2002年6月
平成14年6月
  155号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
日中国交正常化30周年記念洛陽牡丹花コンサート開催 4月19日~5月2日
友好の花開く!
 友好都市・洛陽市からボタンの調べを携えて2名の芸術家が来岡した。1人は古筝(琴)演奏家の王小麗さん、そしてもう1人は、歌手の劉暁紅さん、引率兼通訳は洛陽市外事弁公室の方双建さん。

 一行は4月19日に岡山空港に到着し、5月4日に帰国するまで精力的に公演してまわり、各地で日中友好の大きな花を咲かせた。

市長室で牡丹の歌!
 来岡のその日、空港から岡山市役所へ市長表敬訪問。会見した萩原市長は笑顔で出迎え、昨年実施した岡山市民訪問団の時のことなどを懐かしく話した。終わりになるころ、劉さんに歌を聞かせてほしいと注文し、市長室でおそらく初めてであろう美しい声が響きわたった。

オリエント美術館ホールでのギャラリーコンサート
 ホテルで荷を解く間もなく、その夜6時30分からの牡丹コンサートに臨んだ。約80名の聴衆を前に旅の疲れも見せずそれぞれ2曲ずつ演じた。

 リハーサルの時間もなかったため、音出しや音響設備などうまくいかなかったところもあったが、参加者の暖かい理解を得て、1時間のコンサートはあっという間に終わった。

 翌日から小豆島、大阪、岡山、玉野、島根・大根島とまわり、4月30日には新見・千屋に到着。早速、中国信陽と民間交流を続けている信陽会や新見市から牡丹公園の管理を委託されている成地振興会の人々の暖かいもてなしを受けた。

千屋小学校訪問
 5月1日の午前中には千屋小学校を訪問し感激式や給食体験など心温まる交流を経験した。歓迎式では児童が歌や楽器演奏を披露した後、児童が中国のことについて訪問団に質問していた。

千屋牡丹園でコンサート
 新見市は中国河南省信陽市と友好都市を結んでおり、友好の記念として中国から贈呈されたのが洛陽の牡丹2,000本。数ある牡丹公園の中でも中国牡丹の数は岡山一だ。

 この牡丹を一堂に集めたのが千屋牡丹園。何度かの危機を乗り越え今では立派に毎年大きな花を咲かせ、市民を和ませている。

 この園の入口にあるのが新陽門(新見の新と信陽の陽をとって名づけられた)で、コンサートはその前で行われた。地元の小学校や中学校の生徒やニュースで知った市民が駆けつけ、すばらしい琴の音と歌に酔いしれていた。つぼみを膨らませ開花を待ち望んでいる牡丹も喜んでいるようであった。

 また、この日は期せずして10年前にこの牡丹の輸入に携わった人が出揃い、当時の苦労話に花が咲いた。洛陽市の方さん、出荷した牡丹畑の劉さん(現在島根大学大学院留学中)そして日本側から千屋の小田勝雄さんら。コンサートの後、新陽会の主催で歓迎会が行われ、一行は夕方には最後の訪問地津山へ向かった。

津山へ
 津山では牡丹寺として名高い院庄・清眼寺でのコンサートに臨んだ。ご住職の阿形良崇さんの開会挨拶の後、約100名ほどの檀家の人々を前に汗をかきながらの熱演が本堂に響き、参加者は感動に酔いしれた。

 清眼寺では中国牡丹も導入したい考えで、今後洛陽との友好が期待される。

 このたびの訪日は協会が招聘したものだが責任者は理事の宮本光研氏(現、京都仁和寺教学部長)で、財政的な面やスケジュール調整など奔走された。準備不足もあり、完璧とはいかなかったが、各地で受け入れていただいた方々のご尽力で大きな成果をあげることができた。このネットワークが活かされ、友好の輪が広がることを念願したい。(協会理事 松井三平)

お礼のご挨拶
 先頃、中国洛陽の音楽家をお招きし「陽春歌ごよみ―牡丹コンサート」を巡演致しましたところ、格別のご協賛を頂きました。おかげさまで所期の目的「日中友好交流」を果し、牡丹花に行く春を楽しむことができました。ありがとうございました。

