2004年8月
平成16年8月
  168号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
中国河南省雑技団岡山公演 大盛況裡に終わる
満員御礼!有難うございました
 協会主催による『河南省雑技団岡山公演』が成功裏に終了した。当初、三重県日中友好協会からの申し出に対し、本当にやれるのだろうかと不安に思う役員も少なくなかった。理事会を重ね、具体案を審議し、予算も見直し、洛陽緑化を全面に出して、いわゆる興行ではない友好事業であることを訴えて役員と会員を基礎に広げていくことを確認した。

市民への広がり
 片岡会長は公私の用事で行く先々でチケット販売を訴えた。済生会総合病院の医師や看護士さん、看護協会などの団体、隣の主婦にも行きませんかと声をかけるなどし、130枚を完売した。マスコミの大掛かりな広告ができない中で、足と口コミで少しずつ広がって行った。
協会広報車が市内を走る
 理事会で提案のあった広報車については効果のほどを疑う人もいた。が、やれることは何でもやろうという意気込みが必要だった。ある市議会議員は気軽に軽四輪の提供を快諾し、殺風景だと見かねた大工さんが荷台に三角型のボードを作ってくれた。テープは協会で実習中の安田さんが吹き込んでくれ松井事務局長がタオルを首に巻いて運転した。まさに手作りそのものだった。
広報車
市内を走る協会広報車
『福祉の郷』が協力
 三重県から施設訪問の希望があり旭川荘に打診していたところ、ちょうど27日が旭川荘夏祭りの日にあたるため、関係の福祉施設である『福祉の郷』を紹介していただいた。板野宏一施設長は施設利用者や近隣の人に呼びかけ限られた条件の中で最大の歓迎体制を作るために努力された。26日に三重から6時間かけて岡山到着した雑技団は休む間もなく会場に入り、一つの手を抜くこともなく45分の演技を披露。200名以上の参加者を大いに喜ばせた。
河南省雑技団記念写真
いよいよ本番!
 下の階が埋まれば成功としようとスタッフは考えていた。しかし5時過ぎから人が続々と集まりだし、開場予定の6時前には2階の待ち合いホールは満杯状態となり、15分早めての開場となった。

理事がんばる
 当日の運営では役員とボランティアの協力が実った。記録係を受け持った岡本理事は3日間眠れないほど準備に熱意を燃やした。警備や楽屋裏などそれぞれチームワーク良く職責を全うした。

みんな笑顔でお別れ会(長泉寺にて)
やればできる
 ある役員は満席になった会場風景をモニターで見ながら「やればできる」とつぶやいた。小さな組織でも熱意と汗があれば成就できるということだろう。金があって人もいてということでなく、逆の状態だからこそ得られた人々の無償の協力の勝利であろう。(松井三平)

郭沫若と岡山(3)                          岡山大学非常勤講師 劉 建雲
 二人の手紙のやり取りは、愛の告白のほか、をとみの将来にも言及した。「慈善事業に献身するつもりなら、看護婦の身では十分目的に達することができない。看護婦をやるよりも女医学校に入ったほうがよい」と、郭沫若が勧め、それに対し、をとみは「看護婦としての収入が非常に少ないので、それほどの学費は出せない」と難色を示した。そこで、郭は、「私の奨学金から一部を出して、君の学費にする」と言い、さらに、「女子医学校を受験するつもりなら看護婦の仕事をしながらでの受験は無理なので、岡山に来て自分のところで勉強するとよい」と、ほぼ強引に彼女を東京から岡山に呼び寄せた。

3.同棲生活の始まり
 3回目の住所は、「岡山市弓之町81番地」である。今度の引越しは、まさに、をとみを迎えるためのものであった。時期は1916年の年末か1917年の年初と考えられる。

