岡山と中国 2008年4月
平成20年4月
  190号


発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
協会訪中団が友好都市洛陽市を訪問
洛陽市人民政府を
表敬訪問する団員たち
洛陽市人民政府表敬訪問 
  4月16日、岡山空港を出発した協会訪中団(団長−片岡和男会長ら7名)は、17日鄭州より偃師市にある玄奘三蔵の故居を見学した後、洛陽入りし、早速、洛陽市人民政府を表敬訪問した。接見したのは洛陽市副市長の王立林氏で、王新士副秘書長、方双建外事弁公室主任、楊明洛陽市人民対外友好協会秘書長らが同席した。王副市長は、友好都市締結以来岡山市日中友好協会が一貫して友好交流活動を継続し、困難な時にも両市の民間交流を継続し、交流再会に大きな貢献をした。

  また、最近の孟津県小浪底における緑化活動は洛陽市民の環境意識やボランティアへの認識を高め、大きな役割を果たしていることなどを紹介し、高く評価した。

  片岡会長は、「洛陽は第二の故郷、今後も様々な分野で交流を展開していきたい」と語り歓迎への感謝の意を表した。また訪問団の一員として参加した前岡山市副市長の天野勝昭氏が発言し、岡山市が政令指定都市になることや来年には全国緑化フェアーが岡山市内で開催されるので是非とも参加してほしいとアピールした。

協会訪中団が植樹作業!
地元農民らとともに植樹 

  4月18日はあいにくの小雨模様の天候だったが、朝から、作業服に身を包んだ団員らが、孟津県小浪底の緑化協力基地へ赴き、孟津県県長、小浪底鎮長、林業局職員や地元農民らと手を携えて約100本の側柏の植樹に汗を流した。

函谷関見学
  『箱根の山は天下の剣、函谷関も物ならず……』と歌われた函谷関の遺跡が洛陽の郊外にある。一つは三門峡市の霊宝県にある秦朝時代のもので、今は修復して立派な門が再現されている。今ひとつは洛陽市の新安県にある漢時代の函谷関。ここは、未整備だが、漢時代のそのままの遺跡が残っており、貴重な歴史遺産だ。洛陽から西安に至るこの道は戦国春秋時代の戦地であり、数々の物語が残っている。新安県政府の石艶輝さんの紹介によると、

  現在、ユネスコの世界文化遺産に申請中でまもなく批准される予定だと言う。批准されたら、遺跡を保存しつつ、観光地として整備するという。石さんは、この3月に洛陽市外事弁公室の副主任から新安県の党常務委員会に異動したばかりで、訪問団員とは日本で何回か会っていることもあり、熱烈な歓迎を受け、特別に夕食を招待していただいた。
秦の函谷関
秦の函谷関
 
漢の函谷関
漢の函谷関 

有意義な訪問団
『2006年全国模範友好都市!』
  今回の訪問は準備の時間が少なく、少人数となったが、牡丹祭りの時に、洛陽市と関係のある福島県須賀川市、奈良の橿原市など多くの訪問団が参加している中で、民間団体とはいえ岡山市から参加した意味は大きい。外事弁公室の楊明さんは『岡山と洛陽の友好都市交流は2006年武漢で開かれた中国人民対外友好協会の全国会議で模範友好都市として、高く評価された。その席には中国外交部の唐家旋氏も参加していた』と紹介した。市民の往来だけでなく、希望工程小学校の建設、緑化活動、研修生の交換など具体的な交流の足跡を残しているのが評価されたと言う。

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上海市人民対外友好協会代表団が来岡
旭川荘資料館前で
記念撮影
旭川荘資料館前にて 

  3月29日、旭川荘の招きにより、汪小樹常務副会長を団長とする上海市人民対外友好協会(以下、上海友協とする)代表団が岡山を訪問した。

  一行は、汪副会長のほか奚家騏常務理事、王加新日本処長そして通訳の周国栄氏ら4名。旭川荘では、江草安彦名誉理事長、板野美佐子常務理事、岡児童院院長らの出迎えを受け懇談の後、資料館、児童院、敬老院を参観した。
  また、岡山県日中教育交流協議会の岡田浩明会長、松井事務局長もかけつけ、挨拶をした。上海市友協はこのたびの人事異動で日本処関係が大幅に入れ替わり、新しい体制となったため、日本の関係都市への挨拶を行うため訪日していた。

