2001年10月
平成13年10月
  150号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
12月1日  協会設立20周年記念祝賀会 第2回理事会で決定
 9月18日、協会事務所で第2回理事会が開かれ、8人が出席して次の4項目について協議し、原案通り決めた。

1. 『洛陽の伝説と民話』の出版
2. 会設立20周年記念協会史Ⅱ(1996年10月~2001年6月)の出版
3. 20周年記念レセプション。
4. 事務所の移転

◆『洛陽の伝説と民話』の製本は11月中旬とし、1,500冊印刷する。配布先は次のとおり。

①協会分700冊
②編訳者謝礼70冊
③洛陽市、中国大使館等へ寄贈20冊
④岡山市立小学校に寄贈168冊
⑤岡山市立中学校、高校に寄贈100冊
⑥岡山市立公民館、図書館等に寄贈100冊
⑦岡山市、岡山市教育委員会分100冊
⑧日中友好団体、マスコミに50冊
⑨予備(協会保管)216冊
(非売品とする)


『洛陽の伝説と民話』の表紙
◆協会設立15周年記念として発行した、15年史に追補版として5年分を発行し、12月1日の祝賀会に間に合わせる。
◆20周年記念祝賀会を12月1日(土)11時30分から、岡山プラザホテルで開く。
◆事務所を事務機能と会議機能(中国語教室)に分けるため2階へ移転する。10月7日移転完了

20周年記念祝賀会のご案内
 岡山市日中友好協会は本年設立20周年を迎える事となりました。

 1981年9月に日中友好を願う多くの人々が集い、それまで存在していた友好組織を再編し、思想信条、政党政派を越え、日中友好の一点で結集した市民組織としての岡山市日中友好協会を設立致しました。

 この20年間、岡山市・洛陽市の友好都市交流を始め、中国各地との文化、経済、教育、福祉等の交流を通じて、幅広く日中両国の相互理解と相互信頼を促進してまいりました。そして中国を正しく理解するため、各種の日常活動を展開してまいりました。この20年をふり返り、さらに新たな時代への展望を語り合う節目として、下記の日程で祝賀会を開催することとなりました。会員のみなさんにおかれましては、公私ご多忙のこととは存じますが、是非ともご参加いただきますようお願い申上げ、ご案内とさせていただきます。

 尚、ご出席の皆様には会場にて20周年特別記念出版『洛陽の伝説と民話』ならびに協会史№Ⅱ(1996~2001)を差し上げます。
  
1. とき   2001年(平成13年)12月1日(土)
    11時受付開始
    11時30分開会
2. ところ 岡山プラザホテル
3. 会費 7,000円
以上
 
「岡山あいフェスティバル2001下石井公園」
 中国人留学生の水餃子はどうしてこんなにうまいのか
中国人留学生のブース
中国お土産館
「杜康酒」と「ギョウザ」コーナー
岡山空港滑走路延長記念 「観光と特産品フェア」開かる
 1988年に2,000メートル滑走路で開港した岡山空港は93年に2,500メートルに延長。98年10月から再延長の工事を始め、このたび3,000メートルの滑走路が完成した。今までは、東はハワイのホノルル、西は中国の上海や北京。南はオーストラリアのシドニー、北は米国アラスカ州のアンカレッジまでであったが、3,000メートルに延長されたことによって、超大型機が離着陸できるので、米国の西海岸サン・フランシスコやロスアンジェロス、西はイギリスのロンドン、南はオーストラリア、北はロシアのモスクワなど10,000キロ圏に伸びる。このため人の往来が盛んになるだけでなく、物流の発展も期待される。西日本各地から各国へ売る輸出商品が多数集まり、同時に、諸外国からも輸入商品が西日本各地向けにどんどん入って来ることが予想される。

 岡山県は、10月4日(木)から正式に営業を開始し、午前10時よりテープカットがあった。また、6日から8日までの3日間、岡山空港新貨物ターミナル(岡山市日応寺)で、岡山空港滑走路3,000メートル供用開始記念事業実行委員会主催の、岡山空港と空路で結ばれた地域の観光PRと特産品の展示販売をする「観光と特産品フェア」が開かれた。中国お土産館コーナーには、上海シルクフラワー、パンダのぬいぐるみ、中国民芸品、掛軸、水ギョウザ、お菓子、中国茶等が並べられた。協会からは、「杜康酒」が出品された。中国コーナーには、たくさんの人が集まり賑わった。

