ツツジ、推薦、ダリア、茸類、竹、チューリップや仙人掌などの多肉植物が植えてあり、棕櫚区は自然をとり入れた広大な敷地である。初日の観光は、ここで終わり、ホテル「ホリデイン・クラウン・プラザ廈門」へ入って4泊した。

 2月16日、廈門のすぐ前に見える小さな島コロンスへ行った。フェリーに乗ると左手の岩上に英雄鄭成功の石像が見えてくる。約10分ほどでコロンスへついた。山上の展望台まで約1時間、道中、外国共同租界の面影が多く残る南欧風の景観が続く。島内は環境を守る為、自動車、自転車は皆無に近い。ただ、ミニ電気カーのレンタルがあって、利用する者が多い。島内一周50元である。

 廈門大学茶文化交流センターを訪ねる。福建省はウーロン茶の主要産地で、種々の製法で作られている。特産の酔西施、金観音、奇参茶、ジャスミン真珠、石菊茶、普洱茶等が紹介されている。飲み方、茶の効用の説明を聞いたあと試飲した。最初の茶は飲まないで次の茶から小さな湯呑で飲む。すばらしい香りと美しい色、目のさめるような味に感動した。5回くらい味わった。

 南普陀寺は唐代の創建といわれる古刹で、観音霊場として名高い。壮大な大伽藍仏殿で大悲殿には千手観音が安置されている。境内は多数の信者のお供えする線香の煙に包まれてむせかえる。裏手の岩山には、多数の摩崖仏石刻があり、中でも佛の金文字は格別に大きく有名である。

 胡里山砲台は、小金門島、大担島が見える海に近い小高い所にある。19世紀後半の砲台があり、ここから廈門港を望む景観は、すばらしい。又、博物院があり、世界中から集められた名石、奇石が展示されている。人物、動物、風景、書画等自然の造形の美しさは驚くばかりである。

 夕食は南普陀寺内普照楼の精進料理で、肉類は一切使用しない。野菜を主とした料理で揚げ物、炒め物、煮物、串に刺した物等、色づけ、味つけそれぞれ工夫されていて、材料に調理にどんな方法で作ったのか首をかしげる料理が多く、まことにすばらしいものであった。

 別室に郭沫若氏が推奨した詩が掲げてあった。菜単にも記載されていた。

    我自舟山来 普陀又普陀
    天然林壑好 深憾題名多
    半月況江衣 千峯入眼窩
    三杯通大道 五老意如何
       一九六二年十一月二十四日 游南普陀寺
       三杯後題此 郭 沫若
(協会会員)
  
「廈門」豆事典
 廈門は約1000年前に泉州府に属する同安県が置かれたのが始まり。1387年に倭寇の進入を防ぐため島に城が築かれ、1394年に完成した。このとき、ここは祖国の大廈の門だということで廈門という名になった。1650年、鄭成功が「抗清復明」を唱えて清に抵抗した。中国建国後は福建省で初めての市となった。対岸が台湾で、すぐ目の前の金門島は台湾領有という政治・軍事的に非常に緊張した環境の中に置かれている。

 1980年、深圳、珠海、仙頭とならぶ中国最初の経済特別区になった。日本との技術提携でカラーテレビ産業を確立し、家電・軽工業の分野では、無視できない存在となった。日立との合併企業である福建日立テレビ有限公司は1980年にスタートした合併企業で、中日提携の成功例として評価されている。

洛陽―極楽浄土説  日本人と洛陽(1)               長泉寺住職 宮本 光研
 日本人は死んだらどこへ行くか。

 あの夕陽の沈む空の下、光りかがやく世界があって、そこへ往くのです。

 どんなところですか?

 西方「極楽」浄土で、仏殿や蓮池があり、ホトケがいっぱいおられる。それはすばらしいところです。

 ぢゃ絵にかいて、と言われて、想像図を描けば、それは中国の寺院風景―天竺インドはイメージが及ばない世界であったらしい。

 アノ夕陽の沈む空の下、とは洛陽、長安のあるあたり、日本からちょうど真西になる。大阪難波の津の四天王寺を「極楽の東門」に見立て、大阪人は悲願の仲日、日想観にふけった。

 極楽世界が中国の伽藍風景。浄土マンダラ図の多くが中国で創作されたことによるが、インドはどうやら「絵」にならなかった。灼熱の太陽が輝き、まばゆいばかりであったか。西方が意識される中にシルク・ロードの遠くコンスタンチノープル、ローマの文明が望まれていたか。いづれにしても日本人には十万億土のかなたにあって「絵にも描けない」底のものであったろう。

