2005年6月
平成17年6月
  173号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
旭川荘が上海市で高齢者介護教員を養成     旭川荘研修センター所長 板野 美佐子
調印後の握手  高齢化の進む上海市で、高齢者介護の問題は喫緊の課題であります。中国・上海市紅十字会の謝麗娟会長と社会福祉法人旭川荘の江草安彦理事長が高齢者会議の専門職養成を行うという合意に達したことから「岡山―上海高齢者介護教員養成センター」の開設となりました。

 昨年4月開講しましたが、これまでに上海市紅十字会と旭川荘の関係者が度重なる協議を進め、この計画の話が出て5年目の実施となりました。今年は開設2年目になります。


調印が終わって握手する謝麗娟会長と江草安彦理事長
 この高齢者介護教員養成事業は昨年21名の高齢者介護教員を養成いたしました。今年は新たに20名の高齢者介護教員を養成いたします。

 そして今年初めて、昨年養成された教員と旭川荘からの講師によって、教員ではなく直接高齢者に接する介護従事者の育成にあたります。

 今後は上海市を拠点として中国内陸部の紅十字会を中心として高齢者介護教員の養成を行う予定です。

 養成期間は教員については、4月から10月までの間に、まず上海で1ヶ月半、介護教育のカリキュラムに従って上海の実情に適した本質を学ぶ講義を行います。7月は旭川荘で実習・演習・講義を受けて介護の基礎を学びます。そして10月は再び上海市でフォローアップ講義を行います。直接介護従事者の養成は10月~11月を予定しています。

 この事業が今年から日本の政府開発援助(ODA)の支援で行われることになりました。国際協力機構(JICA)の助成は実績のある団体の活動を金銭面に加え、事業計画の立案など共同で進めることになっています。この支援は建物などのハード面ではなく、介護のための教科書・講義で使用する機材、教材、講師派遣経費などのソフト面の助成が行われます。

 会場は上海市の中心部にある上海市第二医科大学で、名実共に立派な大学で、日本の介護福祉士養成を基本として、日本介護福祉士養成施設協会会長でもある江草安彦旭川荘理事長ほか医学・心理学・介護学などそれぞれの専門分野の旭川荘職員を派遣する予定です。

 日本では17年前、介護福祉士の養成校は、全国で25校でした。現在は400校余りあります。この日本での経験をこれから高齢化社会に向かっている中国で、新しい職業である介護の専門職が充実し、介護スタッフ育成のシステム確立にお役にたつことを願っています。こうした事業を進めることができますのも20年余にわたる旭川荘と、中国・上海市とのさまざまな友好交流があればこそと関係の皆様に感謝しております。

江草理事長講義          受講生
江草理事長の初講義
熱心に受講する学生
日中友好特別公開講座 「日中関係を展望する」 
         講師 野中広務先生(社団法人日中友好協会 名誉顧問、元内閣官房長官)
 今日の日中関係を称して『政冷経熱』という言葉が使われています。経済的には切っても切れないほど密接な関係にあるのですが、政治的には冷めた状態にあるという現状を表しています。

 このような中で、日中関係に政府レベルで関ってこられ、現在は日中友好協会名よ顧問としてご活躍されている野中広務先生をお招きして、今後の日中両国の関係や友好交流のありかたなどについて、ご講演をしていただくこととなりました。現在日中間で友好事業や経済交流をされている方のみならず、ご関心のある多くの方々のご参加をお願い申し上げます。(協会へご連絡の上、チケットをお求め下さい。)

日時 平成17年7月16日(土) 講演会:午後3時~4時30分  懇親会:午後5時~6時30分
場所 岡山プラザホテル(浜1丁目3-12)
会費 講演会:1,000円  懇親会:7,000円(講演会費を含む)
主催 NPO岡山市日中友好協会