新刊案内 『十四歳の森林』― 文化大革命直前の中国・一九六三冬~翌秋の物語―
        董 宏猷 著・家野四郎 訳 文芸社:1,300円
日本の皆様へ (董 宏猷)
 この小説の中心となっているのはみんな「詩」である。

 『十四歳的森林』はつまり一つの森林の史詩であり、人間一代の運命であり、歴史であり、また成長の過程中の悲壮な詩編である。

 日本の読者の皆様は、中国の長江(揚子江)をご存じだろう。長江の三峡のことも、また三峡周辺の原始林「神農架」のことも。

 なぜならは、昔から今まで神農架には、ずっと「野人」(原始人)が住んでいるという伝説があるからだ。わたしの家は、その長江のほとりなのだが、今までに何度も神農架に行って、山を越え嶺を越えて「野人の謎」を解きあかそうと思った。1990年、神農架のはずれにある「大老嶺」と呼ばれる国営の営林所で、造林をはじめた一群の人たちに会って、無駄話を始めたことから、ここには野人の足跡がかなりあったことを知った。

『十四歳の森林』の表紙
 そして1949年の中華人民共和国成立以前には匪賊の巣窟があった。この営林所をはじめた一群の人たちが三峡付近の宜昌市から、この人跡稀な原始林の国営の営林所へ来た時は、やっと13、4歳、年長の者でも15、6歳で、政府の呼びかけに応じて街から山奥へやって来たのだ。新中国の成立以後、このように志願して農村や山間地区へ来て農業に従事する都会の若者たちに、政府は奨励策を取った。
 学校で学んでから、農村へ行って働くという都会の若者たちは「知識青年」と呼ばれた。20世紀、60年代初め、中国は3年続きの自然災害を受けたが、都会の若者たちの就職問題を解決するために、政府は、農場、営林所、茶栽培場で働くよう呼びかけた。

 俗に「上山下郷」(山へ上がり、田舎へ出かける)と言ったのだ。

 『十四歳的森林』の主人公は、この時代の人たちで、つまり中国当代の「知識青年」の先駆者だ。馴れない生活の苦しさ、肉体労働の苛酷さの上に、虎や狼に包囲されている中で、毒蛇や毒虫におののきながらも森林を開拓していった若者たちの物語。

 今、この森林の物語、この営林所の創業者と開拓者の物語を日本の読者に紹介して下さった家野四郎さんと、今は亡き掬子夫人に感謝する。

読者の皆様へ (家野四郎)
 著者董宏猷さん(湖北省武漢市在住)との、年齢差を越えた交友関係は手紙ではじまった。そして彼の大作、長編「十四歳の森林」の翻訳に取り組んでから、手紙の往来は頻繁になった。それは私の質問が多くなったことが大きな原因だ。

 短編の「中国の子供の夢百話」をやっている間は、そんな必要もなかったが、長編ではあり、物語の舞台が湖北省、そして大人、子供をまじえた方言でのやりとり、セミ・ドキュメンタリーとも言うべき事実に基づく構成だけに、地理的、歴史的な調査や確認までしなければならなくなったとにかく大仕事だった。

 そして「第一楽章 冬」の目鼻がついたところで、ついに妻は昇天してしまった。

 なんとか間に合わそうとしたのだが…。

 それではるばる三峡まで出掛けて散骨(撒骨灰)したのである。

 ところがそれが以外な反響を呼んで、地元武漢市のテレビ、新聞にまで伝えられたのには驚いた。それといままでほとんど知られていない60年代の中国の内情、特にティーンエイジャーの事などが興味深いという皆さんの声に励まされ、「続編 春、夏、秋」を一気に1年半ばかりで書き上げられたのは友人たちの援助、協力のお陰だと思っている。とにかく董宏猷さんの長編が、外国で出版されたのはこれが初めてなのだ。