 『桜花書簡』は、前述したように郭沫若の手書きの手紙に基づいて整理されたもので、「弓」の字は「云」、「の」は「少」と誤認されている。最初それに疑問をもった筆者は、手紙の原本を保存している四川楽山凌雪山沫若室に連絡し、住所が記されたはずの封筒のコピーを請求した。該堂の責任者であり、『桜花書簡』の編集者でもある唐明中氏から返事をいただいた。封筒の紙が古すぎてコピーすると破損する恐れがあるということから、コピーしていただけなかったが、封筒の文字をそのまま写してくださった。これで郭沫若の3回目の住所は間違いなく「岡山市弓之町81番地」であることが判明したのである。

 岡山で郭沫若と同棲生活を始めたをとみは、2、3ヶ月後(1917.3)、女子医学校に入るため岡山を立つ。しかし、予想外のことに、女子医学校に入った彼女は、間もなく妊娠したことに気付いたのである。そして、1917年5月に、また郭沫若のもとに戻らざるを得なくなった。をとみの妊娠によって2人の同棲生活は長期化し、同年の年末に長男和男が誕生している。

 郭沫若一家は彼が九州大学医学部に進学するため岡山を離れた1918年7月まで、ここで約1年半住んでいた。この1年半の生活において、後に郭沫若の作品にも、をとみの義理の弟陶晶孫の作品にも登場する「漢文先生」で一家との付き合いが非常に興味深いところであった。この点については、また文章を改めて述べることにする。

図書紹介 『異文化の中の郭沫若~日本留学の時代~』 武 継平 著
 本書は、著者が九州大学大学院比較社会文化研究科博士課程在学中の調査研究の成果をまとめた学位請求論文に手を加えて発刊したものである。

 内容は「第1部 実証編」と「第2部 作品・思想論考編」に分かれており、内容の展開は実証研究の部、文学作品論考の部、思想論考の部という3つに分かれている。実証研究の部では、日本入国の時点から日本語学校、第一高等学校特設予科、第六高等学校、九州帝国大学卒業に至るまでの留学活動について徹底的な調査を行っている。とりわけ彼の勉学状況、家庭生活、交友関係、師弟関係などの解明に力を注いでいて、その上さらに、それらが彼の文学創作や、文学思想の形成に与えた正負の影響を究明している。

 一方、文学作品論考の部では、まず従来の研究で重要視されなかった高等学校時代までの初期文学創作活動と作品に照準を合わせた考察、彼の初期文学創作を支え、彼が口語新体詩人として歩みだす前、いわゆる助走段階の精神構造がどんなものだったのかを明らかにしている。詩においては、留学時代に書かれ、同時代の文壇に大きな衝撃を与えた『女神』などを中心に、郭沫若の口語新体詩を捉え、彼の文学観を手掛かりにその作品を検証する一方、文学改良運動期の、初期口語新体詩の先駆者たちの同時代作品を比較分析し、中国国内の新詩の大きな流れの中における郭沫若の『女神』の存在意義を明らかにしている。

 郭沫若は中国が半封建的な社会と半植民地から脱皮しようと近代の道を歩みだした五四新文化運動前後に現れた歴史的人物である。文学者にしろ、歴史学者にしろ、政治家にしろ、彼は一流の存在であった。彼が歩んできた道は現代中国の知識人の歩んできた道、あるいは歩んでいこうとする道なのである。郭沫若を抜きにしては現代中国文学史を完全にかつ正確に語ることはできない。

岡山市日中友好協会NPO認証記念 第5回公開講座
「洛陽の東周天子の墓葬と車馬坑」      岡山市教育委員会文化財課長 出宮 徳尚
 岡山市日中友好協会がNPO(特定非営利活動法人)に承認されたのを記念して行っている公開文化講座の第5回目「洛陽の東周天子の墓葬と車馬坑」が、6月26日、岡山市立中央公民館で開かれた。講師は出宮徳尚さん。