  上海友協は岡山県とも経済、港湾、航空関係などで交流があり、また民間交流としても旭川荘を中心とする医療福祉交流、教育交流、女性交流など幅広い方面でカウンターパートとなっており、関係が深い。

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「中国残留邦人」の発生と訴訟の判決・和解の経緯について
  王道楽土と称した日本の傀儡国家・満州国に国策として開拓団が送り込まれ、続いて女性も派遣された。しかし、生産は思うように出来ず、生活苦は深刻になった。そこにソ連の参戦により蹂躙され、開拓団の南への「死の逃避行」となり凄惨な状況となった。そのため老人と女性と子供たちは放置された。そうした中で、なんとか生きながらえてほしいとの母親の望みをかけて中国人に預けられた子供たち、あるいは女性たちが残留し、僻地農村に赴かされた。このようにして中国に取り残された「残留邦人」にたいして、帰国の遅れと帰国後の自立支援法が極めて乏しかったことを違法として、国家賠償を求めた訴訟が、2002年12月全国孤児の9割の約2,200名が原告となり提訴したが、1勝7敗であった。

  この期間に、元日弁連副会長、中国残留日本人孤児国家賠償請求訴訟岡山弁護団団長である奥津亘弁護士の絶大なご尽力、ご活躍があった。先生を先頭に原告団・弁護団は与党PTに対して精力的に働きかけ、与党PTとの連携を重視し、その支援策をとりまとめ、訴訟を終結させ、福田総理の謝罪が行われ、厚生労働省は支援策を誠意を持って取り込むとの意思を表明し、順次、全国の訴訟は終結に向かった。内容は「改正帰国者支援法」によるもので、満額の老齢基礎年金を受給できる「満額支給」と生活保護に代わる「支援給付金の支給」が柱である。対象者は四月一日から実施される。
戦争の犠牲、なぜ、このような犠牲者が生まれたか?その歴史を知っておかなければならない。また、この解決が日本と中国との友好の懸橋となって欲しいと思われる。

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中国人留学生呂燕玲さん 支援活動レポート
中国総領事舘羅田廣総領事がお見舞い・・・
  倉敷市内で交通事故に遭い、意識の戻らないまま同市内で入院中の呂燕玲さんを見舞うため、四月二日岡山へ公式訪問をしていた羅田廣総領事が急遽入院先を訪れた。これは、支援するNPO法人「おかやま犯罪者サポート・ファミリーズ」と岡山市日中友好協会が三月末に総領事館を訪問した時、総領事より申出があり実現したもの。総領事は「政府として関係部門と協議し事態の解決に向けて協力する」と、看護のため来日していた姉の呂彦玲さんを励ました。

現在の状況・・・
  呂さんは河北省邯鄲市の出身で岡山大学研究生だった2006年11月に倉敷市内でアルバイト帰宅中にトラックにはねられ頭などを強く打ち重体となった。その後、保険会社からは具体的な賠償の提示がなく時がすぎていったが、このほど具体的な提示がなされ、現在双方で話し合いを継続している。呂さんは「裁判にせず、早期に和解で解決して、祖国に帰して治療させてやりたい」と語っていた。

呂彦玲さんを励まし送る会が開かれる・・・
呂さんを囲んで 
  4月3日、市内尾上の神道山の黒住教総本山「しんとうざん茶店」で、支援者ら15名が集まり、もう一人のお姉さんに看護を交代するため帰国する呂彦玲さんの歓送会が開かれた。参加者は大元なべをつつきながら、呂さんを慰労しそれぞれ励ましの言葉を述べた。協会からは片岡会長、家野理事、松井事務局長が参加した。

