2007年10月
平成18年10月
  187号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
中西資料より明かされる後楽園の郭沫若先生詩碑建立の新事実
 全国に先駆けて岡山で日中友好協会を立ち上げ、初代事務局長を務めた中西寛治さんが所蔵していた日中友好関係の資料を友好の証として保存し、今後の友好活動に役立たせるため、協会は、9月18日の理事会で遺族よりお申出のあった資料寄贈について、受入れることを決定し、9月21日、松井事務局長が中西さん宅を訪問し、正式に寄贈書をいただいた。これに基づき、9月29日、時あたかも日中国交正常化三十五周年のその日に、赤木理事と松井事務局長が資料を受領した。

 今後、資料を整理し、展示会や冊子の発行、会報「岡山と中国」紙上を通じて会員や岡山市民県民に広く紹介していく予定である。

 今回はその中の一つ「後楽園の郭沫若先生詩碑建立」のいきさつについて資料から紹介したい。

詩碑は市民が作った!
 1961年4月3日、午前11時、後楽園にて、三木行治岡山県知事、寺田熊雄岡山市長ら大勢の来賓の臨席を得て、詩碑の除幕式が挙行された。

 この詩碑は、「訪日来岡記念 郭沫若先生詩碑建設委員会(委員長−田中文男岡山大学医学部名誉教授)」が一般市民に寄付を募って建立したものであった。その準備委員会や中国との連絡など、中心的役割を果たしたのが、当時の日中友好協会岡山支部(支部長−寺田熊雄岡山市長、事務局長−中西寛治)で、建設委員会の事務局は岡山市役所内におかれていた。

 趣意書によると募金は目標額を100万円としていたが、実際には約30万円が集まった。それでも当時の金銭価値からすると大金には違いない。また石碑の万成石は市内の石材店から寄付の申出があり、碑の鋳造も会員の手によるなど市民の積極的な協力があったことが伺える。詩碑建設収支決算書によると材料費等の支出が7万円、全体でも27万円余りとなっており、募金額内で建立できたことがわかる。いずれにせよ、場所の提供は後楽園の無償提供であったが、その他の費用は市民募金で賄ったのだ。

碑文の案は二つあった!
 ところで、この詩碑建立の起こりは1955年の12月に郭沫若氏が中国科学院訪日団の団長として来日したときに、歓迎会のあった岡山ホテルの席で郭沫若氏がメニュー用紙の裏に走り書きした即興詩にさかのぼる。中西さんの資料によれば、この宴席で郭沫若氏は三枚の詩文を即興で書いている。

 一枚は建設委員会の委員長である田中文男氏に贈ったもので石碑となった「後楽園乃在烏城不可尋願将丹頂鶴作対立梅林」(後楽園はあるが烏城は失くなってしまった。せめて一つがいの丹頂鶴を梅林に立たせたい)である。

 そしてもう一つは、当時岡山大学の学長であった清水多栄氏に認めたもので「久別重遊以故郷操山雲樹鬱蒼々●年往事渾如昨信見火中出鳳凰」(久しぶりに訪ねてみると故居のように思う。操山の木々は昔のように茂り、40年前の出来事は昨日のことのように思う。まさに鳳凰が火の中から生まれるときのようなたくましさだ)。

 更にもう一句、「青年是進化的原動力不断地推進人類文化到達無限高度的境地」(青年は進化の原動力である。たゆまず人類の文化を推進し、無限に近い高度な境地に到達させよ)がある。これは誰に贈ったものか不明だが、資料には毎日新聞社の記者を通じて日本青年への言葉として残したとある。

 建設委員会では前者の二首を選び、郭沫若氏に清書して送ってもらいたい旨要請し、その後直筆の書が送られてきて、最終的に「後楽園…」が選ばれた。

詩文の元原稿が見つかる!?
 岡山ホテルのメニュー裏表紙に郭沫若氏が認めたという記述があるが、中西資料の中にそれらしいものがあった。当時の岡山ホテルのメニューがわかる方がおられたら、確定できるが、まだ推測の域を出ない。筆跡は確かで、郭沫若氏の直筆ということも貴重であるが、岡山と中国の友好の一こまを示す歴史資料としても価値がある。

