2001年9月
平成13年9月
  149号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
*国際貢献トピア岡山構想を推進する会* 「国際姉妹校2001こどもサミット」開かる
 8月25日、岡山市駅元町のママカリファーラムで、「国際姉妹校2001こどもサミット会議」が開かれた。中国からも洛陽申窪村希望小学校5年生の郭 娟娟さんと趙 祥君が参加した。

 主催は、国際貢献トピア岡山構想を推進する会(通称トピアの会)。トピアの会は、医療、教育、宗教などのヒューマニズムを尊重する岡山の人々の精神文化を活動理念として、民間国際協力団体(NGO)とりわけ開発途上国のローカルNGOの活動支援とネットワーク作りを目的として、1994年より毎年「国際貢献NGOサミット」を開催し、世界に貢献する街づくりを目指して活動している団体である。そのネットワークのひとつに「国際姉妹校」があり、現在岡山県内の約20校が、主にアジア、アフリカの小・中・高校と姉妹縁組みを提携している。

 「2001こどもサミット」は、この活動を支援し、こどもたちの「顔の見える交流」を通じて、おとなたちも一緒になって国際交流や国際貢献の「思いやりネットワーク」を築いてゆこうとするもので、今年で8回目を迎えた。
おかやま国際貢献NGOサミット
 3階のコンベンションホールには、中国・モンゴル・韓国・インドネシア・スリランカ・フィリピン・ネパール・のコーナーが設けられていて、それぞれの国の生活や文化が楽しくカラフルに紹介されていた。中国のコーナーでは、日本の子どもたちが、墨絵、剪紙、簡体字に挑戦していた。

 午後は、ミニコンサートが開かれ、日本からは、日本舞踊、桃太郎合唱団、学芸館のブラスバンド、外国からは、バリダンス、韓国舞踊、ディジュリドゥー、アンクロンなどの発表があった。

 わずか数日の交流で、日本の子どもたちと外国の子どもたちが、十年の知己のように親しく楽しそうに手をつないで走り廻っている姿が印象的だった。

「日中ふれあいの集い」で出演する日本側メンバー
第12次 「福祉の翼」-上海へ飛ぶ -
 平成2年、中国、上海市の社会福祉関係者及び障害者との交流、日中両国の友好を願って「福祉の翼訪中団」を組織し、障害者や一般市民との交流を実現してきた社会福祉法人・旭川荘は、その後も毎年実施し、今年で12回を迎えた。

 訪中団は、上海市民政局及び上海人民対外友好協会の協力で熱烈な歓迎を受け、そのこまやかで親切な対応に、毎年参加者の好評を得ている。

 今年は、101人の訪中団(団長・刈谷哲博竜の口寮施設長)が、8月31日、岡山空港を出発、3泊4日の日程を終えて、24日無事帰国した。出発の日は大型台風が岡山を直撃し、3時間遅れの出発となったが、上海浦東空港ではタラップの下に3台のバスが待機するなど、国賓待遇での入国。夕方開かれたレセプションでは、超多忙な周慕堯副市長が出席し、団員をねぎらった。

岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念
   岡山・洛陽インターネット友好囲碁対局  …三丁目劇場…
 8月30日、3丁目劇場で、岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念事業の一環として、インターネットを使い、ウェブ上で「岡山・洛陽インターネット友好囲碁対局」が行われた。両市の間では、以前から囲碁交流を行っていたが、今回は、IT時代にふさわしくインターネットを使うことになった。

 先ず、インターネットを通じて、萩原誠司岡山市長と劉典立洛陽市長のエールの交換があった。ニイハオで始まる萩原市長の呼びかけに、ドウモドウモアリガトウゴザイマス。ガンバリマショウと日本語を混じえた劉市長の長い熱いメッセージが返ってきて、和気藹々の雰囲気の中で対局が始まった。最初に両市長と一般来場者5人の連碁があった。

 大盤解説は関西棋院の白石 裕九段。ユーモアをまじえた解説に会場がたびたび沸いた。

 次に岡山アマチュア囲碁連盟の対局があった。シニアの部は○岡本直孝六段対李太平アマ五段、成年男性の部は、○岩井竜一アマ七段対方浦アマ六段、成人女性の部は、大西フミ子アマ初段対○劉霞アマ四段、中学生の部は、○藤本卓万アマ六段対時越アマ四段、小学生の部は、横山絵里アマ初段対○劉尚アマ三段。成績は三勝ニ敗で岡山側が勝利した。(○印が勝者)
岡山市の参加選手(アマチュア),右から横山初段,藤本六段,
大西初段,岩井七段,岡本六段
洛陽の劉尚3段と対局中の横山初段
日本海のド真中で-歴史教科書問題を考える-         岡山大学留学生  王 莎莎
 「長い春」と書いて、長春という所なんですけど…「中国はどちらの出身ですか?」と日本人の方に聞かれると、私は必ずこう答えています。あまり中国の地名について詳しくない方には「昔の満州の首都です。」と付け加えます。