岡山県日中教育交流協議会 上海との高校生交流促進
 6月7日、協議会会長の黒瀬定生氏を団長とする一行8名が上海市を訪問し、岡山県と上海市との高校生交流促進について関係者と協議した。一行は黒瀬団長のほか、岡山県高等学校芸術文化連盟(高芸連)役員や商業高校の教員らで構成。上海では高芸連が、今夏相互交流を予定している甘泉外国語中学を訪問した後、今年度から新たに始まったSTUDENT EXCHANGE PROGRAMの受け入れ校となた上海新中高級中学を訪問し、それぞれの交流実施に向けた最終打合せをおこなった。おしりも上海では、大学受験のための統一試験の真最中で、多忙の中にもかかわらず、校長先生をはじめ関係者の暖かい出迎えと接応を得て協議は友好的に終了し、今夏の本番を迎える準備が整った。

 9日には、岡山県上海事務所を訪問し、岡山県からの企業進出状況について那須所長からレクチャーを受けた後、上海国際貿易促進センターへ赴き、上海市全体の経済状況と投資環境について説明を受けた。午後には、嘉定区にある井原市からの進出企業・タカヤ電子工業を参観し、増設に次ぐ増設で順調な発展を遂げている様子や、慣習の違いなどを乗り越えてきた苦労話などに耳を傾けた。

 反日デモ以降、日中間がギクシャクしている中で、次代を担う青少年が相互理解を深めることは、今後の良好な日中関係を築く上で、大変重要である。そういう意味で、今回の協議会訪中団の果たす役割は大きい。

岡山市日中友好協会NPO認証記念 第9回公開講座 
「中国残留日本人孤児の足跡」 
        講師 岡山県立大安寺高校教諭 青木康嘉/中国残留日本人孤児 高見英夫
 岡山市日中友好協会がNPO(特定非営利活動法人)に承認されたのを記念して行っている公開文化講座の第9回が、5月14日に岡山県立図書館で開かれました。講師は、岡山県立大安寺高等学校教諭の青木康嘉さんと中国残留日本人孤児の高見英夫さんです。高見さんは日本語がうまく話せないので、中国語で話され、西上普美さんが通訳されました。紙面の都合で要旨を掲載致します。

中国残留孤児は何故生まれたのか?その背景などについて          青木 康嘉
青木講師  悲劇の発端は満州事変―昭和6(1931)年9月18日、参謀本部と関東軍の一部の将校たちが瀋陽(奉天)郊外の柳条湖で、満鉄線路をみずから爆破し、それを中国軍の攻撃とでっちあげ、中国東北地方占領の為の宣戦布告なき戦争―にあります。

 第一次世界大戦後、大正バブルがはじけ、関東大震災、昭和の初めの金融恐慌、昭和4(1929)年アメリカに始まる世界大恐慌等の事変で、日本経済は最大の危機におちいりました。この不況から脱出するため満州へ侵略を開始したのです。9月18日(昭和6年)は、中国人なら誰でも知っています。老人から若者まで、ジューイーパー(九一八)と言って肝に銘じて覚えています。

 さて、開拓団が最初に出発したのは、翌年昭和7年9月で、拓務省第一次武装移民団が佳木斯に入り、「満州集団開拓移民」が開始されました。
残留孤児の歴史的背景を語る青木康嘉先生
 昭和6年12月、岡山出身の犬養毅が首相になりました。犬養毅は「中国革命の父」孫文とも親交があり、自身は「満州国」建国には批判的で、軍部の横暴を苦々しく思っていました。「犬養が生きていたら満州国承認は難しいだろう」と考えた軍の若い将校たちは、首相官邸を襲い犬養首相を射殺しました。これが五・一五事件の真相です。

 五・一五事件の直後成立した斉藤実内閣は、9月に「日満議定書」に調印するというかたちで「満州国」を承認し傀儡政権を作りました。

 これ以来、行け行けドンドンで満州へ行くことになりました。昭和11(1936)年広田弘毅内閣は100万戸の対満移民政策など七大重要国策を決定し、満拓公社を設立しました。対象は徴兵検査を終えた40才までの農耕経験者で「北辺守備」という目的もあって、ソ満国境に配備されました。敗戦までに送り出された開拓団員・義勇軍は約22万人で、敗戦後の逃避行で約8万人が亡くなりました。岡山県からは約2,900人が送り出されましたが、生きて帰れたのは約1,900人で、実に3人に1人が帰国できなかったのです。