中西寛治随想記 (1)−革命後、新しい中国では誰が一番偉いのか?−
 岡山県訪中文化視察団の副団長で、当時、岡山県仏教会長であった岩本為雄大僧正が上海で、紡績工場の退勤時間に、14、5才の女工さんをとらえて次のような質問をした。それは「中国では誰が一番偉いのか?」という質問をしたのである。この質問は当然答は「毛沢東」というであろうとの予想の上に立ってのことであったと思う。ところがその少女は自分の胸を指して、「中国ではこの私が一番偉いです」と言った。これにはみんな驚いたのである。

 その後各地でこれと同じ質問をして見たが皆同様に中国では自分が一番偉いのだと言った。このことはみんな幸せになるような国家にするには、各自が国家の主権者であり主人公である自覚と責任をもっているということではあるまいか。日本の憲法には主権在民がハッキリ明記されているにもかかわらず、未だにこのことを自覚していない人が多いために、いろいろの混乱が起きているように思う。中国の少女の如く巍然たる自覚と自信に満ちた態度と日本の現状と思い合わせるとき、戦後15年にもなる現在未だに他国の軍隊が、わが者顔に駐留しているこの屈辱的な現実を反省してみるときではあるまいか。

 今から約100年前の明治維新に、アメリカから黒船が来て、長い鎖国の夢が破られ、文明開化の近代文化の出発点となった。しかし各国と交易をするようになってみると、次第に文化の程度、国力の差異は遂に日本の主要な開港地に(北海道の函館、横浜、名古屋、神戸、呉、長崎)外国人の居留地として治外法権の一区画を日本の国内に設け、日本の法律の及ばない屈辱的な特権を許す結果となった。国民の努力によって、明治の末期にようやくこの屈辱を排除することができた。これを排除することに尽した我々の先祖の努力を我々は今思い起こすと共に、五十年後の現在再び我が祖国の至る所にアメリカの軍事基地と租界以上の特権を許している現実に対して、かつて我々の先祖が如何に多くの犠牲を払って、誇りを傷つけられた屈辱を排除したかその貴重な経験を今こそ想起すべきときではあるまいか。

 現在の中国が解放前、上海の租界に英国人の経営する公園の入口に「犬と支那人入るべからず」と書いた立札が立っていた。これはあまりにも有名な話で、当時この話をして日本人の多くは笑ったものである。しかし現状の日本はどうであるか、日本の至る所のアメリカ軍基地に犬は自由に出入りできても日本人だけ入れないのが現実である。

 かつて中国の科学院長郭沫若先生は「中国の解放は日本の明治革命に多くを学んだ」といわれた。私たち日本人も、中国がアヘン戦争以来百年にわたる長い帝国主義の植民地としての屈辱を完全に排除して今日の輝かしい独立をかちとった経験に学ぶときではあるかまいか。  〜1960年6月5日記〜

洛陽市における大型遺跡の保護と活用の実態      洛陽市文物管理局主任 李 修徳
 岡山市役所中国歴史文化研究所・古代吉備を語る会主催、NPO岡山市日中友好協会共催の夏季特別講演会が、8月19日(日)午後1時〜午後5時まで、岡山県立図書館多目的ホールで開かれました。
 3人の講師の講演の中から表記の講演の一部を掲載致します。

1 はじめに
 中国では大型遺跡と呼ばれるものは、すでに考古学分野における大型遺跡の定義にとどまらず、すなわち大型遺跡・古墓葬・大型古文化遺跡の略称という概念を越えています。大型遺跡とは、以上挙げた文物保護対象の一個一個を指すこともできるし、さらに地理と関係する遺跡や文物・建築群を含む総合遺跡群を指すこともできます。区域文化遺産、文化と自然遺産と解釈することができます。

 現在中国では、大型遺跡についての統一した定義の基準がまだ定まらず、面積が5k?以上及び、人間生活の跡があり、高い歴史文化的価値を持って、しかも移転できない地下文物遺跡のことを、一般的に大型遺跡と呼んでいます。大型遺跡は我々の祖先が大量の人力を費やして造営し、長い間人間活動に使われた遺構です。中国古代人の優れた創造力を具現化して、5000年に及ぶとまでいわれる中華文明の歴史の主体となります。

