2001年8月
平成13年8月
  148号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念事業
岡山市・洛陽市学生交流シンポジウム開かる ~ みんなで創ろう日中友好物語 ~
 8月5日、14時から、岡山大学一般教育楼105号講義室で、日本国際学生協会ISA岡山支部主催、岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念事業実行委員会共催、岡山市日中友好協会後援の岡山市・洛陽市学生交流シンポジウムが開かれた。

 岡山大学留学生センターの岡 益巳教授は基調講演「あなたにとっての”国際交流”とは?」をテーマにして、大学時代の経験、留学生アドバイザーとしての仕事を通じて、また、国際交流にあらわれた数字によって日本人にとっての国際交流とは何かを話した。

学生交流シンポジウム (岡山大学)


 次に中国人との交流について、岡山大学の中国人留学生のほとんどは日本語の理解ができるので、ぜひ日本語で話しかけてあげてほしいと言った。

 2、3ヶ月前、ある日本人学生が中国人留学生を紹介してほしいとやってきた。「私は1年間中国語を勉強していて、今度は中国人留学生に教えてもらいたいと思っています。そのかわりに日本語を教えますし、岡山を案内してあげられます。」と言った。

 彼の要求には2つ問題があるので次のように指摘した。

 「まず、お互いに教えあうのはいいように見えるが多くの場合、2、3ヶ月のうちにうまくいかなくなる。一般的に中国人留学生は日本語の上達がとっても早く、逆に日本人学生は中国語の上達はそうでもないので、日本人はやる気をなくしてしまうことが多い。次にほとんどの中国人留学生は自費で来ていて、放課後はアルバイトでとても忙しくしているし、休日は気晴しに出かけたりして君とおしゃべりする時間はないと思う。」どうしても中国語を習いたいのなら、謝礼を払うようにと勧めた。

 相手がどこの国の人であっても相手の立場をよく考えた上で交流を進めなければならないことが分かった。

 講演のあと、洛陽工学院の3年生、李娜さん・朱玉琳さん・顧嶺さんの自己紹介と岡山の印象が話された。「岡山は、街がきれいで空気もおいしい。人々は礼儀正しく、中国人を温かく迎えてくれる。街路には、たくさんの花が植えられ緑も多くて景色が美しい。日本の中華料理は中国の味とは全然ちがう。日本の料理は甘みが多い。岡山の暑さは、ひどすぎる」と話した。西山武久就実大学教授がコーディネーターとなり、大学生の日常生活、時間の使い方、お金の使い方、職業の決め方、個人的にストレスを感じた経験などが話し合われた。

 中国人の学生は、規則正しい生活をしている。(学寮)
6時、起床、朝の運動。
7時、朝食、お粥、油条など。
8時~11時、授業
11時~14時、昼食、休憩
14時~16時、授業
23時までに寮に戻る。その間は、買い物、遊び、勉強などで過ごす。

 お金の使いみちは、本(教科書を含む)、食費、女子は化粧品や服、男子はタバコ、外食、コンピューター等、洛陽にはバイト先がほとんど無い。(取材・中藤季子)

シンポジウムに参加した感想   協会会員 家野 四郎
 冷房のきいた大きな教室へ、100人近い参加者を得て、一応盛会であった。

 友好都市締結20周年記念事業とうたったシンポジウムの意義はあっただろう。それにしても不可解なのは会議が英語のみで(しかも通訳なしで)あったことだ。

 中国からの留学生の日本語力が不足、そして日本側は中国語がだめという状況で共通語を英語に求めた事はやむを得ぬことだ。とにかく英語のわかるものだけのシンポジウムになってしまったことは、ちょっと残念なことである。

 やはり通訳をつけてでも、日本語と中国語を用いてやるのが本来の形ではないだろうか。そうすれば大学の中に限らず、一般にも広く呼びかけられるし、もっとオープンなものになったはずだ。記念事業なのだから市民全体で祝うべきだと思う。

 第2回目はそういう形を考えてほしいものだ。

 洛陽から来ている留学生たちも、まだ岡山の街に親しむ機会が少ないようだ。もっと岡山の人たちとも接する機会を持てば、岡山人も彼らに協力する時間は惜しまないだろう。関係筋のご一考を期待したいと思う。

児島 亨さんの死を悼む ―魯迅を生き生きと語れる最後の人―
                                        協会前会長 三島 伯之
 
 福山市の前日中友好協会会長・児島亨さん(88歳)は7月28日病死、31日葬儀が行われた。児島さんは井原市の出身、昭和の初め上海に渡り内山書店で働いた。以来終戦まで内山完造の傍で多くの中国文化人と交流した。その関係で式場には中国人名の花輪が沢山飾られていた。