 出宮さんは、洛陽始め中国の考古学に造詣が深く、現役で文化財行政に携わり、岡山市教育委員会文化財課長の職にあります。日本考古学協会員、洛陽市古都学会理事、古代吉備国を語る会会長としても活躍されています。

 約50枚の写真をスライド映写しての講演でした。紙面の都合で要旨を掲載致します。

 私の洛陽への最初の旅は、1995年4月で、二里頭遺跡、偃師南城跡、東周王城跡市街地の馬坑跡発掘現場、漢魏洛陽城跡、光武帝陵とボウ山古墳群、北魏宣武帝陵、永寧寺跡、隋唐城明堂遺跡、隋唐城応天門跡と周公廟、隋唐城含嘉倉遺跡、杜甫墓、白居易墓、龍門石窟等で、建造物は白馬寺、斉雲塔、香山寺、関林廟、少林寺、塔林、嵩陽書院、嵩岳寺塔、中岳廟、観星台等で、博物院施設は洛陽市文物工作隊、洛陽市博物館、洛陽市古墓博物館、偃師市博物館でした。これらの遺跡や文化財や施設の訪問にあたって、1982年に岡山市立オリエント美術館で開かれた「古都洛陽秘法展」に洛陽から学芸員として来岡された黄明蘭、張剣の両先生が、日代わりで案内して下さいました。洛陽市考古学会の重鎮が、13年前の友誼を大切にされてご案内下さったことに恐縮しました。

 わが国の古代国家形成に大きな影響を与えた中華帝国の後漢(中国では東漢)や魏、隋、唐の首都や副都の地となった洛陽一帯の、五城の地を物語るそれぞれの時代の代表的遺跡を現地で体感的に踏差できたことは、最初の中国古代文明への実感的遭遇の感動と相俟って、日本の遺跡しか知らなかった私にとっては、大きなカルチャーショックの連続でした。

 帰国後、「中国歴史文化研究会」を設立し、洛陽市政府文化財及び文化関係職員を岡山市に招請して交流活動を続けています。昨年8月、中央公民館で開かれた第8次文化研究会で、洛陽市文物工作隊長の史家珍さんが「東周天子の墓葬と車馬坑」と題して講演されました。
講演風景
会場風景
 東周王朝は、紀元前770年に初めて建設され、紀元前256年に秦によって滅ぼされるまで約500年にわたって周の天子が都としていました。東周五城遺跡は洛陽市中部を南北に流れる潤河の東岸にあり、その北東部で各種の形態の東周墓葬3000墓を発掘調査しました。

 第五号車馬坑は、中国考古学会で発見された最大級の車馬坑の一つです。

 坑内では、序列を作った26輌隊列が生前と検出され、馬車に繋がれた馬の骨68体が遺存していました。車は縦方向に2列に並び、南を向いていました。西側の列はかなり密集していて、くびきの部分の大半は、前車両の車体の下に押し潰されていました。馬の年齢は3~6歳、屠殺ないし薬殺された後、車馬坑内に並べられたものと思われます。2頭立てが17台、4頭立てが8台、6頭立てが1台見られます。6頭立ての車馬は、いわゆる「天子駕六」(天子用馬車)です。これは、車馬坑西側の大墓が周の天子の王陵であることを照明する重大な発掘です。