 洛陽周辺では、洛河沿岸の東西30qも満たさない範囲内に、二里頭遺跡、偃師商城、東周王城、漢魏故城、そして隋唐洛陽城の5つもの大型遺跡が分布しています。「五都会落」(五つの都城が洛陽にあつまるとの意味)ともいわれています。都の遺跡がこれほど密集に集まり、しかも文化的関係が強く、こんなに長い時期を跨るとは、世界においても稀な例です。洛陽は、よく中国古代都として最も造営が早く、都としての時期が最も長く、そして都に決められる時代が最も多いといわれるが、この五大遺跡によるところが大きいです。そのため洛陽が国家レベルの歴史文化の町としても名高く、我々洛陽の人もとても誇りに思っています。

2 洛陽における大型遺跡の文化的意味と現状
【二里頭遺跡】
 偃師二里頭村に位置して、学界でも最も注目を集める古文化遺跡に数えます。遺跡の面積は3q3 に及びます。早くも1950年代から、夏ライ先生が率いる考古発掘隊が河洛辺りで夏王朝文化を探索し始めました。長年に渡る考古発掘と研究の結果、二里頭遺跡の全盛期が夏(王朝)文化の時代と一致することが判明されて、考古界ではこの時期の文化を「二里頭文化」と呼んでいます。40年来の文物探索と考古発掘が絶えることなく続き、延べ4q3 を発掘しました。二里頭遺跡ではたくさんの中国あるいは東アジアの記録が明かされました。中国最古の大型宮殿建築群と宮城遺跡、最古の青銅礼器群、最古の鋳銅工房、最古の二輪馬車の車軌跡、そして歴史・芸術・科学において高い価値を持つ大型トルコ石龍形器などが挙げられます。二里頭遺跡の発見は、中華文明の起源、国家の発展、都市の成立、王朝建設、王室体裁などの重要課題を研究する上の重要な材料となります。二里頭遺跡で発見された実物と史料を照らし合わせた結果、夏王朝長い間持続した結果商王朝にとって変わったと認定できました。

【偃師商城】
 現在偃師市屍郷溝辺りに位置して、面積は約20q3 に及びます。遺跡は1983年首陽山発電場の位置選定の際に行われた文物調査と考古発掘で発見されました。今までに20回余の計画的古発掘が行われました。城内に大城、小城、宮殿三重城壁、そして何組もの宮殿建築基壇、民居・工房・墓葬などたくさんの遺跡を発見でき、中国考古発掘で今まで発見した遺跡の中で、最も格式が整って、中身が豊富で、保存状態がよい古代都城遺跡の一つです。研究の結果、この遺跡は商時代早期の都城遺跡で、すなわち商王朝が夏王朝を滅ぼしてから建てた第一都城の遺跡です。現在この遺跡は史料に見られる都「西豪」であることが判明されました。海外の学者たちは、偃師商城遺跡の発見を、19世紀ドイツ考古学者シュリーマンが発見したかのトロイ古城と並べています。またユネスコによって1983年の世界17大発見の一つにされています。

 洛陽は歴史文化の町、古都として著名ですが、そのすばらしい歴史を語る数多くの遺跡は黄土と草原の下に埋もれています。そのため、国内外の観光客の多くは、洛陽の歴史と文化を味わうこともできませんでした。これから数年間のうちに、いくつかの大規模遺跡公園を建設することに成功すれば、洛陽市観光の中身も充実して、観光面での発展にも多大な利益をもたらすと考えています。大型遺跡保護プロジェクトの実施と、遺跡博物館の建設により、洛陽の古都としての魅力がもっともっと世間に認識されるようになると信じています。

第4回理事会開かる
 9月18日(火)14時より、協会事務局で、第4回理事会が開かれた。出席者7人。主な協議事項は次のとおり。

1 中西寛治理事が遺した中国関係資料の保存について
  • 資料を協会事務所で保存する
  • 資料を整理し、目録を作成する
  • デジタルカメラでデータを保存する→ファイル化
  • 会員や市民への公開展示会、協会紙上で紹介
2 第19回生涯学習フェスティバルの開催時、岡山市が開催する「生涯学習おもちゃ箱イン岡山ドーム」に参加する件
  • 野外屋台コーナーに「日中友好茶館」を出店し、お茶、お菓子、ドライフルーツ、冷凍餃子、ニラ饅、唐三彩等を販売する。
  • 協会が洛陽で展開している緑化協力事業のパネル紹介をする。

3 中国映画上映会
 岡山県立美術館ホールで、12月15日(土)午後に2回上映する中国映画「水没の前に」(三峡ダムの建設に伴う集団移転によって寂れゆく街の様子や、大変化を前に心揺れる表情などを撮ったドキュメンタリー映画)のチケットを400枚販売する。会員に協力をお願いする。