 岡山県の主な開拓団は、柳樹家・竜爪・七虎力・大主上房・浩良大島・天理村岡山郷の6つです。

 竜爪開拓団は、佳木斯と牡丹江の間で、佳木斯とソ連国境に向かう虎頭へつながる鉄道が連結している「林口駅」の一駅南にあります。拓務省の技師が軍の飛行機で調査し、良い土地と牧場に適していると選んだ竜爪開拓団は、昭和12年に第6次開拓団として、300戸1,066人が入植しました。村には村役場(開拓団本部)・国民学校・東亜緬羊牧場・畜産学校・種鶏場・竜爪神社・青年塾・女塾などがありました。岡山県人は132人で、竜爪駅近くの日の出郷・春日郷・上岡山郷と林口駅近くの八幡郷に住んでいました。一戸あたり、水田・畑を合わせて12町歩6反の土地の配分を受けています。収穫のあがるまでの2年間は満拓公社が食糧の世話をしてくれました。日本で狭い田畑を小作していた農家にとっては、夢のような良い話でした。高見英夫さんはここに入植していました。

  昭和20年8月9日、ソ連軍が満州へ侵攻して来ました。各開拓団はソ連軍と現地人の襲撃に遭い多くの犠牲者が出ました。竜爪開拓団総数1,066人中、生きて帰った人は468人、死んだ人は427人、未引き揚げ者は171人で、生還率は44%です。七虎力開拓団は、総数626人中、生きて帰った人は209人、死んだ人は439人、行方不明の人が52人で生還率は約30%です。大主上房開拓団総数157人中、生きて帰った人は53人、死んだり行方のわからない人が97人、中国残留日本人孤児になったと思われる団員が7人で、生還率は約30%です。

 当時満州に居た日本人の数は155万人と言われています。その中の14%に過ぎない開拓団・義勇軍の人数の約50%が死んでいったということはいかに悪条件の中で生きていたかを物語っていると思います。

 現在判明している残留孤児は約2,400人・残留婦人は約3,700人と言われています。こうした人は「帰らなかった」人ではなく、「帰れなかった」人です。中国人養父母や中国人の夫の「恩義」の問題もありました。

 残留孤児は、3度「棄民」されました。1度目は、開拓団や義勇団を見捨てて関東軍がいち早く撤退したことと、戦後の引揚げ政策の遅れです。2度目は、昭和34(1959)年、岸内閣の「未帰還者に関する特別措置法」です。約13,000人の日本人がいることを知っていながら「共産主義の中国から帰国させるのは恐ろしい」といわれて、戦後死亡宣告がされて、葬儀料が3万円支払われ、お墓までつくられました。3度目は、日中国交回復後も、中国残留日本人孤児の肉親調査が遅れたことです。

 もっと早く帰国できていたら、日本語の習得も容易にでき、仕事にも慣れ、自立することができたでしょうに、40才を過ぎてからの帰国では、言葉・生活習慣・厳しい労働環境になじむことが難しく、現在70%の残留日本人孤児が生活保護法を受けています。

 「祖国で日本人として人間らしく生きたい」という願いを込めて、平成14(2002)年12月に629人の残留孤児が210億円の損害賠償を求めて訴訟に立ち上がりました。その数は今や1,863人を越えています。この訴訟は、人間の尊厳を求める訴訟です。この裁判に勝つかどうかは「世論」の支持が決め手であると思います。皆様の力強いご支援をお願いいたします。
(分責 岡本拓雄)