  協会としては、理事会での討議も経て、支援サポートの方々と協力し、総領事館と連絡をとりながら、呂さんが帰国し、治療ができる日まで支援を継続していく予定である。

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中西寛治随想記(4) -歴史の教訓に学ぼう−
  若い人たちの集りで、「戦争」の話をするとき、悲惨さ、残虐さが語られると、「あなた方は、なぜ反戦に立ち上がらなかったのか」と若者は言う。戦時中の世代である私は、その問いに対して、あまりに意識のへだたりを感じ、答える言葉に窮するのである。

  昭和初期の世界的不況が日本全土に波及して、都市には失業者があふれ、農村は疲弊のどん底にあった。時の軍国主義者は、隣国である中国の「満州」(現在の東北)への侵略を企て「聖戦」の名のもとに、中国への侵略を開始した。

  大陸での戦火は、とどまることを知らず、十五年戦争の泥沼に入って確たる見透しのないまま、ついに第二次世界大戦へと突入し、破滅の運命をたどったのである。

  私たち日本国民にとって、あの戦いとは何であったのか?確かに正義のない戦いであった。だが、そう決めつけるだけでいいのか。その時代を、中国大陸で戦火を経験してきた私には、全く無意味な青春を浪費した戦いであった、と切って捨ててしまうような風潮には納得できないのである。

  なぜ「反戦に立ち上がらなかったのか」と問いかける今の若者に聞きたい。「君たちの反戦をいう自由、それはどうしてもたらされたのか」と。

  現在の君たちには、広くものを識り、深く考える自由があり物質的にも満たされている。自らの頭で判断し行動する自由がある。

  「徴兵されそうになったら逃げるさ」と笑ってすます自由さえ手に入れている時代に生きている君たちのことだ。

  反戦を口にする自由と言われても、すぐにはその意味が理解できないはずだ。だがその自由すら天与のものではなく、敗戦という高価な代価「二百万の同胞を失う」という犠牲を払った貴重なものなのだ。

  敗戦後40余年を経た今日残留孤児という後遺症に全国民の責任を問われているのである。40余年を経た今日未だに戦後は終わっていないのである。

  いわれのない兵をおこして他国を侵略し敗戦という日本の歴史に消すことの出来ない汚点を残したことは悔いても及ばない。だが戦って敗れた、という事実があったからこそ今日私たちに自由な思考を保証してくれる新憲法を手に入れることができたことも事実である。

  新憲法によって、青年は兵役の義務を免れ、女性は法的な無能力者ではなくなり、男女平等の時代を迎えたのである。

  戦前にくらべて、国民の人権は大幅に保障されるようになった。

  戦争中私たちの私生活に介入してきた特高警察官や憲兵は、それ自体解体された。この自由な生活こそが戦場で流された、多くの同胞の犠牲と血であがなわれた貴重な代価であると思う。あの戦争はそういう視点からもう一度改めて見直さなければならないのではないだろうか。

  戦争を知らない人たちが、そう思うようになったとき、はじめて戦場での同胞の死が意義あるものとして理解されるものと思う。

  澤地久枝さんの言葉を借りると、
 「歳月は歴史を風化させ、生活を老いさせてゆくのに反して、戦死者は、いつまで経っても、遺族の脳裏には青年であり、壮年のままであることを私たちは忘れてはならない。」(1987年)

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我非常愛中国!不能忘記中国的生活!!                       安井美那子
  昨年4月から中国の洛陽市に派遣されて、この3月に任期を終え、帰国してきた。本当に1年あっという間であった。渡航前は、慣れない土地、中国語がさっぱり喋れない、聞き取れない、初めて親元から離れて生活・・・不安もあったが、向こうでいざ生活してみると、その不安が一気に吹き飛んだ。それも本気で心配してくれる素晴らしい友達、熱心な先生方に恵まれたからだ。今こうして岡山に戻ってきて日常生活していると、洛陽での生活が恋しくて、恋しくてしかたない。この1年、本当に内容の濃い、私の想像をはるかに超える、充実した研修となった。