まず一番に目につくのは、肩に北京と書いた下に周海嬰とある。言うまでもない魯迅の一人息子の名前である。その横に上海の魯迅記念館館長、中国領事館理事など著名人の名前が並ぶ。更に日本語で弔辞を読んだ人がおり、後で聞くと周寧といい、魯迅の孫娘。彼女は東京に住むので葬式に間にあったという。

 魯迅と内山完造の関係は国境を越えた朋友の間で有名だが、魯迅が死んで既に65年。代も変わったのに児島さんと魯迅一家の深い繋がりは続いているようだ。

 児島さんは田漢、郁達夫、郭沫若などとも交流があったが、最も心をひかれたのは魯迅だった。「先生は本当に面白い」と前置き、魯迅が散歩がてら殆ど毎日店へ来たという。茶を飲み世間話をする中に鋭い警世の言葉を吐いた。


 「君たちはマルクスを読む必要はない。漱石を読め」「物まねを馬鹿にしてはいけない。まねることで先輩に追いつく」「人間はいつまでも変わらぬ男であってはならない。それはボンクラだ」などなど。

 魯迅は洋楽が好きだったという。ベートーベンの第九を激賞した。また映画にこり、ターザンの冒険は何度も見てそれを人に教える。その際自らキャッキャッと笑いころげると。中国の生んだ希代の文豪・魯迅を生き生きと語る最後の人・児島さんは死んだ。

納涼 中国の怖いはなし―浮遊する2000年前の霊魂―
 河南省洛陽の付近に大郊村という村があり、その村のなかに小高い丘がある。丘の側溝あたりからは、不思議なことに土の中から白骨がしばしば出現し、村人は髑髏溝と呼んで、気味悪がっていた。

 いまから40年ほど前、1964年の春、中国社会学科院考古研究所がその辺り一帯を調査したところ、なんと522坐の墓が見つかった。白骨化した遺体が墓坑ごとに、手を腰のあたりで交差させて埋葬されていたのであった。

 墓が発見されたとき、白骨を調査するために顔●という人類学者が彼の地に出かけたのであるが、彼は右大腿骨を骨折してしまい、白骨遺体を調べることはできなかった。その後、白骨は箱詰めにされて北京に運ばれ、そこで改めて顔●氏によって鑑定が行なわれようとしたのであるが、それも実現しなかった。責任者である顔●氏が、何故か突然死亡してしまったからである。

 度重なるアクシデントからなのか、それから20年ばかり白骨には手がつけられなかったのだが、最近になりようやく調査研究が行われ、白骨化した遺体の性別、年齢、死因などが報告されるに至った。その詳しい内容はここでは省くが、20数体の頭蓋骨には外部から加えられた暴力による傷が確認され、中には明らかに高い位置から鋭利な凶器が振り下ろされ撲殺された遺体もあった。
洛陽大郊村の522坐の墓

 実はこの集団墓地に埋葬された者は、2世紀初め、後漢時代の労役刑に服していた因人たちであり、それはそれぞれの遺体の上に置かれていた磚に、埋葬者の名前、刑名、死亡年月日が記されていたことから明らかになったのである。

 ところで、当時の労役刑は、足かせがはめられて労役させられる刑罰もあり、それは▲趾刑という刑罰名称を持っていた。集団墓地に埋葬された因人の中には当然この▲趾刑に服していたものもおり、彼らは服役中に病死し、また惨殺されたのだろう。

 そう言えば、顔●氏は、足を骨折して、そののち急死した。……

 人が生命を保ているのは、精気があるからだ。死んだらその精気はなくなってしまう。精気をつくるのは、血脈であり、死ぬと血液がなくなり、血液がなくなると精気も消滅し、精気が消滅すれば肉体は朽ち果て、肉体が朽ち果てれば土と化し、灰となる。人は死ぬと、精神が天に昇り、骸骨は土に帰る。だから、死者を「鬼神」と言うのだ。つまり、「鬼」とは「帰る」、「神」とは「茫洋として形がないさま」。したがって「鬼神」(霊)は目で見ることができず、ぼんやりしているのだ。

 ― 人は死んだら、霊となって崇りをすることがあるのでしょうか。

 あります。人が生まれ、耳目・手足が機能しはじめ、それを魄と言います。体のはたらきの魄に対して、やがて精神のはたらきとしての魂が生まれてきます。魂と魄は満ち足りた状態でいてこそ、神明の域に達することができ、人が死ぬとそれぞれしかるべきところに帰って行くのですが、満たされない状態で非業の死をとげると、魂と魄はこの世に残り、ある時には人にとりつき、崇りをするのです。
冨谷 至 京都大学教授(しにか8月号より)