 都合10回、各地で心と歴史にのこる交流コンサートが開演。とくにホームステイは思い出深い友情の交歓になりました。

 王小麗、劉暁紅さんは洛陽を代表するスターであり、心根もあたたかいお人柄。団長の方双建氏は言うまでもなく最高の友好人士、親友です。3人に心から感謝の拍手を送りたいと存じます。

 それに致しましてもご協力の皆々様、お引受けのご寺院、園長のご各位に深甚の感謝を申しあげます。

 今後とも両国の友好、交流発展にご協賛のほどをお願い申し上げます。ご一緒に洛陽で毎春開催される「大牡丹花会」に参加いたしましょう。すばらしい人生の春を楽しみ、心ゆくまで友情を深めたいと念願し、ご挨拶といたします。(担当理事 宮本光研)

 追伸、洛陽からの連絡で3名、無事に帰省されたとのことです。
「長江下り」の旅に思ふ(1) 2002.4.7~12                         三島 靖子
日本人の重慶行きを拒むがに 黄砂かすみて機は未だ来ず

半世紀を()る防空壕に「日本兵」の 言葉を何故かガイドは言はず

夏来れば四十度を越すとふ重慶に 哀れ散華の兵らを偲ぶ

三千万の工業都市化のプロジェクトに 日本技師らのゐるは頼もし

風荒るる舳先に佇む予後の夫 脱ぎつ重ねつ気を抜かずゐる

双眼鏡にて捉へし孤影の(いづく)んぞ 「蜀の桟道」辿るを見たり

絶壁に木棺懸けしは仙人か 思ひに遊ぶ「長江下り」

長江文明は日本の稲穂のルーツとぞ 米の美味さに親しみ覚ゆ

雨煙れど長江を下船のその度に われ晴れ女と思へばたのし

神農渓の冷たき早瀬に舟を曳く 裸の男ら短命とぞ聞く

(作者は三島前会長夫人)

日中国交正常化30周年記念 
岡山市日中友好協会友好訪日団 洛陽牡丹祭りと三峡クルーズの旅 4.12~4.19
初めての中国旅行                                      糸島 達也
 一行は岡山市日中友好協会の片岡会長を含め洛陽親善旅行12名である。岡山から上海の1,200キロは飛行機では近い。真新しい上海空港は日本の空港よりも近代化している。そこで乗り換えて洛陽へ1,200キロ。日本の春は春霞であるが、中国では黄砂の霞で晴天でもかすんでしまっている。雲がないのに向こうが見えないし、飛行機は黄砂の上を飛んでいる。黄砂の霞が第一の中国のキーワードである。

 洛陽に着くとすぐに歓迎の夕食会だった。地酒がおいしく小さな猪口で乾杯し、内底を見せ合うのを知った。翌日町を見ると一様に10階建てほどのアパート群が建っており、人口500万の町も伝統のある古い家がないのはわびしい感じがした。国家管理で一挙に建て替えてしまったようだ。洛陽の牡丹園はちょうど見頃で人であふれていた。その規模は大きな球場よりも大きいかもしれない。公式な歓迎会、通訳を介しての会話。

 洛陽から黄河沿いに河南省都鄭州までは肥沃な大地で、どこまでも小麦や色々の作物が続いているが、その沿道には紫がかったピンクの花や満開の桐が続いている。桐の木のなんと多いことか。桐が第二のキーワード。第三は肥沃な大地。重慶まで1,200キロ。

 重慶は特別市で3,200万人、その中心区500万人の書記長が歓迎会を開いてくれた。そこで岡山大学経済学部の大学院に留学している学生のお父さんに、たまたまお会いすることができ、その時の写真を帰岡後学生に送った。重慶市は現在建設中20階建て以上の建物が180棟、ものすごい建設ラッシュである。どの町もビルが林立するさまはアメリカと似ている。第四のキーワードは建設ラッシュ。

 重慶から長江下り1,200キロ。長江下りは3日間で、神州号という5階建ての豪華客船、レーダー完備で夜間も航行し、煙突が見えない船である。雨が降ることが多かったので、水墨画の通りである。水墨画は特殊な遠近法を使って書いたものと思ったが、実は見えるままを書いているように思った。川縁は渓谷で山が迫っているところが多かったが民家は少ないのに山頂に向かって段々畑があり、人手が余すところなく加わっているのが分かる。川岸に見える小さな家にも白いパラボナアンテナがある。衛星放送が行き渡っているようだ。夜間に数時間にわたって絶え間なく稲光が続いた。初めはまるで湾岸戦争の夜間攻撃のように思えて驚いた。それにしても自然のスケールも日本とは違うようだ。