 しかし、この大墓は未発掘で、なお地下に封ぜられたままです。今後の研究者による発掘を俟たなければなりません。

 この「天子駕六」車馬坑の発見は、東周王城の配置と周の天子の葬礼を考える上で、非常に重要な価値のあるものです。2002年の年末、この車馬坑で発見された考古遺溝をいためないで冬を越させるため、車馬坑内に暖房設備を設置し、30分ごとに1回温度測定を行いました。洛陽市の文物指導者や考古学の専門家は、常々現場に行って車馬坑の保存問題を研究しています。中国の各行政機関は、この大型車馬坑の保護政策を非常に重視しています。既に計画していた広場の建設案を破棄して、地下商店街と地上のの彫刻・建築を取り止めて、洛陽東周故城広場の新しい設計案を確定しました。この計画によると、広場には樹木と緑地のほかには1,200平方メートルの車馬坑博物館だけが建設されます。博物館は長方形の車馬坑博物館と正方形の東周文化陳列館で成り立っていて、一部は地下、一部は地上の構造になっています。長方形の館には「天子駕六」が発見された大型車馬坑の展示が、正方形の館には、洛陽でこれまでに出土した東周の文物の展示が中心で、洛陽の輝かしい歴史と文化が反映されます。また重さ200トンもある「天子駕六」の大型青銅模型が陳列館の方形の台座の上に設置されています。(車馬坑博物館は、2004年5月に開館しました。)
(文責 岡本拓雄)

ちょっとチャット(26) 留学中に感じたこと              協会実習生 安田 明日香
 私は、上海復旦大学に留学しており、今、本科3年生です。

 私の周りにはいろんな国の友達がいますが、中でもアジアの国の友達が一番多くいます。ここで必ずついてくるのが戦争の問題です。これは、日本で生活しているときには、あまり深く考えなかったと思います。留学して、いろんな国の人々の意見を聞けたことはとても良いことだと思っています。友達のマレーシアの子は華僑です。戦争で南下する日本軍に追いやられ、マレーシアに住まざるをえなくなった子孫です。親友のラオスの子も華僑です。彼女は、戦争中の日本軍の殺し方は残酷すぎると言いました。一番仲の良い中国人の友達の家は九・一八博物館のすぐ後ろにありました。家に招待されても、どこか不安がありました。ましては、親戚が多く集まる春節の時に。でも、みんな歓迎してくれて、戦争に関した話題になると、あなたはどう思うのという質問で終わりました。教科書問題に関しては、私が習った教科書には侵略したと明記されていたことを話しました。問題の教科書を使っている人は少ないことも話しました。中国では教科書はほぼ全国統一のため、一つしかありません。だから、日本でも侵略を否定した教科書をすべての人が使っているという誤解を招いたと思うのです。一人旅でハルピンに向かう列車の中でもおじさん達にそのことを聞かれました。

  日中友好及びアジア全域における友好には民間の交流がとても大事だと思います。昨年は、特に民間レベルでの日中間の事件が相次ぎ、相手国をよく理解していない双方の人々に悪い印象を与えました。日本でも中国人による犯罪が多発して、悲観的な見方があったと思いますが、もし、一人でも相手国に信頼できる人(友人)がいたら、中国、日本という間に線引きはせず、悪い人もいればいい人もいると思えるのだと思います。友人はいなくても、相手国の文化などに興味がある人もそう思えると思います。よく日本寄りの考え方だとか中国寄りだとか言われますが、自国の悪いことを異国の人に言われたら、たとえそうであっても少しは腹が立つでしょう。中国に4年もいれば、中国に愛着を持つわけで、中国のことを全て否定されるとムッとします。グローバル化と言われている21世紀ですが、異国の人のことも自国の人のように考えられる、このような輪がどんどん広がっていくのがグローバル化だと思います。そうであってほしいと思います。

 戦争を知らない世代の私達は、戦争に対しての責任感がほとんどありませんが、果たすべき責任は戦争を二度としないということだと思います。北京で一番仲の良かった韓国人に突然言われました。「私は日本人が嫌いだった」と。その後に、「でも、一人の日本人と出会ってから考え方が変わった」と。このキーパーソンは私ではありませんが、とても嬉しかったです。民間の友好的な交流があってこそ、グローバル化(平和)が実現できると思います。

岡山市日中友好協会NPO法人化記念 文化講座(第6回)「私の水墨画への想い」
講師 安藤秀苑先生
日時 9月11日(土) 午後2時~4時
場所 朝日カルチャーセンター岡山(本町)
参加費 700円(会員は500円・留学生は無料)
申込 電話かFAXで協会へご一報下さい
  電話 086-225-5068 FAX 086-225-5041