 1929年、アメリカで起こった世界恐慌の波をじかに被った日本は大不況に陥り、経済的困難を打開するため海外侵略を企て、中国の東北部に位置する満州を占領しました。私は、まさにその満州の首都「長春市」で生まれたのです。

 その長春市から私が日本に来たのは、10年ほど前のことです。両親が日本に留学していたので来ました。今、ちょうど20歳で岡山大学の留学生です。高校時代は、思春期ということもあって、ときどき自分のアイデンティティについて思いを巡らし悩むことも少なくありませんでしたが、最近は、中国人としてでもなく、日本人としてでもなく、一人の人間として、日本海のド真ん中に立っているイメージで、中日両国の歴史、文化、経済、そして法律などを捉えることができるようになったと思います。

 今、中日両国の間で問題になっている歴史教科書については、以前から関心を持っていましたが、深く考える機会もなく過ごしてきました。今回、歴史教科書問題について原稿を依頼されたので、自分の考えをまとめる良いきっかけになったと思います。

 つくる会の新しい歴史教科書を開いて、中日両国の議論の焦点ともいえる「南京大虐殺」という言葉を探しました。しかし、どこを探してもその言葉はなく、ただ南京事件として『日本軍が、日中戦争で南京を占領した時、多数の中国人民衆を殺害したと認定した。なお、この事件の実態については、資料の上で疑問点も出され、さまざまな見解があり、今日でも論争が続いている。』とほんの3、4行だけ記してありました。

 その時、私は、ふと、中国に帰った時に見た中学生であった従弟の歴史教科書を思い出しました。それは一冊まるごと中日戦争のことをこまごまと書いた本でした。この両国のあまりの違いに驚きをかくせない自分がそこにいました。しかし、また冷静になり、自分が日本の小学校で受けた歴史の授業を思い浮かべました。まわりが日本人ばかりだったので、幼かった私はどうしても、中日戦争や南京事件のところの授業を受けるのが嫌でたまらなかったのです。学校を休もうかとさえ思いました。そうこうしているうちに、ついに授業の日になってしまいました。当時の担任の先生は「日本人はとても悪いことをしました。反省すべき事件です」と南京大虐殺のことを具体的に教えてくれました。幼い私の心はとても複雑でした。今でも、その時のことを鮮明に覚えています。今思えば事実、たくさんの先生方が教科書に書いていないことでも本当のことを生徒におしえていたんだなと改めて思います。

 国家と国家の間では、過去の歴史上の事実を認める認めないで争っていますが、歴史好きの私から見ると、そんなことよりもっと大切なことがあるのではないかと思います。世界史を見ても日本史を見ても、この長い人類の歴史の中で、戦争が無かった時代は、珍しいことです。つまり『歴史は繰り返される』のです。戦争で人々は最愛の人や家族を失って悲しみ嘆き、悲惨な体験をしてもう二度とこんな思いをしたくないと反省します。

 しかし、その気持ちは、いつまでも続きません。年月が経つに連れて、だんだんと身近に戦争体験者がいなくなり、戦争をテレビや歴史の勉強でしか知ることができなくなります。事実、私たちの世代は、実際に戦争の悲しみを味わっていないし、次の世代は、もっと戦争を非現実的なものと感じるはずです。戦争を知らない人達が、国を統治することになった時に、戦争は絶対に起こさないとは言えないでしょう。歴史を勉強するということは、ただその流れや単語を覚えるのではなく、このことをしっかりと認識することが、より大切ではなかろうかと思います。そして、戦争という国家の犯罪の防止には、国際法で禁じるだけでなく、日本を含め、世界の人々が、普段から国際協調の精神を養い、政治や経済、外交など色々な分野で、さまざまな工夫を積み重ねることが必要であると思います。

 これが、私が若い世代の人々に訴えたいことです。そして、私は将来、中日友好、世界平和のために少しでも力になりたいと思っています。日本海のド真ん中に立って…。

岡山市中国歴史文化研究会講演会
  『最近の隋唐洛陽城跡発掘』  
            洛陽市文物工作隊副隊長 劉 富良
 8月25日、岡山市中央公民館第5ホールで、岡山市役所中国歴史文化研究会主催の講演会が開かれ、「最近の隋唐洛陽城跡発掘調査の成果」と題して、洛陽市文物工作隊副隊長・劉 富良氏がスライド約80枚を使って話した。その一部を紹介する。

