2004年6月
平成16年6月
  167号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
中国西安市から招聘 片岡甲子郎(嵐峯)書作展開かる
 ~協会理事 家野氏 随行レポート~
 5月25日から6日間、西安―杭州―上海と回って来た。落合町の書家片岡甲子郎(嵐峯)さんが、西安市から招かれて、80歳を記念する書作品の個展が開かれるというので随行したのだ。

 西安市城内中心の目抜き通りにある大会場の壁面を埋める五十幅の作品は、誠に堂々たるものだった。

 開幕式が1時間かかったのは、ちょっとどうかと思ったが、真っ赤な旗袍(チャイナドレス)のお嬢さんが8人並んでテープカットなど、日本では絶対見られぬ豪華な幕開けだった。そしてこれが有名書家たちの大展覧会ならいざ知らず、片岡さん個人の展覧会なのだ。これを以ってしても、嵐峯さんと西安市の交流の深さがわかるというものだ。

 そして門前で待っていた百人に余る群衆がざあーと入場したのも驚くべき光景だった。

 その日のカラー写真入りの新聞が送られて来るはずと楽しみに待っているところだ。

 西安空港へ着いて、驚いたのは、まず昔の空港と場所がまったく違っている。18年前のことだから当然のことだし、また考えてみれば汽車でしか来たことがないし、空港へはタクシーで迎えに行っただけだった。

 西安空港が今は北方へ1時間ばかり離れた咸陽に移っていることを迂闊にも知らなかったのだ。昔洛陽から汽車で8時間掛かったところ、ハイウェイを車で飛ばして4時間になったことは知っていたのに。

 浦島太郎のような心境で、様変わりした西安の街を走って、中国のここ数年の発展ぶりの目ざましさに唯ただ眼を見張るばかりだった。

作品展会場入口
西安市民の熱烈歓迎
 私たちが3泊した「唐華賓館」は、西安でも一流の超豪華ホテルで、私を訪ねて来た外国語学院の大学生(陝西省の農村出身)はそのあまりの立派さに足がすくんで、入るのを躊躇したそうだ。

 それはともかく、わたしとしては、前回行き損なった観光地をあらかた回れて、ありがたいことこの上ない旅行になった。

 そしてさらに、杭州も2度目、3度目だったが、中国一裕福な農村になったともいわれる、龍井村周辺の農家群、3階建ての豪壮な住宅の並んだ風景がハイウェイから眺められる農村は中々のものだった。

 これも新中国の誇る姿の一つとして車窓からカメラに収めた。
 
 5時半モーニングコール、6時朝食等という強行スケジュールに追いまわされたが、実り多い旅立ったことはたしかだ。そして西安市で、NPO岡山市日中友好協会の活動が2つもあって、友好の実を示し得たことは嬉しい限りだったという感が深い。

 東方航空の岡山―上海便が週6便になったことも、もっと宣伝していいと思う。アテンダントの中に必ず日本人がいて、甲斐甲斐しく活躍している。当然のことながら流暢な日本語のアナウンスが流れるので、我々はいっそう安心して落ち着いて旅ができるようになった。上海旅行は全く快適なものになった。(協会理事・家野四郎)
中国文化を探訪する旅―紹興・杭州・西安・上海―
 協会では友好訪問と合わせて中国の名所旧跡や自然、歴史を尋ねる旅を企画しているが、今回は『中国文化探訪の旅』と題し片岡和男会長を団長とする15名の訪問団が、5月23日から29日にかけて、《江南の春》の名にふさわしい紹興、杭州を皮切りに、秦の始皇帝の遺跡や世界の文化の中心として栄華を極めた唐時代の文物などが現存する西安を訪問、各地で文化と歴史を探訪した。

 特に西安では中国最初の女性皇帝・則天武后(中国語では武則天)の陵墓である乾陵を参観し、往時をしのんだ。今回は特に乾陵を紹介したい。

乾陵概括
 西安市から西北約80キロの乾県の梁山上にある。唐時代の第3番目の皇帝李冶と武則天の合葬墓で、唐十八陵の中でも比較的完全に保存されている陵園である。

 参道には文武官や馬、駝鳥などの石仏が並び、墓地へとつながっている。墓地の入口が山の中腹に見えるが、まだ発掘されておらず、中には入れない。

乾陵無字碑
 武則天が埋葬されたときに建立された石碑だが、四方に多種多様の花紋様が彫刻されているだけで、中には一文字も刻されていない。一説によれば、武則天は《功高徳大》でその功績と徳は文字では表現できないからという。又、彼女の遺言で『自分の功績は次の時代の者が評価するもの』なので、文字を刻まなかったのだという説もある。このことからもこの女皇帝が自信と気迫に満ちていたことを伺わせる。