会員消息
【表彰】片岡琢之理事が、長年の功績により、全国人権擁護委員連合会長表彰を受けた。
【入会】
佐野開三さん(岡山市西古松)
石井伸弥さん(玉野市八浜町)
相原毅さん(岡山市栢谷)

活動日誌
6/10 中国三誌友の会、第130回定例会
6/17 会報167号発行
6/26 第5回文化講座「洛陽の東周天子の墓葬と車馬坑」
7/8 中国三誌友の会、第131回定例会第3回理事会
7/9 第3回理事会
7/27

河南省雑技団岡山公演

中国関連消息
中国揚琴公演
 チレン(智蓮)は中国重慶市出身。10歳より揚琴を始め、重慶市音楽学院を卒業後、プロ奏者として各地で数々の公演を行い高い評価を受けている。1992年来日公演を行い大成功を収め、1996年より日本国内でのリサイタルやコンサートで新たなミュージックを展開。揚琴第一人者として多くの聴衆を魅了している。来岡は今回で5回目。
日時 9月25日(土) 午後6時30分開場、午後7時開演
場所 オリエント美術館・中央ホール
入場料 前売2,000円 当日2,500円
前売券 各プレイガイド
主催 中国揚琴を愛する会、その他
後援 NPO岡山市日中友好協会、その他
問い合わせ

岡山市オリエント美術館

中国二胡公演
 チェン・ミンは中国蘇州生まれの上海育ち。父は音楽教育家、母は越劇女優。6歳より父親のもとで二胡を習い始める。1991年に来日。97年、共立女子大学を卒業し二胡奏者として活動を開始。2001年、ファースト・アルバム『I WISH(我願)』をリリース、今年5月、待望のニューアルバム『MOON(月亮心)』をリリースした。
 水仙の花を思わせる美貌と、周囲をパッと明るくする気さくな人柄をあわせ持つ二胡奏者チェン・ミンのコンサートは大いに期待される。 
日時 10月3日(日) 午後5時30分開演
会場 岡山市民会館
料金 5,000円(全・S席)
チケット 各プレイガイド 山陽放送サービス 等
主催

㈱山陽放送サービス

先憂後楽
 河南省雑技団の岡山公演が成功裏に終わった。洛陽緑化チャリティと銘打ったが入場が少なく赤字が出たらやる意味がなくなる。失敗は許されなかった。結果は満席で成功だった。

 今回の取り組みでは協会の理事始め役員が先頭に立って取り組んだ。チケット販売から当日の運営まで責任分担を決め大いに力を発揮した。客観的に見れば大した事業でもないかもしれないが、協会独自でやれたことに大きな意味がある。

 それにしても多くの人々協賛を得た。福祉関係や看護協会、学童保育クラブ、宗教団体、等等。見知らぬところでチケットが動き出した。広報カーを出したとき、もっと効果のあることをすべきだとの意見もあったが、意外にも内部の奮発を呼んで効果があった。

 雑技団は河南省●(さんずいに僕)陽市の出身で、10歳から19歳までの少年少女と、ちょうど岡山で52歳の誕生日を迎えた魔術師で構成されていた。長泉寺での慰労会では腕相撲や飛び入りマジックなど大人に混じって子どもたちも大いにはしゃぎ、つかの間の疲れを癒していた。

 岡山での公演は河南省政府にとっては少し緊張を要することだったらしい。団長も来岡当日はこわばった顔をしていた。友好都市凍結問題である。だが、民間交流として暖かく迎え、成功裏に終息したことで逆に岡山の印象が良くなり、帰国日には笑顔で、素晴らしい印象が残りましたとの談。

 この成果を協会の強化と運動の活性化、たちまちには洛陽緑化活動に活かしていこう。皆様お疲れ様でした。


「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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