中国残留日本人孤児の足跡                   高見 英夫(通訳:西上普美)
 日本語が難しいので中国語で話します。

 私の出身は岡山県賀陽町で、昭和12年に生まれました。

 2才のとき、父と母と兄の4人で、中国黒龍江省林口県の開拓団に行きました。

 林口県竜爪開拓団に5年間いて、7才のとき大きな町に移動しました。そのときには現地で生まれた2人の弟と2人の妹とで8人家族になっていました。その後、1人の弟と1人の妹が5才になる前に亡くなったので、逃避行のときには6人家族になっていました。6人のうち今生きているのは私一人です。

高見講師1  昭和20(1945)年8月13日、ソ連軍が侵攻してきたので山中へ逃げました。幼い弟と妹は父母がおんぶして4日間、飲まず喰わずで逃げ続けましたが疲れ果てたので、山の中に小屋を作って、その中に弟と妹をかくしました。2人を生き延びさせてやろうと思ってかくしました。そして又出発したわけですが、道に迷って2日間さまよい歩いて戻った所が元の小屋の所でした。小屋にたどり着いて中に入りました。そこには弟と妹の姿はなく、そこに残っていたのは・・・(嗚咽)血まみれの衣服だけでした。おそらく狼に噛み殺されたのだろうと、私たち4人は、その場で悲しみのあまり、4時間ほど泣きつづけました。(会場からすすり泣きの声・・・)

 その後また逃避行を続け長春市まで逃げてきました。長春市に着いた次の日に母が亡くなりました。母は、弟と妹が亡くなったとわかってから後は、もう気がふれたようになっており、食事ものどを通らない状態で弱っていました。トラックがやって来て、母のなきがらを乗せてどこかへ運んで行きましたが、どこへ運ばれたのか知るよしもありませんでした。

断腸の思いで当時を話す高見英夫さん
(右は通訳担当の西上普美さん)
 長春市に3日間おり、残った3人は又逃避行を続けて、奉天(現:瀋陽)へたどり着きました。奉天の駅には、避難民がたいへん多く、死者も多くて、毎日、トラック4台で運ぶほどの死者が出ていました。

 その後3人は、イギリス人が作ったという医科大学附属病院に連れて行かれました。父は林口県を出たときから傷ついた足をかばって歩いていましたが、とうとう歩けなくなったので、病院へ入院することになりました。兄と私が病院で働いて、父の入院費を払うことになりました。3度の食事と治療費を病院が負担してくれるという条件で、私たち兄弟がそこで共に働くことになりました。昼は豚の世話をし、夜は豚と一緒に寝起きする毎日でした。兄が足の故障で入院しなければならなくなったので、私一人が働くことになりました。食事は父と兄に食べさせて、私は残飯を食べておりました。父は入院後1ヶ月で亡くなりました。亡くなる2日前に、兄と私を枕元によび、もしも日本へ帰国できたら、故郷の墓へ入れてくれと言って、髪の毛と爪を渡しました。

 そのあと私と兄は、中国人養父母のもとへ、それぞれ預けられました。中国国内で、共産党軍と国民党軍の戦いが激しくなり、瀋陽市が八路軍に取り囲まれるという事態になったので、養父母の出身地である山東省へ逃れました。山東省まで約1,500キロ、3ヶ月の逃避行の間、養父母と姉と妹、それから双子の幼い兄弟の世話をしました。まず双子の兄弟に食事を与え、また他の家族の食糧の調達に出かけなければなりませんでした。苦難の連続でした。

 1949年、瀋陽市が解放されたので帰りました。1956年、瀋陽市にある機械工場に就職しました。それまで学校に行ったことがなく、すべて独学で勉強してきましたので、他の人と比べて知力では劣っていると思っていましたから、体力で負けないようにしようと頑張りました。日本人ということもありましたので、工場の上役の信用をもらうために、中国人が80%の仕事で済ますところを、120~150%働きました。

高見講師2
思い出すだに悲惨な過去。涙ながらの高見さん
 11,000人の大工場で、人の倍以上働いて技術を向上させました。日曜日もただ働きをしました。この努力が認められて共産党幹部に推薦され、その後、財務関係の仕事に従事するようになりました。