中国の学生との交流

  8月の夏休みの少しの期間、私は楊先生に頼まれて楊先生のアシスタントとして中国人の生徒に日本語を教えるお手伝いをやらせてもらった。日本語教室の生徒は、日本語をまったく勉強したことがない高校生を対象としていた。その数70人以上であった。本当に貴重な経験をさせてもらった。授業は、みんなが知っている日本はどんな国?という質問から始まり、着物・富士山・アニメなど日本を代表されるものが挙げられた。あいさつはほとんどの生徒は知っていた。そしてどうして日本語を学びたいのかなどの動機や、きっかけなど楊先生は生徒に質問していた。

  そして前置きが終わったところで楊先生が中国語で説明した後、私が発音をするという形式で授業を進めていった。初めなので「あいうえお」からの50音から学習していった。そして70人以上の生徒が私の後に続いて発音していった。みんな熱心に取り組んでいた。

  河南科学技術大学の日本語教師の先生に誘われて、日本語学科の生徒と一緒にソーラン節の練習をした。ちょっとした発表会があったので、その時に踊るためである。

  みんなで「どっこいしょ〜どっこいしょ〜」と掛け声をかけながら踊った。みんな初めて日本の伝統的な踊りで苦戦していた。しかし和やかなムードで笑いありの有意義な時間を過ごす事ができた。また私は日本にいるようで日本が懐かしくなった。

  また別の日には、日本語学科の生徒と一緒に野球をした。洛陽から3時間ほど離れたところに住むJICAから派遣された日本人の男の先生が野球のコーチとしてゲストとして洛陽にやってきた。中国では野球はあまりポピュラーなスポーツではない。男の子も女の子もほとんどが野球をやったことがない生徒なので下手であった。ボールの握り方、バットの持ち方などの基礎的なことをJICAの日本人の人は学生に教えてくださった。まずは準備運動からし、次にキャッチボール、それからバッティングをした。その時、とてもよい交流ができた。日本語学科の生徒は日本語の練習をし、私は中国語で話した。スポーツを通して友達の輪がまた広がった。

  河南科学技術大学では夜の9時半から体を鍛えるためにクラスごとで運動が行われている。バトミントンをするクラスもいれば、ランニングをするクラス、バスケットボール、バレーボールをするクラス、クラス全員で踏み台をするクラスもいる。科技大学に友達がいるので、私もその運動に参加させてもらった。男女一緒に走った。大体20分程度である。これは学校が決めつけているのでほぼ強制的らしい。日本の大学とは違うので驚くとともに新鮮であった。

  その他、空いている時間は、大学の中のバスケットコートでバスケ・バレー、卓球・バトミントンをして生徒達と楽しんだ。全然知らない人とすぐ打ち解け合って、気軽にスポーツができるのは日本ではあまり経験のできないことである。スポーツを通じて色々な仲間に出会えたのも本当に貴重な経験であった。

中国での新年

  中国の一大イベントである春節を過ごせた事はとても貴重であった。日本の正月とは比べ物にならないくらい、とてもにぎやかで、活気があった。

  6日の夜は日本でいう大みそかに当たる日で、その日の夜は一般、家族で餃子を包み、みんなで餃子を食べる。また春節の第1日は家族と過ごし、第2日目からは親戚周りにいくようだった。

  春節の3日前くらいから、町のいたるところで沢山のビエンパオ(爆竹)が売られていた。また親戚巡りのための手見上げが沢山うられていた。そして町の一軒一軒の家をみてみると赤い春聯が貼られてあり、中国の正月のムードが街中漂っていた。おおみそかの夜、カウントダウンとともに、外をみると花火がとめどもなく、上がっていた。また夜も朝もずっと爆竹の音が鳴り響いていた。あまりの音の大きさにびっくりした。日本では絶対に体験できないものである。夜も朝も、ずっと鳴り響いているので眠ることができなかった。そして外に出てみると、町中爆竹の後のカスがちりばめられていた。