洛陽だよりB                             洛陽大学研修生 安井 美那子
洛陽大学
 7月8月中旬まではほとんど誰も人がいない状態であったが、8月の終わりの週になると大学の中はだんだんと生徒であふれている。生徒達は9月3日から授業が始まるのでそれに合わせて早めに帰ってきているようである。洛陽大学は9月から洛陽大学ではなく、洛陽理工大学になるようだ。二つの大学が一つになって合併するらしい。合併といっても完全にはまだいかないらしい。大学は大きいのでこれから何年かかけて徐々に一つにするらしい。9月からは日本語教師の日本人の先生は一人だけである。洛陽大学の生徒にとってとても残念なことである。私は自分ができる限り支援できたらいいなと思う。積極的に行動したいと思う。

生活
 8月の1週目は一人ゆっくり洛陽大学で休養をとっていた。大学にも誰も人がいないので、大学の近くの小さなスーパーの亭主と少し話をする程度しか中国語を話す機会がなかった。とても残念であった。またボランティアとして洛陽にある日本語教室で高校生を対象に約70人以上に日本語を教えた。

 8月の2週目から約1週間、上海に住んでいる外国人の友達が洛陽に遊びにきた。洛陽市政府のお父さん(丘さん)が色々なところに連れて行ってくれた。龍門石窟、白馬寺、関林廟、少林寺などの洛陽で有名なところに行った。中国語で私の友達に洛陽を紹介するという事はとても不思議であった。4ヶ月前までは何もさっぱりわからなかった自分が今では洛陽の色んな場所・事情等を、自分の町のように説明しているのには本当に不思議であった。友達が来てくれたおかげで沢山中国語を話すことができたように思う。また洛陽市政府のお父さんにとてもお世話になった。本当にありがたかった。

 そして私の友達が上海に帰った後、私は北京、上海に11日ほど行った。北京では友達の家に泊まらせてもらった。そして万里の長城を作った中国人は本当に頭がいいなと思った。教科書に載っている万里の長城を実際に登ることができて本当によかった。やはり見ると登るのとでは全く違った。遺産を通じて中国の歴史を見ることができた。本当に万里の長城はすごかった。中国って大きいなと改めて感じた。

 北京の駅で汽車を待っているとき、8人の中国の人と話す機会があった。その時、私が日本人だと分かるとどこから来たのか、日本のどこに住んでいるのか、北京はどうだったかなどの質問をされた。そこにいた中国の人たちはとても友好的であり、これからの将来についても話をした。また中国と日本の歴史についても話をした。やはり歴史問題は絶対にかかせない。中国にきてそれを本当に感じた。日本ではそんなに考えたり、話したりすることはないけれど、中国にきてから色々と考えさせられる。

 そして上海では上海師範大学の留学生が住む宿舎に5日泊まった。そこでは他の国からきた留学生と交流を楽しむことができた。洛陽大学には留学生が私だけしかいない。上海師範大学には沢山の留学生がいて、とてもうらやましく思った。いろんな国からきているので、そこでも異文化コミュニケーションができる。そのような環境で留学生同士がお互い助け合って生活しているので本当によい環境であると感じた。九月からまた新たな気持で頑張って中国語を勉強しようと思った。

親善活動
 洛陽大学の楊先生は洛陽大学以外にもボランティアで洛陽にある日本語教室で日本語を教えている。私は楊先生に頼まれて楊先生のアシスタントとして中国人の生徒に日本語を教えるお手伝いをした。

 この教室は日本語の他にも英語教室、美術の教室、書道の教室があった。日本語教室の生徒は、日本語をまったく勉強したことがない高校生を対象としていた。その数70人以上であった。3回だけしか教えるという機会はなかったが、私にとってとてもよい経験になった。

 第1回目の授業、私はとても緊張した。70人以上の人の前に立つという経験をしたことがないからだ。本当に貴重な経験をさせてもらった。授業は初め、「みんなが知っている日本はどんな国」から始まった。着物・富士山・アニメなど日本を代表されるものが挙げられた。またみんなが知っている日本語は何かという質問をした。あいさつはほとんどの生徒は知っていた。またよくない日本語も知っていた。そしてどうして日本語を学びたいのかなどの動機や、きっかけなど楊先生は生徒に質問していた。そうした所、一番多かったのはよい仕事につきたいからだという答えであった。そして前置きが終わったところで楊先生が中国語で説明した後、私が発音をするという形式で授業を進めていった。初めてなので「あいうえお」からの五十音から学習していった。そして70人以上の生徒が私の後に続いて発音をしていった。みんな熱心に取り組んでいた。

