2000年11月
平成12年11月
  140号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
岡山市・洛陽友好都市締結20周年 記念事業実行委員会開かる
 1981年4月6日、 岡山市と中国洛陽市と友好都市締結をして20年になるので、それを記念して岡山市では、記念事業を実施することになった。事業の円滑な運営を図るため、記念事業実行委員会を設置して、11月17日、第1回の会議を開いた。委員会は洛陽市との交流に熱意のある7人の委員で組織し、委員長に岡山理科大学教授逢坂一正工学部長を選出した。

 萩原誠司岡山市長は、開会の挨拶の中で、記念事業は、参加者が楽しい気持ちになるもの、感動を与えるもの、後世に残るものをみんなで考えてほしいと要望した。

 各委員からいろいろな意見が述べられ、そのひとつひとつについては、これから検討していくことになった。

 今回決まったことは、洛陽牡丹祭に合わせて岡山市民友好訪中団を派遣することである。第一案は、4月17日、チャーター便で洛陽を訪問し、洛陽市人民政府主催の歓迎会に出席する。洛陽へ2泊するが、その間、中国三大石窟の一つ・龍門石窟、中国最初の仏教寺院白馬寺、三国志の武将関羽を祀った関林などを参観、洛陽牡丹花会に特別参加する。3日目は専用車で鄭州に行き、航空機で北京へ向かう。4日目は、世界遺産・八達嶺万里の長城、明・清代皇帝の住んだ紫禁城・故宮博物院などを参観し、友諠商店でショッピング。5日目、朝食後、北京空港へ行きチャーター便で帰国する。また、別の案として、洛陽―北京―ハルピン―大連―旅順9日間の日程表が出された。日程その他の旅行に関することは、関係機関で話し合って調整することになった。

 片岡協会会長は、協会が計画している事業計画案を参考として提示した。

中国留学生、学業半ばで悲しい帰国 多くの人々の温かい心に感謝しつつ
 「胸腺癌」―このあまりにも厳しい診断は、晴天の霹靂の如く、39才の陶亜さんを絶望の境地へ引きずり込んだ。

 内蒙古林業勘探設計院の工程師であった陶亜さんは、1998年10月、私費留学生として岡山に来た。彼女は勉学に励み、懸命に勉強したので半年も経たないうちに、岡山大学自然科学研究科修士課程を受験し見事合格した。しかし、あまりに厳しい勉強と研究、また生活費・学費のための辛いアルバイトのため、何時も過労、疲れの状態だった。40才に近い女性なのに20才代の若者のように懸命に活動し、とうとう体力の限界を超え、病魔に冒されて倒れてしまった。

 岡山大学附属病院は、「胸腺癌」と診断し、入院して手術するようすすめた。しかし、1100万円を超える治療費は、来日したばかりの私費留学生の陶亜さんにとっては、天文学的数字のようなものであった。彼女が困って途方にくれているのを見て、中国留学生学友会は温かい援助の手を差し出した。

 6月20日、岡山県中国留学生学友会の主催で「陶亜さんの為の応援募金大会」が、岡山大学留学生会館で行われた。「陶亜さんは重い病気にかかって困っているからみんなで助けてあげよう。彼女が病魔と闘って勝ち抜き、元の健康な姿でわれわれの中へ戻ってきて、再び美しい人生の道が歩き続けられるよう応援してあげよう。」と募金を呼びかけた。岡山大学の留学生は勿論、理科大学・商科大学・倉敷芸術大学の留学生から続々と援助金が寄せられた。募金活動を知った日本人からもお金が届けられた。こうして、大勢の留学生と日本友人の温かい心の結晶30万円の募金が陶亜さんに贈られた。

 11月15日、陶亜さんは岡山大学附属病院で、日本で有名な清水外科学教室の伊達博士によって手術を受けた。手術で胸腺腫癌、肺の一部分と心膜の一部分を切り取った。3時間くらいかかった手術は成功し、1ヶ月半ぐらい療養して無事退院した。元気で留学生会館に戻ってきたその日、留学生達は陶亜さんの為にお祝いのパーティーをした。吉木色さんの歌「美しき草原―わが故郷」に布仁さんの馬頭琴のきれいな伴奏を久しぶりに聞いた彼女は深く感動した。約半年間、病魔と闘って打ち勝った勇敢な強い女性―陶亜さんも、このあまりにも懐かしい故郷の歌曲を聞いて嗚咽した。「ありがとうございます。お陰様で私は故郷に帰ったような幸せを感じました。これからも頑張って、きっと元気な体で美しき草原―わが故郷へ帰ります。」と涙ながらに話した。