●はもんがまえの中に言 ▲はかねへんに大

漢詩鑑賞  芙容楼送辛漸(ふようろうにてしんぜんを送る)      盛唐 王昌齢 
かんうこうにつらなってよるごにいる

へいめいかくをおくればそざんこなり

らくようのしんゆうもしあいとはば

いっぺんのひょうしんぎょくこにありと


 冬季の冷たい雨が揚子江に降りしきるなか、その雨水は揚子江の流れと一緒になった。

昨夜、流れにのって呉の地方へと流れ込んで、鎮江にやってきた。さて、一晩を過ごして、明け方に旅立つ友人を見送れば、昨夜の雨はすっかりあがって、遥かに西の方楚の山が唯一つそびえたっているのが見える。

あなたがもし洛陽に着いたときそこにいるわたしの親友がわたしの最近の状況を聞いたならば、

「一片の透明な氷が白玉の壷の中にある」ような澄み切った心境だと伝えてほしい。


 詩題になる芙容楼は今の江蘇省鎮江の町にあった楼の名前で、雪舟ゆかりの金山寺で有名になった。芙容楼から長江の流れを望みながら送別の宴を行い、酒を飲み、詩詞を詠ったりするのが文人墨客の一つの楽しみであった。芙容楼から旅立つ友人の辛漸の行き先になる洛陽は唐の副都といわれ、かつて作者の王昌齢が沢山の知友と共に過ごしたところである。冷たい雨の降りしきる中、取り残されたようにかすみ残る山々を眺めて、王昌齢は心を抑えがたい懐旧の念に襲われていたに違いないであろう。そうしても、作者は思い直して、自分の心情を「一片の冰心、玉壷に在り」という詩句に託したのであろう。芙容楼でお別れになった知友の辛漸については伝不祥であるが、おそれく王昌齢にとってよほど心を許した親友にちがいない。

 王昌齢(698~755?)。字は少伯であり、京兆(現在の西安付近)の人。また江寧(現在の江蘇省の南京)、大原(山西省)の人とも言われる。幼いころ、家が貧しかったが、勉学に励み、開元15(727)年に進士及第となり、秘書省校書令に任ずる。書籍の校閲官という低い地位ながら中央官僚としてスタート台に立ったが、官吏としては不遇な生活を送り、素行の方面でも批判される点が多かった。ともかく、この七言絶句が作られたときは江寧の県知事補佐官という低いレベルの職にあったが、結句になる第四句には官界の立身に断らない意が示されている。

 王昌齢は細かい世事に断らず辺境の自然や出征兵士などの人事を主題とした多くの名詩をつくり、李白ら同時代の詩人たちから畏敬をこめた交遊を得ていた。代表作には唐代絶句の五大傑作の一つとされる『出塞・従軍行』がある。左遷のたびに友人の岑参から贈られた『王大昌齢の江寧に赴くを送る』という詩の始めに二句は次のように書かれ、彼の人柄と親友関係をよく歌われたと思われる。

「酒に対して寂として語らず、悵然として君を悲しみ送る。」
(中国人留学生 馬 福山)

洛陽の伝説と民話 より (3)                              片山 義郎 編訳 
李白はここに

 あるとき呉道子は官船(役所の船)に乗って長江見物に行きました。三峡(長江中流にある三つの峡谷)へ来たとき、巫山の美しい景色にすっかり魅せられ、長時間舳に立ってじっとその景色に見入っていました。すると上流から一そうの小舟が飛ぶように下がってくるのに気がつきました。一人の人が小舟に立って詩を吟じています

朝に辞す 白帝彩雲の間
千里の江陵 一日にして還る
両岸の猿声 啼いて住まらざるに
軽舟 已に過ぐ 万重の山

 ちょうどそのとき小舟が官船に近づいてきました。呉道子は小舟に立っている上品で小ざっぱりした人物を見て、すぐに誰だかわかりましたので、大声で尋ねました。

「船の詩人の方、もしやあなたは名声赫赫たる李白先生ではありませんか?」
李白 像

 すると李白は相手が普通の人ではないと見て答えました。

「まさに李白です。あなたはかねてご高名の画家・呉道子先生では?」

「そうです」

 しかし呉道子が答えた瞬間、李白の舟は官船の横を通り抜けて下流へ流れ、だんだん小さな点となり、やがて見えなくなりました。

 呉道子がその屋敷へ行きますと、中でみながしゃべっている声が聞こえてきましたが、誰かが「この会合に詩人の李白先生が来られないとは残念ですね」と言いました。呉道子はそれを聞くと急いで持ってきた画像を下僕に竿に吊るさせ、「李白先生ならここにいますよ」と外から声をかけました。

 みながあわてて画像と呉道子を中へ入れました。みなは李白がきたと思って次々とお辞儀や挨拶をしましたが、李白が返礼も返事もしないのに気がつき、よく見ますと画像でした。

 ちょうどそのとき李白が行脚から帰ってきてその屋敷へやってきました。みなは本物の李白と画像の李白を見て、もし李白がしゃべったり動いたりしなかったら、どちらが本物か画像か見分けられなかっただろうと呉道子の絵の素晴らしさに感心しました。