王賓六十一尊
 参道を墓に向かって歩くと、両サイドに首のない石仏が並んでいるのが目を引く。これは、中国少数民族の首領たちを表しているが、ある時地方からやってきた人が、生きている自分の国の領主が石像として参道に建てられているのに怒り、首の部分を切り取って故郷に持ち帰った。その後それに習ってほとんどすべての首がなくなったという言い伝えがある。文革の被害ではありませんと通訳の王さんが説明した。

乾陵博物館
 乾陵から車で東南へ20分くらい走ったところに乾陵博物館がある。乾陵周辺に散在している17の殉葬塚のひとつである永泰公主墓の構内にある。永泰公主は武則天の孫娘、中宗李顕の第7番目の娘(名を仙蕙という)であるが、ある日、武則天に不満をもらしたため鞭打ち刑で殺されたという。ただ、現地の解説本によると、武則天の不倫の場を見てしまったため処刑されたのだと記述されている。歴史にはいつも正史と野史が存在する。いずれにしても17歳にしてこの世を去った娘への庶民感情が表れている。

 この墓は1960年から2年かかりで発掘されたが、墓道の長さ87.5メートル、高さ2メートル、玄室の深さ16メートルある。両側の壁画の中には有名な16人の等身大の官女が生き生きと描かれており、唐時代の宮廷生活を再現している。また「出巡図」「迎賓図」「馬球図」などは唐の宮廷美術の集大成といえる。

郭沫若と岡山(2)                          岡山大学非常勤講師 劉 建雲
 1955年、郭沫若の来岡に際して、郭がかつて下宿した所、のち新世帯をもった所を、各新聞社の記者達は血眼になって探したが、当時この下宿屋の女主人がどうやらまだ健在だったらしいことだけが判明して、その所在は突き止められなかった。因みに、郭沫若の住んでいた部屋は「家賃は1円50銭で、食事は別の所から届けてもらうから、月に約8円50銭が必要で、東京に居た時より甚だ安く感じる」と前掲の『桜花書簡』に記されている。そもそもなぜ郭沫若がこんな簡素な生活、然も4人共同居住の下宿を選んだのか。郭沫若は当時ではいわゆる「官費」留学生で、月に33円の奨学金を国民政府から貰っていた。この点について同じく『桜花書簡』の中の郭沫若が四川省の実家に仕送りを請求する手紙の中で、その前一度慌しく帰国したことと、岡山への引越しで債務さえ負ったことや土地の不案内で簡単にいい家が見つからなかったことなどの理由を挙げている。

 この「国富294」の下宿に、郭沫若らは1915年9月から1916年2月まで5ヶ月住んでいた。成方吾は後にこの下宿での4人共同生活を次のように思い出している。「1915年の夏、私は岡山で郭沫若と知り合いになった。・・・私たち4人は一棟の家に住んでいた。私の部屋が若干大きかったので、皆がよく私の部屋に集まって四方山話に花を咲かせた。ある日、対聯の上の句に下の句をつけるというクイズをやっていた。順番にいったのだが、私が『二千米達三千歩』(散歩の距離をさす)と言ったところ、郭沫若がすぐ『一個房間四個人』と答えた。」(「懐念郭沫若」『文彙報』1984年11月24日)。
第六高等学校
郭沫若が在学した頃の第六高等学校

2.引越しと恋愛
 2回目の住所は岡山市内の内山下93で、現在の丸の内2丁目5番付近である。名和悦子氏の調査によれば、当時ここに森下アパートがあり、アパートは六高から旭川に架かる相生橋を渡るとすぐ橋の袂にあり、窓からの眺めは絶景であった。とりわけ真正面に聳える操山の全容と、旭川に浮かぶ森に囲まれた烏城が一望でき、この付近に下宿することを希望する六高生が多く、憧れの的であったという。