 指導教官の毛利建太郎教授の尽力で、岡山大学医学部は陶亜さんの胸腺癌を特殊病例として附属病院の研究費で治療することを決めた。こうして、彼女の莫大な医療費の負担は解決した。毛利教授は、陶亜さんの入院、退院、滞在ビザの更新、家族の入国など全ての手続きの世話をしたほか、彼女の修士1年後期分の授業料も払ってあげた。

 今年の4月末、陶亜さんは医師のすすめで故郷の内蒙古へ帰って療養したが、半年の後肺の周りに水のたまりが発見されたので再び日本へ戻り、岡山大学附属病院で検査を受けた。結果、癌細胞が全身に拡がっていることが確認された。陶亜さんの命を延長しようと思い医師は中国での漢方治療を受けるよう勧めた。彼女の生死に関わる大変な時、在日同胞たちは再び温かい援助の手をさしのべた。9月29日、中華人民共和国建国51周年記念大会の席上、馬福山さんは出席者に募金を呼びかけ、集まった10万円を彼女に贈った。在日中国大使館から来賓で来ていた書記官も陶亜さんの入院先へ見舞いに行き、「あなたのこれからの治療は、国費でしてあげますから」と祖国政府の暖かい心を伝え励ました。

 陶亜さんは、大学の健康検査で異状を発見して以来1年半の間、中国人同胞と日本政府(大学側)、民間友好人士達の温かい友情をひしひしと感じた。学業半ばで病気で倒れたのは大変不幸であったが、異国他郷において、周囲の優しい心の援助、励ましを受け、人の世の真情、温かさを感じることができたのは、彼女にとって不幸中の幸いであっただろう。

【付記】 この記事は、陶亜さんの帰国の経緯と、陶亜さんに温かい支援をしてくれた多くの人々への感謝を表すために、鈕敏さんが中国語で書いた文章を、馬福山さんが翻訳したものである。紙面の都合で、一部割愛しました。ご諒承下さい。

岡山県、花・果樹・野菜視察団 新彊シルクロードの旅同行記       協会会長 片岡 和男
 平成12年8月29日中国東方航空にて上海へ、一泊。8月30日新彊航空にて烏魯木斉(ウルムチ)空港に到着。ホテルには熱烈歓迎の横断幕が見られる。烏魯木斉は人口60万の大都市である。8月31日はバスで吐魯番(トルファン)へ向かう。この地方が風が強いので、砂漠には風車が多く見られ、風力発電をしている。また製塩工場もある。遥か彼方には天山山脈を望むが、砂漠と言わず岩石の山にも光ファイバーの柱が続いている。吐魯番は海抜0メートル以下の盆地で夏は暑く、人口24万人である。葡萄溝へ行く。渓谷は水利が良く、広い葡萄棚の木陰で休息した。並ぶ土産物店で干しぶどうを買う、その後、葡萄博物館で勉強した。次に、カレーズの見学をしたが、これは天山山脈からの水脈に縦穴式井戸を掘り、地下水脈をつないで利用する方法で、この地方の生活、農業用水になっている。近くのウイグル人の民家を訪れ、葡萄栽培の技術、経営のことについて話し合った。夕食後はホテルの野外ステージで民族舞踊を観賞した。

 9月1日もバスで出発、この地方は石油基地が多く見られ、この資金によって砂漠道路と言ってタクラマカン砂漠を横断する道路が出来ている。火焔山は1億8千年前に噴火したもので、赤土で、谷川には黄褐色の水が流れている。ベゼクリク千仏洞を経て高昌古城へ、この城は漢代より元代に到る新彊地区の中心で、三蔵法師も逗留したことがある所である。アスターナ古墳を見て、烏魯木斉への帰途につく。砂嵐はおさまらず、途端にバスのフロントガラスにヒビが入ったが、運転手さん他の方々の機転で、事なきを得た。

 9月2日には岡山留学の経験のあるウイグル人の新彊大学副教授のアブドルスリ氏が加わった。新彊農業科学院を訪問し、国際協力の成果の説明を聞いたり、附属施設を見学し、趙副所長他と座談会を行った。次に、新彊ウイグル自治区博物館の見学にゆく。ここにはシルクロードの出土品約3万点があり、とくに有名なミイラ11体を見ることができた。そして23時発の新彊航空で喀什(カシュガル)に到着した。