 ともあれ日本人にとって洛陽、長安が最大の到達点であった。史上で隋・唐の二大古都があこがれの的であり、確かな交流のあとをのこす。長安は吉備真備、阿倍仲麻呂、空海らの事蹟がよく知られる。

 一方、洛陽は『魏志倭人伝』『洛陽伽藍記』『白氏文集』などで知られる。

 どちらかと言えば、長安の方が著名で"長安の春"のイメージができるほどである。仏教では空海が留学したのが長安であったためか、洛陽はそれほど知られない。

 しかしその宗教―真言密教では「開元の三大士」を称さる金剛智、善無畏、一行らの祖師は洛陽で活躍し、経典『金剛頂経』『大日経』は洛陽で翻訳された。龍門の大仏「ルシャナブツ」や祖庭「白馬寺」が在るのも洛陽。いづれが勝るとも劣らない。

 北魏末(550年頃)に書かれた『洛陽伽藍記』五巻はその仏教王国ぶりが知られる。極楽国もかくや、と見まがうばかりの繁昌ぶりである。(つづく)

活動日誌
2/18 中国三誌友の会84回例会
3/14

第1回理事会

会員消息
【入会】
賛助会員 岡山市津島新野、株式会社宮野石油 社長 田寺英夫さん
会員 岡山市岩井、小川哲郎さん
    岡山市長岡、大森紀子さん

図書紹介 
『女と男の中国』
 本書は中国で発売からわずか3ヶ月で13万5千冊を記録したベスト・セラー、「絶対隠私―当代中国人情感口述実録―」北京・新世界出版社の翻訳である。著者の安頓女史は新世界出版社の若手記者で400人以上の男女に取材し、その内の20話だけを「絶対隠私」に収めた。本書ではその中から11話が訳出されている。

 本書は、語り手たちが安頓という最高の聞き手を得て、男女の愛情のもつれから傷ついた孤独な心をさらけ出して癒される記録である。

 人はつらいこと、悲しいことなどに出会った時、誰かにそれを話して楽になりたいと思う。そんな時、安頓のような人が身近にいたら、どんなに救われることだろう。これは隣国中国だけの話ではない。日本にもよくある話である。
(安頓著/岸田登美子訳、中央公論社、222頁、1,800円)


『中国 現代ことば事情』
 中国の古い格言(四文字成語)に「嗆海桑田」がある。大海原が桑畑に変わってしまうこと、転じて世情の移り変わりの激しい意味だという。中国が改革開放路線に踏み出した1978年からの変化はまさしく「嗆海桑田」である。それは、寒村が高層ビルの林立する都市になった深圳や上海・浦東地区に文字通り示されている。

 本書は、さまざまな分野のキーワードを手がかりに、政治・経済から暮らしに渉る中国の現状を見ていこうとしたものである。

 内容は6章から成っている。
Ⅰ 大地に伸びる情報網
Ⅱ 市場経済は広がり深まる
Ⅲ 経済成長の陰に
Ⅳ 「党の指導」どこまで?
Ⅴ 多様化する価値観
Ⅵ 「小康」を越えて
(丹藤佳紀著、岩波書店、新書版、222頁、660円)

先憂後楽
 いま、中国全土で行われている幹部の学習運動『三講』についてその一端を聞いた。おりしも、中国共産党幹部による汚職の実態が暴露され、摘発されている時期でもあり、大変興味深いものだった。

 三講とは『政治・学習・正気(正しい党風)を語る』というものだが、実際の内容は一定レベル以上の共産党幹部に対し、自己批判・相互援助を通じて幹部として適格者であるかどうかを審議するもの。

 まず、幹部の直属の部下がそれぞれ無記名で指導方法や生活態度全般にわたって批判文書を書く。幹部は批判内容について公開で一つ一つ答えて行かねばならない。その上で、自己批判文を書いて提出し、更に部下の代表の評価をうける。これが何日も繰り返される。

 一歩間違えばあの忌まわしい文化大革命を思い浮かべそうだが、そこは経験を経た中国。整然と行われているらしい。

 社会主義市場経済というだれも経験していない実験の中で、中国はこんな厳しい試練を課して強固な指導者を育成しようとしている。ソフトランティングを祈らずにおれない(松)


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