 岡山に来て5ヶ月もたった1916年2月、家からの送金などによってようやく経済的な不如意から抜け出した郭沫若は、よりよいアパートに転居したと考えられる。彼はここで1916年2月から1917年1月の佐藤をとみ来岡までほぼ1年間住んでいた。

 ここでの地元岡山の人々との付き合いの記録は残っていない。郭沫若にとってこの時期の大きな出来事は、佐藤をとみとの恋愛であった。

 1916年の7月、郭沫若は第一高等学校在学中の陳龍驥という中国人同郷が肺結核で入院したことを聞き、そのお見舞いに東京へ行った。この同郷は間もなく亡くなったが、其処で、東京板橋の聖路加病院に看護婦を勤めていた佐藤をとみ(1895~1994)と出会い、忽ち2人は恋に落ち、そしてお互いに兄妹として許し合っていた。郭沫若は、をとみに安娜という中国風の名前をつけた。これが、後に、郭沫若の妻として中国で知られる郭安娜という名前の由来である。

 佐藤をとみは仙台の出身で父親は牧師、母親は士族の娘であった。彼女はアメリカ人の設立したミッションスクールという教会学校を卒業してから、自分の一生を事前事業に捧げようと決心し、親の猛反対を押し切って東京に行った。(『日本への遺書』陶晶孫、東方書店、1995)牧師の家は経済的にそれほど恵まれてなかったのだが、両親は教育熱心な人であった。牧師の娘ということから教会学校に入るには学費の免除があった。それにしても、明治40年代に女の子を2人とも深草い農村から送り出し、中等教育を受けさせた佐藤家の親達は、かなり開けた考えの持ち主であった。

 ところが、代々娘が家付だった佐藤家は、をとみの妹(名は、みさを、後に姉の紹介で同じ中国人留学生の陶晶孫と結婚)の後に男の子が生まれたことにより、若いをとみの進学の希望が潰された。そして、をとみが教会学校を卒業して間もなく、母親が娘に相談もせず演壇をすすめていた。それを知ったをとみは、これも相談せずに東京へ出て行った。これは大正5年の年初のことである。そこで間もなく郭沫若と出会うのである。

 中国の女性にみられない、をとみの職業婦人としての溌剌さに引かれた郭沫若は、彼女と週に5回ぐらいの手紙のやりとりで、お互いに相手への愛を告白していた。残念なことに郭沫若のをとみへの100通近くの手紙は、をとみが岡山に来る前に全部焼かれてしまった。をとみの郭への41通の手紙は、10年後、郭沫若がそれを中国語に訳し『落葉』という小説に出している。

第2回理事会開かる
 5月20日、本年度2回目の理事会を協会事務所で開いた。出席者10名。松井事務局長が活動報告をしたあと、次の事項を協議した。

Ⅰ 河南省雑技団岡山公演開催について
1.経過と目的
  ①三重県日中友好協会の招聘により来日する「河南省雑技団」を岡山に招聘し、河南省との友好交流を深める。
  ②収益は、洛陽市の緑化協力事業に充てる。
  ③会員の積極参加を呼びかけ、協会組織の活性化、会員拡大をはかる。

2.日時  7月27日(火)、18時開場、18時30分開演、20時30分終演。
3.場所  岡山市民文化ホール(小橋町1-1-30)
4.入場料  当日・前売共 2,500円(小人 2,000円)
5.チケット取扱い場所  協会、天満屋、髙島屋、ぎんざや

Ⅱ 洛陽緑化協力事業について
1.調査をした専門化の報告
農林水産省認定樹木医、グローバルグリーンクニタダ代表の國忠征美さん(松井事務局長同行)が、5月15日に洛陽市孟津県小浪底鎮の現地に赴き、土壌、樹木品種、桃の生育と品種改良、地元の意欲と要望等を調査した。報告書の要旨は次のとおりである。
  ①土地事態は肥えており、水さえあれば樹木も果樹も育つ。小浪底ダムが建設され、水はポンプアップして得られる。
  ②緑化と合わせて付加価値の高い商品作物(岡山の桃)を作ることにより、より実際的な活動となる。
國忠征美氏
植林予定地を調査する國忠さん
  ③農民が所有していた地を国に返し、ノリ面は徐々に緑化しつつある。今の問題は農地部分を緑化していくことにある。