 9月3日、喀什は人口32万、約8割がウイグル族である。バスは午前9時出発し、パーミル高原を上ってゆく、その道路にはキルギス人の羊の群が歩き、また河原となっているところでは、半数の人は下車して歩いて渡る。川の向かいの険しい岩山にある細い道は、その昔、三蔵法師が歩いた道であると聞いた。麓より約6時間でカラクリ湖に着いた。湖面の高度は3,560メートルであり、遥かに積雪の山々を望み、紺碧の湖の色は美しい。

 9月4日は香妃墓へ、次いで新彊最大のイスラム寺院であるエイティガル寺院へ参拝した。続く通筋にあるバザールを見て、NHKが放映したこともある職人の店へ、活気溢れ、とくに民俗楽器の店は人気があった。喀什空港を夜出発し、烏魯木斉へ、空港内のホテルに数時間泊まり、西安経由上海空港へ、一泊した。

 9月6日関西空港へ、全員、元気に帰国した。今回の旅行は色々の貴重な体験が出来ました。お世話になった皆様に感謝申し上げます。

…南京で思ったこと                                     宮本 容子
 10月10日、南京を訪れました。今回は慰霊の旅。私はこの目で南京大虐殺の場面を見た瞬間、日本兵の喚声が聞こえてきました。70才以上の戦争経験者は「死ぬか生きるかの時代だったからしようがなかった」と言いますがそれでいいのでしょうか。

 中国侵略戦争で本当に何をしたのか。知ろうとしないのは何故か。50年以上たった今、この都市、南京、その場所に立ち、自分の目で見たら何かを感じずにはいられないはずです。

 さて私の体の中に重苦しい空気が流れました。何もない広場に立ちすくんだ時、30万個の小石が、細かく、砕けた人骨が、鈍く光って目の中に飛び込んできたのです。「これは…」息がつまる思いで、しばらくボーッとしていました。

 風の音だけが聞こえる空間。音楽家の知人も2、3年前に訪れた時、立ってはいられなくなり、外に出てしまったそうですが、場所はここだったのではと感じました。体が小刻みに震えるのを懸命に押さえようとしていた自分を覚えています。たまらなくなり線香をお供えした様に思います。

 中華門の上に立った時も、同じ風が吹くのです。父親が言っていたことを思い出しました。4層にも重なる中華門を攻略するのは並大抵ではなかったと。目の前にするとそれが現実のものとして理解できました。

 当時、壊しては壊し又壊して南京の町へなだれ込んでいった日本軍。年令も20才~40才の血気さかんな男たちが、「行けよ!進めよ!!」と段々と興奮してゆく自分を押さえきれず城壁内に突入した時はピークに達していたのではないでしょうか?そこで人は鬼と化してしまったのです。人間として出してはいけない欲望、してはいけない行為が表に出てしまった。悲しいことです。惨劇を繰り返した兵士達が今日、我(=人間)にかえり、大変な間違いに気づいているはずです。これだけのことをして謝りたくても、どうしていいかわからないのも事実でしょう。上官から説明も詫びもない。兵士1人1人の戸惑いは隠し切れない真実だとも思います。殆どの人が心を閉ざしたまま亡くなっているのが現実です。辛いです。悲しいです。私たちがその立場になれば同じことを繰り返しおこなっていたかも知れません。二度とこういうことが起きないためには、国と国との戦い、人と人との争いを起こさないようにしなければなりません。大変な過ちを犯して、そのままずーっと月日が流れているように思えてなりません。(協会会員)

新しいシルクロードの探検―熱砂の大海道を行く― 文化講演会盛況裡に終わる
 10月27日、岡山プラザホテルで福武財団主催の文化講演会があり、講師の就実女子大学長澤和俊客員教授がシルクロードの「大海道」についてスライド写真を映写しながら話した。(要旨)

 シルクロードの路線と遺跡の踏査を毎年続けてきたが、最近「大海道」という路線が注目され、中国側でも調査隊が出たというので、今年10月1日から23日にかけて「大海道」の探検をおこなった。

 「大海道」とは、唐の時代の地誌『西州図経』に載っている交通路である。

 大海道―右道、出柳中県界、東南向沙州1360里、常流沙、人行迷誤、有泉井戸鹹苦、無草、行旅負水擔粮、履踐沙石、往来困弊、と出ている。この大海道については、『元和郡県志』巻四十西州柳中県条に―大沙海、左県東南九十里。―とある。

 大海道の起源は『漢書』西域伝の末尾に車師後国の記録があり、それによると元始中(紀元前1世紀~5世紀)交河故城にいた戊巳校尉徐普が玉門関から車師後国に至る新道を開いたとある。車師後国はジムサール地方にあった国で、トルファンから天山を越える道をさしている。新道とは大海道とさらに天山を越えてジムサールに行く道(他地道)をさしている。―他地道、右道出交河県界。至西北北向柳谷、通庭州四百五十里。足水道唯通人馬。(西洲図経)