白居易故居遺跡

 1992年に行われた履道坊の唐代の詩人白居易故居遺跡の発掘は最も重要である。
 故居遺跡は外郭城の東南部、今の洛陽市郊外の獅子橋村の東北約150mのところにある。中国社会科学院考古研究所洛陽唐城隊は2回にわたりこの遺跡を発掘した。発掘した総面積は7249㎡。履道里の西側には、2つの東西に平行する水路が発見され、幅9.20~11mの間で、長さは発掘された部分だけで128mであった。二つの水路は履道里西北隅で合流し東へ流れて行く。『唐両京城坊考』によれば「居易宅は履道西門にあって、家の西壁の下は水路に面している、水路はその家を回って北へ行く」とあって、この記載に合致している。邸内の中庭の平面は大体方形になっており、東西は長さ5.50m、南北が5.80m。東西両端は回廊を通じて北と東西の部屋につながっている。部屋は東西対称となり、その北はそれぞれ回廊につながっている。中庭の南側の排水路から南へ行くと白居易宅の門房遺跡で、東西両端は回廊を通過して北へ東西部屋につながる。東西総長5.90m、南北幅1.45m、中庭と南北に対面になり、基本的に同一軸線上にある。
白居易故居出土品
ここから分析すると、白居安易故居は南に門房があり、中央には中庭と庁堂があり、東西は部屋と回廊であり、北は上房という部屋があり、前後の庭のある両進式住宅であった。出土物には石の経幢(六角形や円形の石柱に仏号や経文を刻んだもの)、磁器、陶器、鉄器などがあった。

 五代の時代において、社会が不安定で、履道里の白氏故居は長年にわたって修理を受けず、後唐(五代の後唐)の荘宗の同光2年(924年)、ここを普明禅寺に変えた。北宋のときには大字寺園と呼び、元代初年に至り、故居は依然として存在していた。元末明初には、履道里あたりは畑となり、故居及び周囲の地表ははげしい破壊を受けた。現在では、古伊水路と池沼の遺跡の保存が比較的良好である以外には、壁の基礎と排水路の磚だけが残っていて、当時の住宅の大体の配置と規模をほんの少し窺い知ることができるだけである。

漢詩鑑賞  静夜思         盛唐 李白
しょうぜんげっこうをみる

うたがふらくはこれちじょうのしもかと

こうべをあげてめいげつをのぞみ

こうべをたれてこきょうをおもふ
 旅にあって、夜更けになっても、眠れないまま寝床の前に月の光が白く反射しているのをふと見た。その真っ白い輝きは、初めは地面に降った霜かと疑われるほどであった。やがて月の光と知り、頭をあげて山の端にかかっている明月をはるかに眺めているうちに、明るくて真ん丸い月から故里のことがなつかしく思い起こされ、知らず知らずに頭をうなだれては、しみじみと故里のあれこれを偲ぶのであった。
 
 秋の季節、故里を遠く離れて旅を続ける作者は孤独なわびしさにとらわれて眠れずに夜更けを迎える。ふと見やれば真っ白な反射光、それは霜かとまがう輝きであった。思わず作者は窓外の月を見やる。この月は遥かに遠い自分の故里を照らす月であり、また嘗て故里で仰ぎ見たその月であると思うところから、月が懐郷への媒介となるのである。転句と結句の「挙頭望明月 低頭思故郷」は対句の構成を具え、月を眺めて故里をしのぶ作者の姿が客観的にとらえられており、望郷、懐古の切ない心情が巧みに表出されている。

 作者の李白(701~762)は盛唐の詩人である。母は太白星(金星)を夢に見て李白を生んだので、字を太白とつけた。号は青蓮居士である。生地は明らかではないが、中央アジアの砕葉(現在のキルギスタン・トクマック)という説もある。幼少のころから父の李客とともに四川省の青蓮郷に移住した。少年時代から剣術を好み、遊侠の仲間に入り放浪の生活を送ることが多かった。

 42歳のとき都の長安へ行き、玄宗皇帝にその詩才を認められて宮廷詩人となったが、奔放な性格などがわざわいして長安から追放されて再び放浪した。56歳のとき安禄山の乱のおり、玄宗皇帝の子永王の軍に属して叛乱軍と見なされ、捕えられて、江西省の尋陽の獄につながれたこともある。