2.今後の方針
10月末から11月中に訪中して、桃の苗の植樹と接木作業をする。

岡山市日中友好協会NPO認証記念 第4回公開講座
「中国漢詩紀行 ~長江を下る~」         中国短期大学非常勤講師 岡本 逸郎
 岡山市日中友好協会がNPO(特定非営利活動法人)に承認されたのを記念して行っている公開文化講座の第4回目「中国漢詩紀行 ~長江を下る~」が、4月17日に岡山県男女参画センターで開かれた。講師は岡本逸郎さん。

 協会会員で元同僚の小六宗平さんの紹介によると、岡本さんは、1964年、岡山大学法文学部を卒業、岡山県高等学校教諭となり、38年間県内の高等学校で漢文を教え、2002年定年退職。その間、1983年から85年まで、中国瀋陽市の遼寧大学に派遣され、日本語の指導に当たった。教材として使う日本語の本をあちこちの本屋を廻って探していた時、ある古本屋の主人からこんなに沢山の本を何に使うのですかと質ねられたので、中国の大学で日本語を教えるための教材として使うのだと言ったら、日中友好に協力しましょうと言って本代をただにしてくれた。持って行かれた本がなんと700冊。先生の熱意の程が伺われる。現在は勤務のかたわら、鴨方公民館で「楽しい漢詩講座」を開いている。岡本さんは、また、詩吟の大家で、関西詩吟同好会に属し、詩吟四段以上の段位を持つ演出者の指導と審査に当たっている。

【講演要旨】
 レジメには漢詩18首を掲げていますが、時間の都合で省略して話します。スライドは1983年の夏、撮影したものが中心になっています。先輩の先生のものを借用したものもあります。途中で3首ほど吟詠したいと思います。声の出ない分は心で吟じます。
地図  副題に「長江を下る」となっていますので、先ず下る道順を説明します。出発地は四川省の峨眉山です。成都から南西160kmの所にあります。標高は3,099m。ここから下って成都―渝州(重慶)―山峡―江陵(荊州)―岳陽―武漢―盧山―秋浦―金陵(南京)―楊州―蘇州―上海に達します。
1.峨眉山月(がびさんげつ)(うた)              盛唐 李白(りはく)
峨眉山月半輪(がびさんげつはんりん)(あき)
(かげ)平羌江水(へいきょうこうすい)()りて(なが)
夜清渓(よるせいけい)(はっ)して三峡(さんきょう)()かう
(きみ)(おも)えども()えず渝州(ゆしゅう)(くだ)
《口語訳》
峨眉山に半欠けの月がかかっている秋の夜、
月の光は平羌江の水に映ってちらちらと流れる。
私は夜中に清渓から舟を出して三峡に向かって行く。
やがて山の端にかかっていた月の姿は見えなくなって、舟は渝州へと下って行く。
 
 四川省の山奥で生まれた李白は、青雲の志を抱いて25才(数え年)の時、都会に出て行きます。これは、峨眉山の麓を舟で下る時に詠んだ詩。大変きれいな詩で、わずか28句の中に地名が5つも入っているのに少しも不自然さを感じさせません。李白が天才といわれる所以です。 小三峡
小三峡
2.絶句(ぜっく)                   盛唐 杜甫
江碧(こうみどり)にして鳥逾白(とりいよいよしろ)
山青(やまあお)くして花然(はなも)えんと(ほっ)
今春看又過(こんしゅんみすみすまたす)
(いず)れの()()帰年(きねん)ならん
《口語訳》
川は深みどりに澄み、飛ぶ鳥はますます白く見える。
山は青々と茂り、花は燃えたつように赤く咲いている。
今年の春もみるみるうちにまた過ぎようとしている。
帰郷できるのはいつの日だろうか。

 成都は、昔は蜀と言われていました。蜀という字は象形文字で、虫からきています。蜀は昔から養蚕が盛んで絹織物の名産地です。杜甫は759年から7年間、この地に住んでいました。波瀾に満ちた生涯の中で比較的おだやかな幸せな生活をしています。然し故郷に帰りたいという気持ちは募るばかりでした。