 新道(含大海道)の探査は次の日程でおこなった。
2日、ウルムチ→トルファン
3日、トルファン発三又口
4日、三又口より峠へ
5日、住民の反対により不可能となる。下山
6日、トルファンからジムサールへ移る。
7日、カザフ族に天山への道を聞く。大滝口遺跡
8日、北庭回鶻寺調査
9~10日、巴里坤峠を越え、哈密から敦煌へ
11~12日、敦煌故城、鳴沙山、市内、玉門関長城線踏査
13~18日、大海道踏査
19日、大阿薩故城、ヤール村ラクダのキャラバン調査
20~22日、交河故城、北庭故城調査

 今回の踏査で古代の軍用道路のこと、後漢時代、班勇は柳中城に駐屯したことがわかった。現在、大海道は金鉱、鉄鉱、塩鉱、石切場の開発がすすんでいる。大海道の重要性を再認識した。

岡山市日中友好協会後援 依田新右衛門遺作品展
 遺族の依田忠雄さん(元日赤病院院長)主催、岡山市日中友好協会後援の「依田新右衛門遺作品展」が、11月7日から12日まで6日間、山陽放送メディアコム1階ホールで開かれた。

 依田新右衛門さん(明治26年6月5日生)は、東京で宝石商を営んでいたので、宝石の仕入に度々中国を訪問した。大正12年の関東大震災で家屋が焼失したので、翌年大阪で新商店を開店、昭和15年には、北京に進出して依田新商店を開設した。北京滞在中、天津、大同、曲阜、済南、徐州、南京、重慶等中国各地を旅行し、その時スケッチした南画風の画を、依田紀子さんが軸20本、巻もの15本(1本に15画面)に表装して展示されていた。

 人生の大半を中国で過ごしこよなく中国を愛し多くの老朋友を持った老北京人であった新右衛門さん(画号:翠晃)の画は、民衆に対するやさしさがにじみ出ていて、心を打つものがあった。参会者から、このまま蔵ってしまうのは惜しい、画集にして出版し、多くの人々が鑑賞できるようにして欲しいという声が上がっていた。絵は勿論だが、歴史的遺産としても貴重である。

小林淑人さんの遺著 「中国大陸駆け歩る記」
 この本は、平成2年70歳で社業を引退後、友人と中国各地を遍歴した時の旅行記である。辺境より内陸の名勝古跡を訪れ、道の宝庫を探り、中国近代発展の経過を見つめてきた著者は、学術経済等専門分野とは離れて気ままな旅をつづけた。時には秘境に暮らす少数民族の生活の一端を垣間見、開発開放の進む沿岸地区の住民との大きな乖離に驚きながらも、着実に少しずつその差を縮めている施政に期待する。が、あまりに急激な開発の行き過ぎには一抹の心配を表している。

 この本の出版を首を長くして待っていた著者の願いも空しく、残念無念にも、お通夜の日に製本が届いた。合掌。

中国の携帯電話市場が急成長
2001年には1億人、2003年には2億人突破!?
 中国のインターネット関連企業、イントリンシック・テクノロジー(本社・上海)は、中国における無線通信に関する調査結果をまとめた「中国ワイヤレス・ハンドブック」を公開した。それによると、携帯電話市場は、2000年の契約者数6520万人から急激に拡大、2001年には1億人を突破して1億5600万人となり、2003年には2億980万人、2005年には2億5410万人までに膨らむという。

 これに伴って、携帯電話事業者全体での通話料収入も拡大し、2000年の226億8900万米ドルから2005年には879億6900万米ドルにまで達する見通し。

杜氏二題(上) 夢に『杜子春』あり 日本人と洛陽(9)           長泉寺住職 宮本 光研
 大人が語ってくれる『杜子春』の話。子ども心に古都、洛陽のイメージが思い描かれ、人物の栄華、落莫たるようすが見てとれた。その話上手な大人が誰だったか忘れた。

 洛陽を舞台にした伝奇『杜子春伝』は大正9年、芥川龍之介が翻案、少年文学として『赤い鳥』に発表した。私がそうと知るのは後のことだ。

 大人が物語ってくれるのを圧倒的な思いで聴いたのはなぜか。日本人私たちの感受性に仕組まれた遺伝子細胞のせいか?それほどに大陸中国のイメージが先天的にインプットされているかのようだ。