 長江には三峡ダムを建設中で完成が間近い。水没するために移住するのが150万人とか。川辺には100メートルほど高いところに新しい街ビルがあちこちで出来あがりつつある。そのためか長江下りの途中でも多くの砂利採取船と運搬船を見た。それだけを見ていてもいかに中国が建設ブームに沸いているかが分かった。

 初めて中国旅行で感じた若者の活気は30年前にシンガポールで感じた活気に似ている。おそらくあと10年もすると現在のシンガポールや東京と同じように成人した街になるだろう。

 同行の12人は老若男女、良きガイドも加わって1週間の楽しい旅を元気に過ごした。残念ながら中国語は謝謝と再見しか聞えなかった。通訳の有り難みがよく分かった。本場の四川料理はおいしかった。しかし辛さは自宅の方が強かったのには驚いた。おみやげにはきれいな石のハンコを買った。物珍しく使っている。(岡山済生会病院副院長)

第二の故郷「開原」を訪ねて                  中国三誌友の会会員 武田 信昭
 開原駅は昔から人口の割りに派手な駅舎だった。子供心に焼き付いたままの赤レンガの威容がそのままだった。

 ここ開原は、奉天(瀋陽)と新京(長春)との中間にあって、当時、大豆の集散地として栄えた小都市である。私は先ず駅の売店で開原市の地図を求め、思い出の食堂で休憩をとりながら、今日の訪問先のスケジュールを立てようと、駅の売店で「開原市の地図を下さい。幾ら?」

 金を払おうと、財布を取り出すと、いつの間にか私の周りに黒だかりの人垣ができていて、事もあろうに私の財布の中を覗き込む。私は一瞬、恐怖を覚えた。すぐ、彼女が私を抱え込むようにして、「買うのを止めて!地図は私が買ってあげるから…」

 開原は観光地ではない。まだ外国人、日本人とて珍しいのであろうか?中年女性の店員は地図を投げて寄こした。客扱いのマナーはまだまだである。

 私は、はじめ一人でキップを買い、思い出の汽車に乗り現地中国人と会話して、一人旅を楽しもうと目論んでいたが、現地ガイドの忠告に従って、一人でなくてよかったと思った。言葉に幾ばくの自信があっても、まだ中国田舎町の一人歩きは無理である。

 私たちは3人、人ある毎、特に老人に尋ね廻った。「昔、日本人が通っていた学校は何処か知りませんか?」

 しかし、60年の歳月は半端でない。すべてのものは、変貌と忘却の彼方に追いやられていた…。

 やっとのことで探し当てた建物は、軍の学校になっていた。中に入ろうとすると、軍服の歩哨に拒まれた。中を覗き込みながら彼女は、「此処が昔の日本学校です!何処か一ヶ所でも思い出のものはありませんか?此処の人みんなが、ここが旧日本人学校だといっていますが…」

 四方八方、記憶をたどっても、「いや!ないね!何処にもないよ!」

 最後に私は、嘗ての住居跡を尋ねることにした。私の戸籍謄本には、「南満州開原敷島街三十二番地で出生」とある。大連に移る直前、香山街の高級官舎に移った。これを探し出すことは不可能に近いと、覚悟していたのだが…、案の定、昔の道は、道幅が何倍にも拡げられ、両側に新築の高層ビルが林立している。駅を起点に方向を定め、探索したものの、サッパリ分からない。市役所にでも行って、昔の地図と今の地図とを重ね合わせてみなければ、到底探せるものではない。時間がないのである。次回にしよう!私はあっさり諦めて、帰途に就いた。街角を曲がったその時である。どことなく懐かしく赤レンガ造りの塀が眼に止まった。塀の模様、デザインが決め手になって、私は思わず大声で叫んだ。

 「ここだ!車止めて!学校だ!」

 車を降りると、私は塀沿いに駆け出していた…。校門があった。見覚えのある校門だ!

 私は興奮して、断りもなく校舎の中に入った。授業中だった。今は高等中学校になっていた。廊下に3、4人立たされている。宿題でも忘れたのだろうか?