 李白の詩は、天馬空を行くがごとしと言われ、自由奔放な気風をそなえた天才肌の詩人である。同じ時代の杜甫(712~770)とともに「李杜」と並称される中国の代表的な詩人であり、杜甫が人生と社会に関心を寄せたのに対し、李白は自然と酒を愛した。杜甫の「詩聖」にたいして李白は「詩仙」と称され、特に絶句を得意とした。
(岡山大学留学生 馬 福山)

洛陽の伝説と民話 より (4)                              片山 義郎 編訳 
酔楊妃

 酔楊妃は洛陽の牡丹の優良品種です。紫色を帯びたピンク色の大きな花で、茎がやわらかいので大きな花をささえられません。そのため楊貴妃が酒に酔って顔を赤くして恥ずかしがっているかのように、花は頭を垂れています。楊貴妃の話になりますと、この酔楊妃と関係があります。

 楊貴妃は歌舞にすぐれた美人でしたので、唐の玄宋皇帝は彼女を宮中に召して貴妃の位を与えました。玄宗は楊貴妃を得てから毎日酒や遊びにふけって朝廷の政務をおろそかにし、楊貴妃の従兄で無頼漢の楊国忠に政治の大権を渡してしまいましたので、最後には安禄山や史思明の反乱を起こしました。

 安禄山の反乱軍が都の長安に迫ったとき、玄宗は楊貴妃をつれて四川へ避難しようとしました。彼らが長安から百里余り西の興平県馬嵬坡まできますと、大雨が降って道はぬかるみ前進できません。兵士たちも空腹と疲労で動こうとせず、「皇帝と貴妃は毎日ぜいたくばかりしていた。国舅〔皇后や貴妃の兄弟に対する尊称〕の楊国忠は権力を握って、おれたちを人間扱いしなかった。今おれたちは飯もろくに食えないのに、戦争などできるものか。それでも国舅は皇帝と貴妃を守れというのか!」などと言いました。
絶世の美女と謳われた楊貴妃
 兵を指揮する将軍は、兵士たちの気持ちが変わってきたのを知って楊国忠を殺しましたが、それでも兵士たちは動こうとしません。将軍は、楊国忠を殺した以上楊貴妃も恨みを持つだろうから、報復を避けるためには楊貴妃も殺した方がよいと考えました。そこで将軍は玄宗に軍の内情を報告し、楊貴妃を殺すよう要求しました。玄宗は楊貴妃をかばって再三命乞いましたが将軍は聞き入れず、早く自尽の勅命を出すよう催促しました。そのとき楊貴妃はかげで事情を聞いていて大へんつらい思いをしましたが、玄宗が困り果てているのを見るに忍びず、自分が死んで玄宗の恩に報いようと決心しました。

 楊貴妃は衣服や髪を整えて玄宗の前にひざまずき、別れを申し述べました。玄宗は涙ながらに別れの盃を手ずから与えました。楊貴妃がそれを飲み終わりますと、ほんのりと頬を染めましたので、玄宗はいっそういとおしくなり、貴妃の袖をつかんで放そうとしませんでした。楊貴妃は歯をくいしばってさっと玄宗の手を振り切り、物陰へ走っていって自尽しました。将兵は楊貴妃が自殺したと聞くと恨みの気持ちも静まって、ようやく馬嵬坡をあとにしました。玄宗は将兵にせかされて楊貴妃の後始末もできぬまま、涙とともにあわただしく部隊とそこを去りました。のちに民衆たちは彼女の遺体を埋葬して墓を建てました。楊貴妃の亡霊は生前、民衆のために何も良いことをしてやらなかったのに、自分が死ぬとみなが葬儀をしてくれたので恥ずかしくてたまらず、思わず頭を垂れてしまいました。亡霊は民衆の恩に報いようと心に決めました。

 やがて楊貴妃の墓に一株の牡丹が生え、紫色を帯びたピンク色のきれいな花をつけました。しかしいつも頭を垂れています。ある者は、楊貴妃は民衆の思いやりに恥ずかしく思って頭を垂れているのだと言いました。またある者は、楊貴妃は生前よく酒を飲んだので、これは酔った姿だと言って、この牡丹に「酔楊妃」という名をつけました。

ちょっとチャット(8) 平和塔が望ましい-小泉「靖国参拝」をめぐって-  
                                         協会理事 宮本 光研  
 今夏、日本中でヤスクニヤスクニという声が、蝉の鳴き声と重なって聴えました。