 杜子春が「唐の都、洛陽の西の門の下」にぼんやりしていたり、日に4度、色の変わる牡丹を庭に植えさせるやらの贅沢を尽くす、3年間の夢見の世界を2度にわたって体験する。

 どうやらこの神仙小説は、洛陽の銘酒・杜康酒に関わる。これを飲めば「三年醒めず」「一酔三年」と称される。洛陽郊外、杜村で醸造した白酒。40度を超え、飲酒すればよほど長くいい気持でいられることを宣伝する。日本でも酒造りの職人を杜(とう)氏というのはここに由来する。

 さて杜子春は3度め、大金持ちになる道士の話を断り、かれに従って峨眉山に入る。そこでどんなことがあっても一言も口を利いてはならぬ、という修行を始める。

 そしてまさかの地獄墜ちの責苦にあうわけであるが、そこに亡き父母が畜生道におち、やせ馬になってつながれていたのだ。顔は夢にも忘れない。死んだ父母のとおりでしたから、と芥川は書く。

 閻魔大王はこれを「打て、鬼ども」と命じる。杜子春は道士の戒めも忘れて、転ぶようにその側に走りよると、両手で半死の馬の頭を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「おっかさん」と一言を叫んだ。

 もう泣けて泣けて、という少年の日の私。古都のイメージがかすんで朧げになるほどに恐怖を感じた。今にして「口を利いてはならない戒めを守ることの困難」にさいなまされたのを憶えている。

 仏教で「恩愛絶ちがたし、恩を捨てて無為に入れ」と説く。これが真実の報恩者なり、と。人間の最後の問題は「恩愛」をどうするかにある。芥川はこのテーマを破ったものである。

 ともあれ『杜子春伝』(鄭還古作)は古都、洛陽の明暗を伝え、日本人にも深くそのイメージを与えたもののようである。(協会理事)

活動日誌
10/26 中国三誌(ピープルズチャイナ・北京週報・中国画報)友の会(92回)開催
1.私の日中交流談
2.チャイナ誌10月号の記事について
1/7~12 依田新右衛門遺作品展後援
1/9



同・93回開催
1.日中児童文学交流会シンポジウム出席報告
2.チャイナ誌11月号の記事について

会員消息
【入会】
島村勝視さん(岡山農協印刷㈱)
鷹取清彦さん(岡山市議会議員)

【お悔やみ】
小林淑人さん

図書紹介 『現代中国を知るための55章』
 20世紀末に、香港、マカオが返還され、中国は残る台湾を統一して、19世紀半ばからの悲願である「中華の統一」の実現を目指しているが、台湾では独立の声がいっそう高まり、今後、中国と台湾の対立はアメリカや日本を巻き込んで、ソ連崩壊によってアメリカ合衆国の一極支配が続く中、21世紀には、米中間の「新冷戦時代」を予想する向きさえある。21世紀、中国がどのような道を歩むのか、世界的に注目されている。

 本書は、大国化の反面、不透明感が拭い切れない中国について、政治、経済、社会、外交など様々な断面から分析することによって、21世紀の中国の動向を知るカギを提供するため出版されたものである。

 内容は次の5章から成っている。
1.迫り来るグローバル化の波
2.正念場の改革・開放路線
3.多元化、流動化する社会
4.多極化期す独立自主外交
5.「一国二制度」の行方。

 執筆者はいずれも中国、香港に駐在し、現地で中国の動向を取材し、調査してきた研究者、記者である。
(高井潔司編集、明石書店、四六判、195頁、1,800円、2000年7月初版)

先憂後楽
 『あなたの過去など知りたくないわ』と菅原洋一が切なく恋心を歌った。知っても仕方がない、辛くなるだけということだろう。しかし、国と国との関係において、過去の事実は知っておかないと、政府間交渉はもとより、民間交流にとってもうまくはいかないだろう。

 今回南京への研修団に同行して、日本軍の大量組織的虐殺の事実と生存者に接した。すでに、半世紀以上前の事件だが、未だ生々しい。

 中国内では歴史教育としてきちっと学校で教えられているが加害者である日本の事情はお寒い限りだ。教科書には載せない方がよいのではという世論があり、岡山県議会でもその種の陳情が可決された。中学校や高校でもそのあたりは曖昧にされていることが多い。

 ことさら強調して大騒ぎするというのでなく、事実を事実として教育し、歴史認識をもった国民として外国との交流をすることにより、日本人はより親しまれやすくなるのではないか。

 21世紀を目前にして、日本人が真の意味で国際人として世界で、日中間で活躍することを切に期待したい。(松)


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