 やがて日本へ帰る日がやってきました。1992年、帰国して総社へ永住するようになりました。55才になっていました。5年間働きました。会社で働いている間、ずっと中国人と言われ続けてきました。60才になったとき、会社の上役から定年だから辞めてくれと言われ、5年で辞めさされました。その後、再就職をめざして、職業安定所に行きましたが、言葉の面、運転免許を持っていないということで再就職がむずかしくやむを得ず生活保護の申請をすることにしました。生活保護費と年金を合わせて、私と家内の二人暮らしで1ヶ月、105,000円です。住居費、光熱費などを差し引くと、手許に残るお金は5万円にしかなりません。これで1ヶ月2人が生活していかなければなりません。

 私の養父の妹が70才以上になって体が弱り、入院しなければならなくなったので、中国に会いに行きました。飛行機で行けば、7万~8万円かかるので、安上がりの船(3万円)で行きました。8日間の訪問でしたが、その間の8日間の生活保護を打ち切られました。

 今回、私たちが国家に対して賠償責任を取るようにと裁判を起こしているのは、普通の生活水準で暮らして行けるようにしてほしい。ただそれだけを願って訴訟を起こしているわけです。

 1年に1度でいから、われわれ残留孤児を墓参りに行かせてほしい。あるいは、養父母がまだ生きていれば、多くの回数見舞いに行かせてほしいと願っていますが、日本政府は認めてくれません。私は今68才になりますが、養父母がここまで私を育ててくれた恩は決して忘れるものではありません。

 テレビを見ていましたら、中国各地の反日デモの様子が放映されていました。反日運動が起こる背景には、いろいろな面がありますが、その一つに小泉首相の靖国神社参拝の問題があります。中国人がこのことについて、どうして敏感に反応するかというと、やはり先の戦争で多くの中国人が亡くなったという歴史があり、戦争を起こした戦犯が靖国神社に祀られているという事実があるからです。

 日本と中国が仲良くすることは、両国にとって有益なことです。争を起こすことは、お互いに何の利益にもなりません。私が日本と中国の首脳に望むのは、どのようにして日中友好関係を存続させていくかを熟慮し、日中両国が共に発展していく道を切り開いてほしいということです。
(文責:岡本拓雄)

回顧 満蒙開拓団                              協会会員 安田 和子
 昭和19年4月、私たち兄妹は母に連れられて、満蒙開拓団家族として旧満州に渡った。20年8月15日、異国で敗戦を迎えた。そして、9ヶ月間の収容生活と引揚げまでの2年2ヶ月間、激動の歴史的体験をした。あの時から既に60年が経過した。2才~4才の幼児期の記憶のため史実に忠実ではないかもしれないが、今は亡き両親が語ってくれた思い出も含めて書き留めておきたい。

 遠い昔日のこととはいえ、あまりにも残酷、非道、悲惨極まりない当時の情景は、今の脳裏に浮かび胸が疼く。私にとって中国残留孤児の問題は、人ごととは思えない。自分があの立場になっていても不思議ではない時代であった。

 イラク戦争で爆撃に怯え、戦火の中を逃げまどうイラクの子どもたちと、逃避行の自分たちの姿が重なり、今でも恐怖で体の震える思いがする。イラク住民の不安な日常生活を思う時、収容所生活時代が甦り、何とも哀れである。このように、年を重ねるごとに、幼児期の体験が克明に甦るのはなぜだろうか。テレビ、新聞の報道が世界の情勢を伝えているが、あの当時に似かよってきたのではないかと不安を覚える。

 19年4月、錦州市阜新市に入植した。

 現地の柳集落は、地平線の彼方まで見える広大な土地、黒くて肥沃な農地。家屋は土煉瓦や土壁作りでオンドルが設置され暖かかった。中国人とは、文化、風習の違いはあるが、秩序は保たれ、仲良く生活していた。

 20年8月15日、異国で迎えた敗戦は、筆舌では表現し難いものだった。穏やかだった柳集落は、敗戦と共に一変した。中国人が銃を空に向けて発砲し、日本人は即刻国に帰れとどなった。暴動、略奪が始まった。村中に銃声が鳴り響いた。危険なので、収容所に避難することになった。