 小泉首相が靖国神社へ参拝してなぜ悪いのか。日本人として、人間として参ったのであり、他から責められる必要はない。参拝しないものは日本人、人間としてまるで欠格者、のようでもありました。

 それでも議論が沸とうしたのはよいことで、首相のお手柄か。その熟慮している間に靖国神社の実体が知れてきて、人々が否応なく云々するようになった。

 いわゆる戦争犠牲者の「官軍」のみが祭られ、政府に弓を引いた人々の亡魂は祀られることはない。また軍人以外の、一般日本人は対象とされない。靖国はついに軍事施設であるらしい、とか。

 こうしたことに対し、神道は古来、戦争で亡くなった敵方、相手の霊をまつってその「怨み」を魂鎮めるのが本当、と梅原猛さん。山折哲雄さんは戦没者の弔い方について「やはり国立墓地をつくるべきでしょう。その際、万物生命教というべき(神道の)立場からいえば、アジアの人々もA級戦犯も含めた全世界の戦没者を祀りたい」と主唱した。

 そうだ!判ったことは日本は戦後、中国や韓国その他の戦争犠牲者の亡魂を弔ったことがない。ひたすら自国の方を向いてのみ拝んできたことだ。これでは戦没者の御霊は鎮まらない。

 時代は国際化社会。人間として、日本人として国際平和を祈る立場から戦没者国際墓苑を作ったらいい。または平和記念塔を立つべきだろう。

 ささやかでいい。私たちは日中永遠の友好を願うこころから岡山-洛陽の双方に祈りの場、メモリアムがあっていい。今までそれが無かったし、拝んでも来なかったことが今夏にも判明しました。

 小泉国会発言で今一つ、日本では亡くなったらみんな仏さんになるって言うでしょう!と。?と感じた人は多いようだが、これは「だれでも仏に成れるその可能性=仏性をもっている」「仏になりたい人、または成ってもいい人は成れる」「山川草木悉皆成仏」ということであり、そう願わない人は成らなくていいし。全く自由ということです、国政の場で首相が言うのはやや限界があったようです。

活動日誌
8/20 会報148号発行
8/25 中国歴史文化研究会講演会
8/25 国際姉妹校2001こどもサミット会議
8/30 岡山・洛陽インターネット友好囲碁対局
9/13

中国三誌友の会、第103回例会

会員消息
【表彰】
宮本容子さんの作文が人民中国誌の作文コンクール第2等賞に選ばれた。

【お悔み】
協会元理事・山本遺太郎氏

中国関連消息
岡山空港滑走路延長記念『観光と特産品フェア』
 岡山空港の滑走路3,000メートルが完成したので、これを契機に岡山空港をアピールし一層空路利用の促進を図るため、岡山空港滑走路延長記念「観光と特産フェア」が開催される。
日時 10月6日~8日の3日間、10時~16時
場所 岡山空港、新貨物ターミナル(岡山市日応寺)
主催 岡山空港滑走路三千米供用開始記念事業実行委員会
中国東方航空
内容 岡山空港と空路で結ばれた地域の観光PRと特産品の展示販売。
◇協会から「杜康酒」を出品展示する。
 ステージアトラクション
◇中国お土産館コーナー
 中国民芸品・水ギョウザ、お菓子、その他。

先憂後楽
 株で儲かったのでサンタナの新型を30万元(日本円で約450万円)で買ったよ、と上海の友人が熱っぽく語る。ニュースをこまめに見て、中国指導者の発言などを分析し、上がりそうな株をチェックしているのだそうだ。携帯から簡単に売買はできるが仕事中は奥さんに指示しているという。

 本業では儲からないので、少なからぬ人々が株をやっている。彼の同業者も多額の外貨を彼に運用を任せているそうだ。

 2008年の北京オリンピック開催、本年秋の上海でのAPEC開催と、時期は異なるが大きな国際的イベントを誘致し、国際水準で世界のお客様を迎えようと、ハードソフトの両面で整備が急ピッチだ。他の大都市や地方への波及効果も見逃せない。中国はここ数年で、見違えるほど発展することは間違いない。

 それにしても、最近の日本に対する旅行ガイドや日本担当達の論調が同じなのに驚く。いわく、靖国や教科書問題で、日本は損してる。欧米は自国の利益を考えて政治をしている、もっとうまくやればいいのに、というもの。

 もちろん、目先の損得だけで外交はするものではないのだろうけど、もう少し長期的視野にたった外交戦略が構築されないものだろうか。水増しばかりが指摘され、本来業務がおろそかにならねば良いが(松)


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