 成都は景色も美しく食べ物もおいしい。それに美しい女性も多い住みよい所です。田園風景は日本そっくりです。この詩は詠み易いので、一緒に音読して下さい。漢詩は是非声を出して詠んで下さい。

3.(つと)白帝城(はくていじょう)(ほっ)す           李白
(あした)()白帝彩雲(はくていさいうん)(かん)
千里(せんり)江陵一日(こうりょういちにち)にして(かえ)
両岸(りょうがん)猿声啼(えんせいな)いて()まざるに
軽舟已(けいしゅうすで)()万重(ばんちょう)(やま)
《口語訳》
朝早く朝焼け雲のたなびく白帝城に別れを告げ、
千里も向こうの江陵までたった一日で帰る。
切り立った両岸に啼く猿の声、そのつんざくような響きが耳に残るうちに、
私の乗った小船は幾重にも重なる山の間をぬけて行く。

 この詩は、李白が青雲の志を抱いて長江を下った25才の時作ったという説と、難に遭って夜郎に左遷される途中、白帝城の近くで罪を許されて娑婆に帰れるようになった59才の時の作という2つの説がありますが私は59才説をとりたいと思います。

4.黄鶴楼(こうかくろう)                  崔顥(さいこう)
昔人已(せきじんすで)黄鶴(こうかく)()りて()
()地空(ちむな)しく(あま)黄鶴楼(こうかくろう)
黄鶴一度去(こうかくひとたびさ)って()(かえ)らず
白雲千載空(はくうんせんざいむな)しく悠悠(ゆうゆう)
晴川歴歴(せいせんれきれき)たり漢陽(かんよう)(じゅ)
芳草萋萋(ほうそうせいせい)たり鸚鵡州(おうむしゅう)
日暮郷関何(にちぼきょうかんいず)れの(ところ)(これ)なる
煙波江上人(えんばこうじょうひと)をして(うれ)えしむ
《口語訳》
昔ここへ来たという仙人は黄色い鶴に乗って去ってしまい、
今この地には黄鶴楼が残るばかり。
黄鶴は仙人を乗せて去ったままもう返っては来ない。
ただ白雲だけが千年の昔から悠悠と浮かんでいる。
晴れ渡った長江の向こう岸にくっきりと漢陽の町の木々が見え、
眼下の鸚鵡州には春の草が生い茂っている。
やがて日も暮れ、ふと私の故郷は、と見やれば、
川面には夕霧が立ち込めうれいが胸をひたす。
黄鶴楼  李白も黄鶴楼で詩を作ろうとしましたが、崔の詩にはとてもかなわないと思って止めたと言われています。

 昔、ある老人が居酒屋に酒を飲みに来たがお金を払わない。そんなことが続いたある日、老人が酒代のかわりにと言って、みかんの汁で壁に鶴を描いた。お客が酒を飲んで手をたたいて歌うと、壁から鶴が出て来ておどり出す。このことが評判になって、居酒屋は千客万来の大繁昌。ある日老人が来て笛を吹くと壁から鶴が出て来た。老人はその鶴に乗ってどこかへ行ってしまった。これを記念して建て物を建て黄鶴楼と名づけた。この詩はこんな伝説を念頭において作られたものです。

(紙面の都合で以下割愛します 文責 中藤 季子)

黄鶴楼
ちょっとチャット(25) 訪問したい国「中国」                 協会監事 高渕 宣雄
 最近の世界経済に大きな影響を及ぼすものとして、原油価格の高騰が叫ばれている。日本経済にとっても好転の兆しをみせている経済動向が原油価格次第では予断を許さないと言える。

 原油口高騰の原因として、イラクをはじめ多くの産油国がある中東諸国の不安定さがあげられる。

 次にめざましい発展をとげている中国経済の原油消費量の増大による影響である。中国は今後20年間、年率7%の経済成長率を目指していると言われるが、仮に10年間年率7%の成長率としても10年後には現在の2倍となる経済力を有する国となる。一部の報道では成長率を下げるために金融引き締めが実施されているようである。

 いずれにしても、世界経済に大きな影響を与える中国の動向である。

 私が所属している中小企業診断協会岡山県支部は中小企業診断士の資格を有する約110名の会員で構成している。主たる業務は中小企業の経営に関するコンサルタント業務である。国際化が進展するなかで、私たちも中国やアジア諸国の経済実態を把握しておくために平成3年から経済視察を10年間継続した。