 2回目の授業は1回目ほど緊張せずに日本語を教えることができたと思う。授業は「あいうえお」の五十音の復習をしていった。そして簡単な日本語のあいさつを私と楊先生が生徒の前でして見せた。生徒達はとても熱心で発音する時全く恥ずかしがらずにみんな大きな声で発音していた。また楊先生が何か質問すると必ず生徒から答えがすぐに返ってくるということに気づいた。日本ではあまりそういうことはなかった。手をあげて発表するとかならあるけれど。また五十音のあいうえおの歌をみんなで歌った。みんな大きな声で歌っているのにはびっくりした。私が中学・高校の時は、そんな大きな声で歌うということはなかったからである。生徒の積極的な態度に感心させられた。またとても新鮮に感じられた。

シリーズ洛陽(7)  海法大師
 想い出の白馬寺、海法大師は1981年10月、洛陽へ岡山県日中仏教文化交流会一行が参拝、初めてお目にかかった。
 十年動乱――文革が終って4年め、まだ悪夢さめやらずで、その顔は上気し、涙をうかべて日本仏教徒を歓迎。10年間、無言行――一切ものを言わない、という抵抗を貫いて古寺を守った。

 その後、岡山に3度、飛錫し、両市交流を果された。91年、岡山市民26人に授戒壇をひらき、法名と「雖是扶桑佛弟子 此心永系洛陽城」の一文を贈っている。

 白馬寺の国際寺院化構想を表し、仏教国へ寄びかけた。中国仏教の祖庭、最初の寺院なればこそであろう。今日、タイとインドが建設している。

 全人代委員(国会議員)をつとめ、大著『海法一滴集』で仏教の全体像を示された。97年12月15日、76歳で遷化。境内で火葬し、みどりいろのヒスイのような仏舎利(遺骨)40数粒がのこされた。霊気を放っており、岡山市長泉寺の楽陽廟の舎利塔にまつられている。(協会理事 宮本光研)

ちょっとチャット(45)  五輪はやはり魔物』大きく表情変える北京
                                   元大阪市教育委員長 西崎 建策
 開幕まで1年をきって、北京オリンピックの話題が、日本のメディアでもしきりに取り上げられるようになった。私はそれを見たり聞いたりするたびに、ことし5月、北京を訪れて垣間見た五輪の準備風景や街の変容ぶりを思い出す。

 建設を急ぐ競技施設の中で、ひときわ目を引いたのは9万余人収容のメーンスタジアムの国家体育場だ。鋼材を網の目状に組み合わせた外観から「鳥の巣」と呼ばれる。水のあわを集めて四角い型にはめ込んだような国家水泳センター。こちらは「水立方」の異名をとる。

 意表をつくデザインと、ユニークな愛称。やがてここで世界のアスリートたちが繰り広げるドラマは、きっと刺激的だろうと、そんな想像力をかりたてられた。

筆者写真
「鳥の巣」を背に筆者
 訪れたのは黄砂の季節だったが、街のほこりっぽさは、そのせいばかりではなかった。いたるところで、道路拡張や公園造成の工事が進められ、土ぼこりを撒き上げている。その先にぼやけて見える高層ビル群。四方八方、どっちを向いても林立している。「これだけ需要があるのだろうか。五輪バブルではないか」と、つい気になった。

 北京の人たちはいつ、こんなに行儀がよくなったのだろう。そう思う光景に出会った。バス停にきちんと列ができ、バスが来ると順番に乗車している。「割り込み乗車をしない、たんを吐かない…。マナー向上に当局は躍起なんだよ」と北京在住の友人の話だった。

 街も人々も大きく表情を変える北京。背景には、2ケタの成長を続ける経済力がある。国家の威信も見てとれる。そして、私はつくづく思った。「それにしても、この変容ぶり。オリンピックは魔物である」

 6年前、北京と開催都市を最終的に争ったのはトロント(カナダ)、パリ、イスタンブール(トルコ)、それに大阪だった。当時、私は大阪市の教育行政に関っており、そんな縁から五輪招致委員会のメンバーに名を連ねていた。