 私は廊下の窓越しに授業風景を覗き見した。若い女の先生、通路さえない教室一杯の生徒、茶髪は一人もいない。背筋をピンと伸ばして、そこには、改革発展を担う中国青年たちの生き生きした授業風景があった。

思い出の追善旅行(1)―亡夫の遺灰を長江へ撒く―            協会会員 小林 昌子
 一昨年の夏、病気のため九寨溝への旅を断念し、夢叶わず逝った亡夫・淑人が1991年、日中友好協会10周年に洛陽を訪問して、三峡下りをしたのを奇しくも同じコースに、ありし日の足跡を辿りつつ思い出の追善旅行となりました。4月12日の夜、洛陽空港へ到着、洛陽人民政府5人の温かい握手に迎えられ感激しつつ、夕食接待後、ホテル洛陽大酒店へ泊。翌日、洛陽市あげての20周年牡丹祭に参加。開園直後の正気あふれる国色牡丹園に700種以上、紫黒花魁、みどり豆緑黄桃黄、洛陽紅白趙粉、ピンク国色天香などの牡丹が咲き誇り、その格別の美しさにみとれつつ、カメラに写すことしばし。

 車を馳って白馬寺へ。沿道の満開の桐の花が春霞の空に紫雲棚引く如く融合しています。

 広く立派に整備された境内の両側には、遠く印度より経典を積んで運んで来た白馬の像が左右に鎮座しています。前会長の三島団長一行と訪寺した折『釈海方丈より仏教資料等頂き 交歓の後写真撮影して辞去す』と書かれた遺稿とその時頂いた経海方丈の名刺と共に、故人となって、再来した意を通訳の魏莉娟さんより伝えて頂き祭壇に遺骨と写経をお供えし、懇ろな読経供養をして頂きました。誠に辱けなく有難い極みと感謝感激しました。

 15日、早起きし荷物を託し朝もやに煙る重慶の旭日を見て重慶長江大橋を渡りました。我々の乗る神州号は、国色接待用に建造した五楼の最新豪華船です。いよいよ船中2泊の三峡下りに出発。濁流の長江を悠々と下っていきました。

 16日、船中で一夜を明かし、早朝の左岸に白帝城を見ようと甲板に上ると、折からの風雨に煙る山腹に微かに見えました。

 バイキングの朝食を済ませた8時過ぎ巫峡に入ったのか、両岸の景観は霧中の山水画のようでした。故人がカメラにおさまり景色をほめたたえたのがここなのでしょうか。遺書著『中国馳け歩く記』の最後に留めんと、同行皆様に見守られ乍ら中国長江の灰となり読経しつつ散骨致しました。

内モンゴルを体験する旅を企画しました
 私は白音孟和(バインモンホ)と申します。中国内モンゴル出身で、モンゴル族です。内モンゴルで旅行会社に勤めた後、日本に留学して参りました。卒業したら、日本の旅行社で働けたらと思い頑張ってきました。今年、倉敷芸術科学大学を卒業し、現在、旅行会社「アジア・コミュニケーションズ」で働いております。どうぞ宜しくお願い申し上げます。いつもお客様に喜んでいただくことに仕事の遣り甲斐を感じ、頑張っております。お客様に満足してもらうことは私の最高の喜びでございます。この度、私の故郷、内モンゴルを、日本の皆様に身近に感じていただきたいと思いまして、内モンゴル大草原のツアーを企画しました。内モンゴルの大自然を身体で満喫していただきたいと思います。乗馬・モンゴル相撲を体験していただき、また本場のモンゴル料理をご賞味していただきたいと思います。「百聞は一見に如かず」といいますが、是非たくさんの皆様のご参加を心よりお待ちしております。私が皆様をご案内いたします。安心してご参加下さい。お申し込みを心よりお待ちしております。(白音孟和)

ちょっとチャット(15) 洛陽回顧                        協会会員 安藤 三夫
 1991年、岡山市・洛陽市友好提携10周年に当たり、岡山空港発着で、幸いにも直行チャーター便で洛陽訪問に参加させていただき戦後再び中国の地、しかも思い出の多い洛陽地区を始め、西安までも旅遊できた事は、私の一生の思い出となりました。

 「サラバ洛陽」、再び此の地を踏む事は無いと心に言い聞かせて洛陽を後にして復員した筈であったのに、今再び洛陽の大地に一歩を踏む事が出来たことは何よりも幸せでした。しかも、飛行場には、小学生初め、官民多数の熱烈な歓迎を受け、訪問団一同感激のきわみでした。