 収容所は1室50人。風呂もなく、不衛生でノミ、シラミの中での集団生活を強いられた。子どもは空腹で「まんま、まんま」と力なく泣いた。収容所を襲ってくる暴徒とソ連兵による略奪、強姦が目前で繰り広げられた。翌日から、若い女性は頭を短くして男装し、顔には墨や泥を塗り、乞食のような姿に変身した。

 ある日中国人がやって来て母にお金を見せ、子どもがたくさんいて大変だろう。譲ってほしいと言った。母は自分の両脇にいる兄と私のお尻を思い切りつねった。兄弟は泣いた。火のついたように泣いた。

 中国人は驚き諦めて帰って行った。母の咄嗟の機転がなかったら、私たちは今・・・。

 これ以上の収容所生活は危険なので、裸一貫の逃避行が始まった。大人は立ち上がれないくらいの荷物を背負って歩き、幾日も幾日もの逃避行が続いた。団員は励まし合い、助け合って歩き続けた。

 途中で倒れて、帰国半ばで望みが叶えられなかった多くの人たちのことが脳裏から離れることがなく、そんな人たちの思いを背負って生きているようである。

ちょっとチャット(31) 洛陽の緑化と桃園                  協会会員 國忠 征美
 一昨年7月松井事務局長が久し振りに我が家に来て、洛陽での緑化計画を話した。
1970年代中国では食糧増産のため、森の木が切られ畑地として農作物が栽培されていた。黄河流域もその計画にもれず開発され、雨が降れば黄土は黄河に流入し洪水の原因となり、乾燥すれば黄砂として中国はもとより日本にまで飛んで来る状態だった。

 そこで効率の悪い畑を緑化し、土壌の流出、黄砂の飛散防止を目的とした緑化計画が作成された。その中には、防災林と経済林があり、経済林の中には、果樹の植栽計画があり、防災林には周辺の自生樹木を多く取り入れ、種子が地上に落ち再生する樹木を植える。他の地域ではポプラの植栽が行われているが、病害虫、気象害で全滅することが多い。樹種が多ければ一部で被害は防止できる。経済林においては、中国原産の桃を改良して、日本の優良新種での特産地造りの計画を作成した。

 西安においては、岡山の白桃が産地化されているとのこと。これは十数年前、西安より岡山県立農業試験場に研修に来られた技術者により産地化されたものである。洛陽においても充分可能と思い、平成16年5月洛陽を訪問し、環境調査、土壌調査、桃の栽培状況の調査を行った。環境、土壌共に問題なく、桃の栽培も?山台地で栽培されていた。

 環境調査で、気温は岡山よりも春の温度は早く高くなり、降雨は少ないことがわかり、潅水設備があれば可能と思われた。土壌は、中性よりややアルカリ性で、桃の栽培には良好と思われた。?山台地で桃の栽培農家を訪れ、中国にも真面目に桃を栽培している農家があるのを知った。剪定、病害虫防除、摘果、潅水も行われていた。ただ樹間が狭いのが問題であった。潅水は250メートルボーリングをしているとのこと。この時、果実はすでに長さ5~6cmの大きさになっていた。これは岡山より温度が高く、潅水を行っているため15~20日早く肥っている様であり、岡山よりも20~30日早く収穫できるのではないかと思った。

 穂木は、以前岡山より西安へ持ち帰った品種を譲り受け接ぎ木をすれば、産地化も可能であると思えた。
10月30日の植樹訪問の時、桃栽培のための台木、穂木の調達、植え付けの打ち合わせを行い、本年4月4日より私の古い友人で、元岡山県立農業試験場技師の清水佐伯男氏の協力を得て、11品種250本の接ぎ木を行った。現地では王氏の手伝いも得て、無事作業は終了したが、麦の間に台木が植え付けられているので、麦の収穫作業やその後のトウモロコシの管理等で苗木が痛められないかが心配である。来年より、苗木専用の畑が必要ではなかろうか。今後、苗木の掘り取り、剪定、摘果、袋掛け、病害虫防除等、日本の栽培方法により西安に負けない桃の生産ができるよう指導しなければならないと思っている。