 台湾では数年前に出版されすでに多くの人に読まれているが、台湾では翻訳という手間を全く必要としないから、話は別である。

 このようないろいろの経緯を経てこの本は出来上がったのであるが、著者にも喜んでもらえたし、もちろん私自身にとっても一世一代の大作だから、一人でも多くの人に読んでもらいたいものと思っている。

中国最新情報
北京女性にタトゥーブーム
 北京では自分の美しさを表現するために、タトゥー(刺青)を施す女性が増えている。

 最近、北京の街では、虎や龍や燃えているハートなど、色鮮やかなデザインのタトゥーを施した女性をよく見かけるようになった。

 たいていは15~30歳くらいの若い女性だが、まだ13歳の少女もいる。値段は、サイズが小さくて単色のものは10元(約130円)から、普通は50元も出せば、それなりのものができる。しかし、これはいずれもシール式の場合。本当に彫るとなると100元はかかるという。

 20歳の李さんは、よくタトゥーショップに足を運ぶ。ある時、胸に蝶をあしらってディスコに繰り出したところ、「みんなの目を釘付けにした」ということだ。

5,000人の晩餐会 ギネスに申請
 9月17日~19日に南京で開催された第6回世界華商大会を記念して、南京市政府は、空前の規模の晩餐会を盛大に催し、海外の華僑3,000人と中国国内の企業家2,000人計5,000人近い企業家が南京国際展覧センターに集った。

 「天下一の晩餐」といわれたこの歓迎晩餐会には、南京を代表する10軒の高級レストランが料理を提供した。これに先立ち、主催者側は責任者を北京人民大会堂へ派遣し、中国政府主催の晩餐会のメニューや作法について学習させたという。

 この晩餐会に参加したさまざまなサービス関係者は、各レストランの調理師をはじめ、料理の運び人やコーディネーター、各テーブルのウェイトレスなど、10,000人近くに及んだ。これほどの規模の晩餐会の開催は世界でも初めてであり、ギネスブックに申請することになった。

漢詩鑑賞 涼州詞       唐 王翰
葡萄美酒夜光杯、
 葡萄の美酒 夜光の杯

欲飲琵琶馬上催。
 飲まんと欲すれば 琵琶 馬上に催す。

酔臥沙場君莫笑、
 酔うて沙場に臥すとも 君笑うこと莫れ、

古来征戦幾人回。
 古来 征戦 幾人が回る。



【通釈】
 美味しい葡萄酒と夜光杯、
いざ飲もうとすれば、琵琶の音が馬上に起こる。
 酔って砂漠の戦場に眠っても、君よ、笑わないでおくれ、昔から、戦いに出て、何人が無事に帰ることが出来たと思うのか。

 涼州は今の甘粛省武威市で唐代には河西節度使が駐在していたシルクロードの要衝です。ですから、西域との戦いに多くの兵士が戦場へ送られてきました。その悲しい思いがこの詩には溢れています。葡萄酒がシルクロードの名産であったことから(現在も美味しい葡萄酒を飲むことが出来ます)兵士は葡萄酒を飲んだのでしょう。

 それは、夜光杯という月の光を受けて輝く杯で飲むと美味いとされています。この夜光杯は、現在もシルクロードの名物となっていますが、それは、祁連山脈の黒色のもので、唐代のものと同じがどうかは分かりません。葡萄酒を飲もうとすると琵琶の音が馬上から聞えてくるのです。私たちが読むとロマンテックに聞えますが、どうも違うようです。この琵琶の音が馬上から聞えてくることについては諸説があります。

 一つは、唐代では出陣の合図が琵琶で告げられたというもの。又一つは、唐代の軍隊の組織で軍楽隊がありその中に琵琶の楽士がいるというものです。前者であれば、出陣の合図ですから酒を飲む楽しみも戦場への思いにかき消され、後者であれば、やはり哀しい音色であったように思います。ですから、詩人はいうのです。酒に酔って眠ってしまってもだらしないと言わないで欲しい、生きて帰ることが出来るか分からないのだから。

 戦争は、人類の歴史の中で止むことのない悲劇です。そんな中に身を投じた人々の思いを王翰は切々と歌うのです。ここでいう沙場は単に砂漠を指しているのではありません。本来は砂漠だったかも知れませんが、度々詩に歌われ、それは同時に戦場を指す言葉となりました。戦争が西域の砂漠で行われることが多かったからです。このような辺塞詩が都に伝えられるたびに、留守を守る家族も又悲しみをこらえることが出来なかったことでしょう。