 年月は人を待たずの諺の通り、47年前の街も、今は急速に発展して所々に高層建築が出来、古い民家は土煉瓦造りからコンクリート造りに変わっていました。また、観光施設の見学コースが出来ていて、特に日本語通訳がバスに同乗して、観光案内をしていました。総体的に受け入れ体制に万全を期している様子が伺われました。「九朝の都」としての洛陽のプライドを大きくアピールしながら、旧都(老城)より西方へ順次発展している様子がヒシヒシと感じられました。特に、近代化に遅れないように、沿海部との格差を、少しでも縮めようと努力を惜しまずやっている姿には感服しました。本年は日本・中国国交回復30周年を迎え、隣国中国と友好交流運動の一翼を担って、一層の交流親善を進めたいと念願致すものであります。

 岡山市日中友好協会と、中国三誌友の会の益々の発展を祈念し乍ら…。

活動日誌
4/19 洛陽牡丹花ミニコンサート。オリエント美術館にて
4/21

信陽市訪日団歓迎会。『福幸』にて

会員消息
【入会】
林 保男さん(岡山市磨屋町)
【お悔み】
河原 行夫さん(御津郡御津町)
【就任】
宮本光研理事は5月20日付で、総本山・仁和寺御室派内局、教学部長に就任した。

中国関連消息 
地球市民講座<中国編>
6月5日(水) 「少数民族の社会に見る現代―雲南省のペー族」
講師:横山廣子氏(国立民族学博物館助教授)
6月19日(水) 「東西南北 走走中国」
講師:王 超氏(京都府名誉友好大使)
6月26日(水) 「世界の工場―中国の現状―」
講師:前ジェトロ上海センター岡山経済交流部長
会場 岡山国際交流センター2階 国際会議場
定員 120名(無料、ただし事前の申込みが必要)
主催 (財)岡山県国際交流協会 (TEL 086-256-2917 FAX 086-256-2226)
共催 岡山県
時間 3日とも18時30分~20時

映画案内 「えっちゃんの戦争」
 このアニメ映画は、児童文学者・岸川悦子さんの実体験をもとに、少女の目を通じて戦争をみつめた物語である。

 戦争を知らない世代が社会の中枢を担う次代を迎え、かつて日本が行った戦争と、その記憶が遠いものになりつつある。しかし、その過ちを繰り返すかのように、今、世界は大義名分のついた戦争の影に覆われ、再び同じ道を歩み始めようとしている。20世紀の負の遺産を、子どもたちの未来に繋げてはならない。幸せな未来は、大人の手で守らなければならない。この映画には、そんな願いが込められている。
7月7日(日) 岡山市民会館 ①10:30 ②13:30
7月14日(日) ライフパーク倉敷 ①10:30 ②13:00 ③15:00
前売券 一般1,000円、子ども800円、シルバー800円。前売券は協会にもあります。
問合せ先 中国共同映画㈱ (TEL 086-223-0904)
同時上映

「アンパンマン」

先憂後楽
 瀋陽事件は多くの課題を突きつけたまま一応の収束が計られようとしている。命をかけて北朝鮮から出国し中国で息をひそめて怯えながら数年にわたって不法滞在し、日本総領事館への突入を決行した5人の人々は日本国が一切関与することが無いまま中国政府の手を経てマニラ経由で韓国へ送られた。

 日本政府は人道主義が優先されて日本の主張が認められたと言っているが果たしてそうだろうか?本当に日中友好は機能したのだろうか。

 喫茶店で初老の男性とママが話すのを聞いた。「中国への援助をやめりゃええ、昔なら戦争だ」ママが答えて「そんなことしたら負けるが」「負けてもええ、負けりゃええんじゃ」と。ドキッとするような発言だっが案外日本人の感情をある部分反映しているのかもしれない。そしてマスコミや雑誌の論調は排外的民族主義をあおるものが多い。

 そういう感情論で無く事実を冷静に分析して両国が真摯に対応することこそ求められているのではないだろうか。日中国交正常化30周年を迎えても『喧嘩するほど仲が良い』といえるような本当の友好関係が築かれていないとすれば残念である。今年はそういう本質的な友好を考える契機としなければならない。(松)


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