  私はというと、6日の夜は、友達の家に泊まらせてもらった。毎年、中国では大晦日の夜、大体8時から12時までの正月の特別番組を見るのが習慣らしく、私もそれをみて楽しんだ。また友達たちとトランプをし、夜遅くまで中国の習慣を楽しんだ。そして、第1日目の日、また別の友達の家にお世話になった。友達の家族と私の4人で正月の御馳走をいただいた。その時、日本の正月、中国の正月についてお互い語ることができた。お互いの文化の違い、習慣の違いを話しあった。とても良い機会であった。その友達の家は農村であり、本場の中国の正月を肌で感じることができた。本当にどっぷり中国の正月につかることができたのでとてもよい経験であった。

  旧暦の1月15日にあたる日で、正月が本格的に終わる日にちであり、2月21日に当たる日であった。その日も、町中で花火が上がった。

  花火を見るために、洛陽の市民の人たちが公園に集まった。ものすごい人であった。また飾りちょうちんが沢山あり、それを見物した。
その日は、満月の日であり、満月とともに花火を見物できるのはとても和やかであった。

これからは・・・

  お世話になった先生、洛陽の政府の方々、一生の友達達には本当に感謝の心でいっぱいである。本当に日本に帰りたくなかった(笑)彼等とは今でもメールやスカイプで連絡をとっている。引き続き、ずっと連絡をとっていきたいと思っている。

  これからは、日本で、私の貴重な経験を生かして、日中友好のためにお手伝いをしたいと思っている。最後にこの場をお借りして、お世話になった日中両国の皆さまに心より感謝を申しあげる。

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シリーズ洛陽(9) 英知の対話
  日中友好に携わって久しい間に中国の大義も困難さも理解できる。あの日中戦争、文革の悲劇をのりこえてきた。五十余の少数民族の和諧にどれほど努力を重ねてきたことか。

  協会の交流活動や中国三誌友の会、中国映画の上映会などを通じて痛いほどわかる。

  チベットで発生したデモ。オリンピックの聖火リレーに訴え出る民衆。その心はわからないでもない。

  しかるに共和国から分離、独立を求めるとしたら、ダライ・ラマが言うように無理である。つまり道理が引っ込む。少数民族が分裂を始めるきっかけは避けたい。

  道理はダライ・ラマとこれを忌避する政府が対話することである。双方にその用意があるのだ。
かつては封建領主だったが、今や世界の英知の一人となったダライ・ラマ。政府も英知をもって真向い、オリンピックを成功させてほしい。

  科学的社会主義と仏教の可能性はともに旧社会を脱した。自から領域はちがうが、相互理解は可能。今欄は趣きをかえて、日中友好を進める立場から喫緊のことを書いた。
                                               (理事 宮本光研)

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ちょっとチャット(48) 「私の夢」                                 鮑 静 
  昔から医療看護に従事する人は「白衣の天使」又は「白衣のエンゼル」と呼ばれている。家庭環境の影響で、私は子供時代から、「白衣のエンゼル」になりたいという夢を持っていた。やっと念願が遂げられ、大学を卒業し、中国の洛陽における河南科技大学第一附属病院に入り、臨床看護師になった。その後、まじめにこつこつと働き、次々に一般外科、心血管内科及びCCU( Coronary Care Unit )で9年ほどずっと臨床看護の仕事をしてきた。

  3年前(平成17年)、岡山市日中友好協会のおかげで、私は研修生として岡山済生会総合病院とライフケアセンターで一年間研修させていただき、日本の進んだ看護理念、看護技術などを見学することができた。帰国してから、中国の看護について、特に高度な実践ができる看護人材、例えば、専門看護師、認定看護師などが最も足りないという現状をひしひしと感じた。一方で、近年の生活環境や食生活から起こってくるがんなどの生活習慣病が、日本でも中国でも課題として大きくクローズアップされてきた。特に肥満と関係の深い乳がんは、女性にとって、他の悪性疾患より若年層の罹患率が中国でも年々増えつつあるという現状がある。