 起句で歌われる葡萄の美酒と夜光杯がシルクロードへのロマンをかき立てる一方で、結句の悲しさは凄まじいばがりです。私はシルクロードを訪れるたびに、楽しい旅に平和をかみしめています。

棚橋篁峰・日中友好漢詩協会理事長(ピープルズ・チャイナ2001年1月号より)
洛陽の伝説と民話 より (5)                              片山 義郎 編訳 
関林 関羽埋葬

 洛陽城の南15里の所に関林という大きな町があり、そこには壮大な規模の廟があります。本殿の神像はどっしりとしてまことに壮観です。この廟こそあの有名な関林廟で、三国時代の蜀の将軍関羽の首級が埋葬されているので、当地の人々は「関帝廟」と呼んでいます。

 関羽は湖北省の麦城で呉の孫権の部下に殺されたと言われています。関羽は蜀の大将であり、かつて劉備や張飛と桃園で義兄弟の契りを結んだ仲ですので、孫権は自分の部下が殺したとなると劉備の怒りを買い、ただではすまないと思いました。

 孫権は蜀や魏との関係から事は重大だと考えましたので、関羽の首を木の箱に納め、部下に夜を徹して洛陽へ走らせ、魏の曹操に献上させました。曹操に手柄を報告するのが名目ですが、実際は関羽を殺した罪を曹操にきせて蜀と魏を戦わせ、呉は高見の見物をしようという魂胆でした。しかし曹操は早くから孫権の腹の中を読んでその裏をかき、蜀の劉備から恨まれぬために丁重に関羽の首を迎え、王候の礼をもって埋葬しようと考えました。

関羽像
 その日、曹操は城を出て竜門で関羽の首を迎えました。彼は首を納めた木箱を見るなり、もっともらしく涙を流して哀悼の意を表しました。そして大勢の兵士に前後を守らせて洛陽城へ護送しました。ところが今の関林のある所まできますと、突然旋風が起こって木の葉や石ころを巻き上げ、天地は真っ暗となり、目も開けれてぬほど吹き荒れました。

 旋風はすぐにやみました。見ると、暗かった空の雲の合間から日の光がもれてきました。舞い上がった木の葉や草も静かに落ちてきて、すべてがもとの静けさにもどりました。しかしみながおどろいたのは、関羽の首を納めた木箱がなくなっていたことです。さらに旋風が起こった場所に土が大きく盛り上がり、小山ができていたのです。

 曹操が関羽の首は旋風に巻かれてその盛り土に中へ入ったのではないかと思っていますと、突然盛り土から白い煙が噴き出しました。白い煙はぼんやりとですが関羽の姿になって真っ直ぐ空へ昇っていき、すぐに消えてしまいました。そこで曹操はこの盛り土を関羽の墓とすることにしました。

 墓が完成すると曹操は大臣たちをひきいて墓地へ行き、関羽のために丁重な祭典をおこないました。古くから聖人の墓地を「林」と称していましたので、曹操は関羽を葬った墓地を「関林」と名づけました。このときから言い伝えられたのが風習となって、町の名となったのです。

お知らせ
 編集中の「洛陽の伝説と民話」の中から5編を選んで紹介してきました。やっと本ができあがりました。12月1日の協会設立二十周年記念祝賀会出席者に記念品として贈呈されます。

ちょっとチャット(9) 山水画を眺めて                   協会理事 洞  富美男  
 写真は今回日本の外務大臣賞を受賞された、私の古い友人でもあります上海の「張弛」先生の作品です。

 さて、『山水画』はまさに東洋の美意識を代表するものと言えないでしょうか。それは西洋画と根本的に異質の芸術でもあります。

 私は仕事の関係もあり、多くの『山水画』にふれ、また山水についてさまざまなお話しをうかがうことがあります。なかに「山水画は難しい」と言われる方がおられます。『山水画』も絵画ですので、そんなに難しく考えず心に感ずるままに楽しまれたら良いのですが、確かに中国『山水画』には、見る者にそのレベルを問う一面が有り、難しいと言えるかもしれません。これは本来『山水画』が千数百年前、当時の文人大夫の余技として始まったため非常に精神性の高いものとして現在まで伝えられていると考えられます。西欧との比較においても、ルネサンスを千年以上も遡り、堂々と芸術を意識した作品や美術論を残しています。例えば1500年前南北朝の[謝赫]の有名な『古画品録』の《六法》にもその筆頭に[気韻生動(きいんせいどう)]として、絵画に高い精神性を要求しています。
 