ちょっとチャット(7) 兪さんのこと                      協会理事 近藤 弦之介
 思いもかけず兪さんから電話があったのは、今年4月初めのことだった。同志社大学の短期研修で京都に来ているので、会いに行きたいというものだった。

 約束の6日午前10時に兪さんは我が家にやって来た。数年ぶりに見る兪さんは、大学の教師として一段と風格を増していた。
 
兪さん (中央)
 初めて日本に来て岡山大学で学んだ日々のあれこれや、後から日本にやって来た兪さんの奥さんや当時3歳だった息子さんの翔翔ちゃん(私たちは翔ちゃんと呼んでいた)のことなど、思い出話から、現在の話まで、兪さんの話は尽きない。

 14年前ロータリーの交換学生マットのホストファミリーを引受けた頃から、岡山大学留学生が我が家に遊びに来るようになった。その一人が兪さんだった。兪さんは大変勉強家だったらしい。「図書館の本を借りると、どれも兪さんがすでに借りて読んだものばかりだ」とこれまた勉強家の韓国の李さんが、いつも感心していた。勤勉と節約を尊び、謙虚で純朴な彼の人柄に私たちは心の底から好感を抱いていた。

 4月6日に話を戻すと、兪さんと妻と私の3人は、プラザホテルで眼下に広がる満開の桜を眺めながら、お昼と共にした。兪さん一家が住んでいた家はこのホテルのすぐそばだったので、「懐かしいな…」と感慨深そうだった。私たちは、家に招待された日のことを思い出した。奥さんが次から次へと作ってくれた心づくしのご馳走のことや、翔ちゃんが見せてくれた絵や、皆で話したことなどが思い出されてきた。

 兪さんは大変律儀な人で、私たちがしたちょっとしたことをいつまでも恩義に感じてくれていて、今回も私たちに是非大連に遊びに来るように、故郷の長春を是非案内したいと繰り返し言ってくれた。大きくなった翔ちゃんに会いに大連や長春に行こうと妻と話している。

活動日誌
7/12 中国三誌友の会、第102回例会
7/19 会報147号発行
8/5

岡山市・洛陽市学生交流シンポジウム

会員消息
【入会】
井原タケノさん(総社市総社)
波多清司さん(岡山市三門西町)

【感謝状】
橋本俊行さんの岡山少年院の活動に長年協力した功績に対し法務大臣感謝状が贈られた。

【出版】
脇正敏さんが「太平洋の飛沫」を自費出版した。

中国関連消息
中国映画『山の郵便配達』

 1999年中国金鶏賞(中国アカデミー賞)受賞作。監督は霍建起(フォ・ジェンチィ)。1980年代初頭、中国湖南省の険しい山岳地帯に、年老いた一人の郵便配達人がいた。彼は大きなリュックに送る人、受け取る人の思いを紡ぐ手紙を詰め込み、何日もかけて、山から谷へ、川を横切り、再び山へ…体に重いリュックを食い込ませて、歩き続ける。そして退職を目前にした最後の配達に、年若い一人息子を連れていく。この特別な<旅>は父、母、息子…そして家族の”絆”物語である。
(8月31日までシネマクレール)

先憂後楽
 烏魯木斉から北京まで3,785㎞の列車の旅に随行した。途中停車する駅は吐魯番、敦煌、西安など19駅。ウイグル自治区、甘粛、陜西、河南、河北、そして北京と7つの自治区・省・市を通過する。烏魯木斉を12時35分に出て翌々日の12時31分に北京に着く48時間の旅。列車は特快70次で空調つきの軟臥車で、真新しく実に快適な車両だった。

 10日間の旅の主な目的地はカザフスタンとの国境にある北新疆の哈納斯。烏魯木斉からアルタイへ航空機で約1時間飛び、翌日マイクロバスで約10時間かけて哈納斯に向かう。行けども行けども見渡す限りの大草原地帯を9つの峰を越え、途中『辺境通行証』を取得して行く。

 北新疆の自然は大変厳しい。9月に入るともう雪が降り始め、最も寒い2月ごろには零下45度以下の日が続く。春節の祝いで酒に酔った人が道端で眠ってしまい凍死する人が毎年何人も出るという。

 このアルタイ地区で随行してくれた哈納斯国際旅行社の秦さんは、カザフ族をお母さんに、回族をお父さんに持つため、漢民族の彼氏との結婚を許してもらえず、悩んでいる。マイクを通さなくても充分によく通る声と、美しい歌。背丈は低いがいつも背筋をピンと伸ばし、何より、さわやかな笑顔が西域の旅を楽しく思いで深いものにしてくれた。本当に中国は広く深くそして多様だ。(松)


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