 ちょっと大げさにいえば、「魔物」を追いかけた関係者の一人である。だからこそ、私にとって北京五輪は無関心ではいられない。

 その祭典は、中国人が縁起のよい数字とする「八」がいくつも重なる二〇〇八年八月八日午後八時、「鳥の巣」での開会式で幕をあける。(協会会員)

活動日誌
8/21 第18回「福祉の翼」中国上海訪問(24日まで)
8/8 会報「岡山と中国」186号発行
9/13 中国三誌友の会161回定例会
9/18 第4回理事会
会員消息
【入会】佐藤芳郎さん(倉敷市)
【出版】家野四郎さんが「長江三峡の移民の子どもたち」を翻訳出版した。

中国映画上映会を成功させよう!!
 12月15日に『岡山・中国映画上映会2007』が開催される運びとなった。国交正常化三十五周年記念行事として、当協会と岡山県日中懇話会との初めてのコラボレーションでの実施。映画は『水没の前に』(中国語の原題は「俺没」)で、長江三峡ダムの建設で町が水没し、移転に伴う補償問題など、庶民や行政の強欲、混乱を力強くドキュメンタリー映画に仕上げた話題の作品。毎年、世界で最も注目されているドキュメンタリー映画を上映している『山形ドキュメンタリー映画祭』の2005年の大賞を受賞した。

あらすじ
 『中国・長江の中流域で建設中の三峡ダムの工事で、近い将来水没することとなり、皆で一斉に集団移転することとなった四川省奉節の町民たちだが、長年住み慣れた土地への別れに悲しみ、また割り当てられた移転先や補償金に納得がいかない。彼らは、政府の呼びかけを頑なに拒んで、いつまでも元の住居に居座り続ける。その上行政ミスも重なり集団移転作業は思うようにはかどらない。が、いよいよ旧い住宅の取り壊し・解体作業が始まるに従って事態は動き始める……』

 この歴史的なドキュメンタリー映画は一般の上映館にはかからないので、どうかお見逃しなく!チケット販売にもご協力をお願いします。

先憂後楽
 神戸にある財団法人三江会館創立九十五周年の祝賀会に招かれ参加した。理事長は姜成生氏で、岡山の八仙閣の店長をされていた事があるので知っている方も多いだろう。

 挨拶に立った姜理事長は、三江会館という名前の由来について触れた。浙江省、江蘇省そして江西省の三省の出身者で構成する華僑の組織で三江公所とも言われた。ただ現在は江西省出身者は見当たらなく、二江となっているが、祝賀会に臨席した中国大阪総領事の羅伝浩氏が江西省の出身であることから三江が相集い、祝賀会に花を添えていただいたとユーモアたっぷりに紹介された。

 日本華僑の歴史は、2000年以上前に、秦の始皇帝の命を受けた徐福が数千人もの人々を連れて、不老長寿の神仙薬を求めに蓬莱(日本)にやってきたのが始まりという説がある。それはともかく、三江会館の設立は1912年、つまり中国が長い封建体制から近代国家へと移行した辛亥革命の翌年にあたる。中国はその後、日中戦争や国内戦争を経て1949年に新中国が建設され、今日の経済発展著しい中国に生まれ変わった。

 この間、在日華僑の人々は様々な苦労や反中的な時代を乗り越え『郷に入っては郷に従う』という立場で協力し合い励ましあって今日の状況を切り開いてきた。三江会館の歴史はそのまま日本華僑の歴史といえる。

 祝賀会に招かれた多くの日本人は親戚のような温かいもてなしを受けた。それがまことに自然であった。人との関係を大切にする中国人気質を拝見させていただいた(松)

アジア・コム旅遊消息
ハルピン氷まつりを見に行こう!
 松花江の川から切り出した氷を使って作られる幻想的なオブジェが並ぶハルピン氷まつりを体験しませんか?
2008年1月26日(土)〜29日(火)
−−− うれしい岡山空港発着 −−−

n 2008年企画 第2弾 n
青蔵鉄道で行くチベットの旅
2008年7月頃 岡山空港発着予定
その他、九寨溝の旅・丹東の旅を計画中 乞うご期待!

11月〜3月の航空券料金発表!
12月以降の学生料金もあります。
来年春節(2月7日)の中国訪問の
ご予約はお早めに!!

「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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