  それゆえ、私は中国における高度な看護実践のために、質の向上を意図した看護ケアの開発と革新を進めることができ、それに、高度な専門知識と卓越した研究能力を高めるために、昨年(平成19年)の10月より留学生としてもう一度日本に来て、岡山大学医学部保健学科の研究生になった。それ以後、私の先生のご指導に基づき、勉強に専念している。皆のおかげで、大学院保健学研究科博士前期課程の入学試験に合格することができ、今年四月から保健学研究科大学院生になった。研究計画テーマは「乳がん術後患者のQOLにおける日中比較」である。研究の目的は、日中における乳がん患者の術後のQOLを明らかにし、比較し、その影響原因を分析し、乳がん術後患者のQOLを高める看護ケアの必要性について探求することである。その結果から、今後の具体的な看護介入において中国の看護の発展に貢献することができると考えている。

  私は博士前期課程を修了してから、もっと高いレベル、すなわち、博士後期課程に進学しようと考えている。人間の生命の尊厳を重視しつつ、保健、医療、福祉を統合した総合的保健、医療の実現を目指し、根拠に基づいた看護学、保健学の学問、研究基盤を確立すると共に、患者及び家族のニーズをくみ取る感性、深い倫理観と総合的な判断力、そして高度な専門知識と実践力を備えた研究者、教育者になりたい。中国に戻り、大学または病院に入り、日本の進んだ看護研究及び看護理論を中国の看護師または看護学生たちへ伝えようと思う。中国の看護研究の発展更に世界の看護研究の発展に奉仕したいと思う。そして、国際的な視野を持ち、看護教育、研究、実践を通して国際交流に貢献しようと考えている。これらが私の将来の夢である。

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活動日誌
2/23 日中教育交流協議会報告会
2/25 事務局員石井(中藤)季子さん退職
2/26 日中緑化交流基金事務局会議(東京)
2/27 会報「岡山と中国」189号発行
3/13 中国三誌友の会165回定例会、ピュアリティまきびで開催
3/14 岡山外語学院卒業式
3/15 洛陽緑化協力事業、専門家派遣
3/23 中国語検定試験、ノートルダム清心女子大学、120名受験
4/01 新事務局員・平野陽子さん就任
4/07 平成20年度第1回理事会
4/10 中国三誌友の会166回定例会
4/16

協会訪中団(10名)洛陽訪問

会員消息
【入会】
馬場勉さん(岡山市大学町)
室賀康史さん(岡山市桑田町)
山潟良一さん(岡山市門田本町)
天野勝昭さん(岡山市弓之町)
矢吹大輔さん(岡山市今)
三宅伴雄さん(岡山市内山下)

先憂後楽
  世界各地で北京オリンピックの聖火リレーに対する妨害活動が発生している。チベットで自立を求めてデモをし、破壊行為をしたチベット僧らに対する中国政府のやり方に反対し、抗議するためという。長野の善光寺も出発会場を辞退した。

  今回の問題に対し、チベットの最高指導者ダライ・ラマ14世は「北京オリンピックへの妨害活動はしない、チベットの自立と自治の拡大を求めているのであって独立活動はしない」と明言している。一方中国政府は「今回の騒動は民族宗教問題ではなく、国家の分裂を許すのか許さないのかという問題」とし、真っ向からダライ・ラマ氏らを非難している。

  洛陽市では名刹白馬寺の正門に北京オリンピックを成功させよう、という署名用の大幕が張られていた。上海のガイドはチベットが解放されるまで、ヒトラーのユダヤ虐殺より残酷な奴隷制度がしかれ、それを解放したのは中国だ、と力説した。

  岡山は、かつて、ダライ・ラマ氏が講演に来たことがある。一方で、内山完造、岡崎嘉平太らを輩出し、日中友好の土壌が他の地域より広く深い。そのような岡山で、胡錦涛総書記の来日の時をとらえて、トップ会談が実現できれば素晴らしいと勝手に想像した。

  日本は中国の友好国である。北京オリンピックを穏やかな環境で成功させるためにも、ぜひとも政治家、日中友好人士らが叡智を絞り平和の祭典を盛り上げていきたい。(松)



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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。



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