 視察した国は中国(大連、広州、上海)、インドネシア、ベトナム、ミャンマー、タイ、台湾、フィリピン等で、岡山県やジェトロの協力を得て岡山県内企業で海外進出している現地工場を視察したり、訪問国の経済関係、大学との交流をおこない、アジア経済の実態を見てきた。

 その際、いろいろとお世話になったのが、アジアコミュニケーションズの松井社長(NPO岡山市日中友好協会事務局長)であった。その後、そのご縁でおつきあいをさせてもらっている。今般、NPO岡山市日中友好協会の監事を仰せつかり、微力ながらお役に立ちたいと考えている。

 当協会で取り組んでいる洛陽小浪底緑化協力事業で、緑化協力とあわせて”岡山の桃”を中国の大地に植樹する計画があり、何かワクワクとした気持ちになる。私が関係する経営者の方々も上海、大連、内モンゴル自治区等に頻繁に出かけている。業務の都合次第であるが、秋の植樹訪中団に同行したいものである。そして、機会があれば内モンゴル自治区で360度の視界に広がる大草原を見たいと考える昨今である。

岡山市日中友好協会NPO法人化記念 文化講座(第5回)「洛陽の東周天子の墓葬と車馬坑」
講師 出宮徳尚氏(岡山市教育委員会文化財課)
日時 6月26日(土) 午後2時~4時
場所 岡山市立中央公民館(岡山市小橋町)
参加費 700円(会員は500円・留学生は無料)
申込


電話かFAXで協会へご一報下さい。
   電話 086-225-5068  FAX 086-225-5041

会員消息
【入会】
河田一美さん(児島郡灘崎町

活動日誌
4/6 第1回理事会
4/8 中国三誌友の会、第128回定例会
4/14~18 岡山市・洛陽市友好都市議員連盟訪中団
4/15 会報166号発行
4/17 第4回文化講座「漢詩紀行~長江を下る~」
5/13 中国三誌友の会、第129回定例会兼春の小旅行「慶華園」
5/20 第2回理事会
5/23~29

中国文化を探訪する旅15名参加、紹興・広州・西安・上海

図書紹介 『長江の童話』     董宏猷 作 家野四郎 著
 『長江の童話』は、董宏猷さんの短編小説集で24編からなっている。家野四郎さんの翻訳は、董さんの長編小説『十四歳の森林』、夢幻小説『中国の子どもの夢百話』についで3冊になる。

 これらの短編小説は、学校周辺を題材にしたものだけでなく、長江を背景とした物語で、すべて著者の経歴に係わっている。

 著者は小さい時から長江の河辺で暮らしており、社会の最低層で生活し、その中で、まともに人間らしさや、血もあり肉もある人生に直接触れることができた。この幼年時代に得た真善美をはぐくみ育て、全生命を注いでまとめたのが本短編小説集である。(文芸社刊 1,800円+税)

先憂後楽
 先月協会訪中団で西安に行った時、随行の王氏とゆっくり話し合う時間があった。西北大学で起きた留学生の事件について聞きたかった。日本の報道にあったように扇動者がいて、過剰にあおったというのは少し違うようで、西北大の学生に呼応して他大学の学生もやってきて、日本人留学生への排撃活動に進展したのだという。そして大方の西安市民も学生の行動に同情的だったという。その背景には、戦争責任についてドイツが示している態度と異なり、日本が曖昧にしたまま今日に至っていることへの不満が青年知識層に根強くあるのだと語った。

 今日の日中経済関係の急速な発展により双方とも利益を享受しているはずである。また批判を浴びながらも日本政府は中国への無償援助や有償援助なども継続している。その行為が両国民の親密さや友好に結びついてこないばかりか、非友好的な側面だけが伸長しているのは何故なのか。

西安大雁塔
西安大雁塔
 民間の友好団体、友好人士の地道な努力、また中国に進出して、現地の監督諸官庁や中国人労働者との本社との間で調整に奔走している日本人企業マン、それらの人々の友好への気持ちが中国の人々に伝わるしくみを作っていかなくてはならない。(松井)
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