日中友好ボウリング大会
 友好第一!比賽第二!のスローガンの下、第10回ボウリング大会を下記により開きます。誰でも参加できます。
日時:7月2日(土) 14時~16時
集合:13時30分。遅れた場合は参加できない。
場所:両備ボウル(直接行ってください) 桑田町13-32(TEL 231-6215)
参加料:600円(ゲーム代と親睦会会費)当日受付
申込:岡山市日中友好協会(225-5068)
予定人員:中国人20名、日本人20名

劉建雲先生博士論文出版支援のお願い                 協会会長 片岡 和男
 岡山大学非常勤講師・劉建雲さんは、このたび博士論文「中国人の日本語学習史」を公刊されることになりました。当協会第8回公開講座で、その一端を講演していただきました。講演の要旨は、会報「岡山と中国」平成17年4月号(172号)に記載されています。この論文は、日本人、中国人の研究者はもとより一般の人々にとっても貴重な資料となるものと思います。

 協会の理事会で検討の結果、出版資金を援助することになりました。このカンパは、会員の自由意思により、金額も自由でありますが、目標は50万円としております。送金は振替用紙か、協会事務所のカンパ箱をご利用ください。期間は2ヶ月間とさせて頂きます。出費多端の折柄まことに申し訳ございませんが、よろしくお願い申し上げます。

活動日誌
4/6 洛陽からの研修生于愛紅さんの送別会
4/14 中国三誌友の会、第139回定例会
4/20 会報172号発行
5/12 中国三誌友の会、第140回を兼ねて、日生へ親睦旅行
5/14 第9回文化講座「中国残留日本人孤児の足跡」講師は青木康嘉先生と高見英夫氏
5/24 第3回理事会
6/9

中国三誌友の会、第141回定例会

会員消息
【入会】
岡本多太資さん(岡山市西大寺)
安田和子さん(岡山市浦安南町)
楊ショウ娟さん(岡山市伊島町)
大原利憲さん(岡山市伊島町)
【委嘱】
「日本さくらの会」(会長・河野洋平衆議院議長)の「さくら専門委員」に西日本でただ一人、國忠征美さんが委嘱された。

先憂後楽
 岡山県日中教育交流協議会の訪問団随行で上海にきている。中国では大学入試のための全国統一試験が実施されていて、今回訪問した2校の高等学校も試験会場になっていた。

 全国で300万人、上海市だけでも11万人が835校に分かれて実施されるこの一大イベント。幼稚園から始まった受験競争のすべての成果がこの3日間に集約されるため、周りはいろいろと気遣いが大変だ。

 親はタクシーやホテルを手配しなければならない。その際、ゼロと4と6の番号は忌み嫌われる。0は零点、4は死を、6は落ちるという意味を想起させるとして、タクシーのプレート番号やホテルの部屋などは、この数字かどうか確認して、それを除いて予約するのだという。試験時間中は警笛を鳴らしてはいけない、騒音を出す工場は休む、英語のヒヤリング試験がある8日の2時半から1時間は学校の周りで交通規制がしかれる。市民はその事態を当然のように許容しているようだ。

 大学入試は日本と異なり、大学独自の試験はなく、すべて統一試験だけの点数で決まる。良い大学へ行けば良い生活が保障されるということを疑う人は少ない。良い高校、中学、小学校、幼稚園とすべてがランク付けされている。大中国を指導するエリート群が形成される過程を垣間見たような気がした。(松)

実践中国語講座 受講生募集
入門クラス 毎週月曜日 6時半~8時
初級クラス 毎週水曜日 6時半~8時
中級クラス 毎週木・金曜日 6時半~8時
上級クラス 毎週火曜日 6時半~8時            お問い合わせ:225-5068


「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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