 ふり返って現代わが国で、ルノワールやピカソを知らない人はいませんが『山水画』について知る人が少ないのは事実です。無論教育の問題ですが、私は戦後あまりにも欧米の方を向き過ぎた結果ではないかと思っています。そのため自らの美意識すら曖昧となり刹那に流されているのではないでしょうか。老子の句に『自 知 者 明(みずからをしるものはあきらか)』とあります。自分を知ること、現代的に言えばアイデンティティの確認とでも言いますか、その自分自身の文化や美意識を真に知ることこそ、今日の国際化社会、また人類共生の理想に近いものと考えるのは、『山水画』の話しからの飛躍でしょうか。

 自らを知らぬ者こそが独善となり、文明の衝突を巻き起こしてしまうのでは。
第17回全国水墨画秀作展
  外務大臣賞「波涛」 張弛
 私は日本人の美意識を知る上でも、今一度中国『山水画』に目を向けてはどうかと思うのです。

 今、中国『山水画』の美に向かう時我々日本人は、経済優先で置き忘れてきた何かを見付け出せるかもしれません。まだまだ中国に学ぶものは尽きないなぁと、山水を眺めつつ…。

活動日誌
9/18 第2回理事会
9/19 会報149号発行
10/5 岡山あいフェスティバル2001
10/6 岡山空港滑走路延長記念特産品フェア
10/7 事務局、2階へ移転
10/11

中国三誌友の会、第104回例会

会員消息
【お悔み】
清水昭太さん

【出版】
家野四郎氏が『十四歳の森林―1963年冬~翌秋の物語」を出版した。

中国関連消息
敦煌美術展
 中国甘粛省の莫高窟蔵経洞発見100年を記念して、10月19日(金)から11月18日(日)までの1ヶ月間、岡山県立美術館で敦煌美術展が開かれる。

 実物の経巻、仏像、石塔などは勿論のこと、磚、調色碗などの出土文物が出展される。さらに敦煌研究院の全面的な協力で復元された莫高窟第二四九窟、第一五八窟、蔵経洞をはじめ、華やかな壁画の模写、塑像の複製品なども展覧されるが、これらは模写、模造というレベルを越え、芸術作品として評価に耐える品々である。

 シルクロードのオアシス都市敦煌は、多くの人や文物が行き交い、仏教文化の栄華が咲き誇った地で、周辺には、いくつもの石窟寺院が作られた。うち4世紀から1100年の造営修復を経て今に四九二窟を伝える莫高窟は、壁面は延45,000㎡に及ぶ世界最大規模の石窟であり、内容も豊富である。

観覧料 前売り・800円 当日・1,000円
開館時間 9時~17時
休館日 毎週月曜日

観音菩薩立像
(晩唐・五代)
先憂後楽
 9月21日から9日間シルクロードの旅に随行した。烏魯木斉で天池への観光に出かける予定だったが、前日になって大きな芸術的催しがあるため、いけないかも知れないと通知があった。あれこれ情報を集め、地元旅行社による懸命の努力のおかげで予定より遅めだったが、所期の目的を果たすことが出来た。

 この種のことは中国では珍しくないが、今回はその警備ぶりが尋常ではなかった。テロ事件を警戒しての措置ということが後でわかった。

 10月8日、いよいよ米英の共同攻撃が始まった。テロに対してだれも支持するものはいないだろう。その撲滅のために世界各国が協調することは当然のことだ。しかし、アフガニスタンへの攻撃で事態が解決するのだろうか。犠牲者が出て怨念がまたテロの引き金にならないだろうか。

 『正義の戦い』と『聖戦』。戦争はいつもそうやって、理由付けられ起こってきた。そして多くの罪なき血が流されてきた。英知を結集して平和な世界を実現できないものだろうか?(松)


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