岡山と中国 2008年8月
平成20年8月
  192号


発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
呂燕玲さん祖国へ                                協会会員 黒住昭子
機内での迅速な処置

 
 
飛行機の真下に
救急車が待機
 
 
  去る7月15日、平成16年に倉敷市内で交通事故に遭った、岡山大学の中国人留学生呂燕玲さんが、ようやく祖国への帰国を果たしました。事故から1年8ヶ月の月日を経て、念願の帰国が叶ったのです。

  残念ながら、燕玲さん自身は未だ意識不明の状態で、家族に迎えられ中国に帰ることが出来たことを知らないかもしれませんが。

北京への移送
  今回の帰国に際し、長期間看護を続けてきた姉の彦玲さんの他、入院していた倉敷リバーサイド病院の橋本看護師長さん、協会から通訳も兼ねて松井事務局長、被害者支援団体のメンバーとして当初から関わってきた黒住の合計三名が中国に同行してきました。

  意識不明状態の燕玲さんを安全に中国の病院に送り届けるにあたり、病院や航空会社等との綿密な打ち合わせを重ね、皆がそれぞれの立場で緊張感をもって臨んだ帰国でした。

  また、協会から在大阪総領事館とも連絡をとり、北京空港での受け入れ態勢を考慮していただけるよう、申し入れもしていました。

北京空港での超法規的対応
  日本からの出国は打ち合わせが功を奏して、予想の範囲内でスムーズに運びましたが、予想を超えていたのは、北京に飛行機が到着してからの中国側の対応でした。

  他のお客様が降りられたあと、さぁそろそろ移動の準備を……と思ったその時、多くの空港スタッフや公安関係者、医師などが車椅子を持って機内に入って来られ、その場でパスポートをチェック、皆さん本当に心配そうに見守る中、てきぱきと燕玲さんを専用車椅子に乗せて機外へ移動。外を見ると航空機のすぐ下には空港の救急車が待機しており、燕玲さんと姉、師長さんが、すぐにその救急車に乗り込み、通常の入国手続きに時間をとられることなく、速やかに一路転院先の北京市内の病院へ向かうことができたのです。

  この超法規的措置と迅速さは、私たちの想像をはるかに超えたものでした。おそらく、総領事から正確な指示が中国側になされ、周知徹底していたものと思われます。

 この時の対応は本当にありがたく、私たちは強く心を打たれました。

1年半の支援
  燕玲さんが北京の中国人民解放軍北京総区医院に無事転院したことを見届け、私はそれまでの長かった呂さん姉妹の日本での病院生活を思い出し、「ようやくここまでたどり着くことができた。」という感慨で胸がいっぱいでした。
  私が彼女たちに関わり、お手伝いをするようになって1年半。看護のため来日し、病院に寝泊りしていた姉たちとは、共に過ごす時間を積み重ねる中で、信頼関係を育んできました。

  日本と中国の医療制度の違いや、損害保険の複雑なしくみという壁に阻まれ、簡単には帰国できない現実の中で、先が見えずに一緒に泣いた日もありました。

  しかし、彼女たちはたいてい前向きで、愚痴もこぼさず、どんなときも私に笑顔と感謝の言葉を投げかけてくれました。テレビで一方的に流される中国のイメージとは違う、本当に温かな中国人の姿を、私は肌で感じることができました。今ではお互いに国を越えて、姉妹関係のようなつながりを感じています。このことは私個人にとっても大きな財産であり、1年半の思い出を一生忘れることはないでしょう。

民間の力が集まった…
  燕玲さん姉妹が、賠償問題もきちんと解決した上で今回円満に帰国を果たすまで、私以外にも多くの方々がいろいろな形で彼女たちを支えてくださいました。

  その時々、できる人ができることを「無私の心」でする。

  多くの日本人の真心がどれだけ彼女たちを励まし、勇気を与えたことかと思います。私が関わっている被害者支援のサポート・ファミリーズだけでも、また友好協会だけでも、乗り越えられなかったと思います。それが、広く連携をとることで可能になりました。民間の力が集まり、力を寄せ合って問題解決にあたりました。そこに今回の大きな意義があると考えています。
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羅田廣大阪総領事の急逝を悼む!
片岡会長と懇談する在りし日の
羅総領事(右)
 
  羅田廣駐大阪大使級総領事が、業務連絡のために帰国中の7月11日、交通事故により亡くなられました。享年55歳という若さでの急逝でした。15日から3日間総領事館に設けられた「霊堂」には日中友好諸団体はじめ各界から寄せられた供花で埋まりました。当協会としては片岡会長名の弔電を送りました。
 
羅総領事は江西省出身で、大学卒業後1978年に人民対外友好協会に入り、翌79年~83年領事アタッシュとして駐大阪総領事館に着任されました。その後、外交部領事局、駐長崎総領事館を経て、95年~96年副総領事として再び大阪へ。その後札幌総領事、駐日本大使館参事官、外交部領事局を歴任、2006年2月に駐大阪総領事に就任されました。

  江西省が岡山県と友好省県にあたることもあり、岡山県にも度々来られ、県や議会とも親交を深められていました。当協会とは、呂燕玲さんの救援活動に大きな励ましと具体的な協力をいただき、北京への移送にも、空港での特別対応に指導力を発揮していただきました。また、四川省大地震の義援金をお渡しした時も、実行委員会を組んだ各団体への配慮を忘れず、それぞれに感謝状をいただきました。

  中国にとっても、我々日中友好を志す者にとってもかけがえのない有望な指導者を失いました。生前のご貢献とご厚誼に感謝し、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
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内モンゴル訪問の旅
  中国の旅はさまざまなことがあったが、モンゴルは残された一つである。内モンゴルは中国の内蒙古自治区として成立し今年で60年となる。7月は草原に菜の花が咲く良い季節であり、包(パオ)に泊まれ、馬、駱駝に乗れる楽しいところと認識していた。呼和浩特(フフホト)より岡山大学医学部保健学研究科に留学している莎如拉(サルラ)さんとロータリー・クラブで知り合い、内モンゴルに案内しますとのご好意に甘え、準備万端整えていただき、7月25日早朝、関西空港より北京空港経由で呼和浩特(フフホト)に到着した。呼和浩特(フフホト)の人口は300万人、冬は零下30度のこともある。夕食は羊肉、野菜の「しゃぶしゃぶ」が美味しく、夜は莎如拉(サルラ)さんの妹さんのお宅に1泊した。

7月26日
  朝食は外で、「シュウマイ」を。4人、車に同乗し、先ず内蒙古博物院へ、内蒙古自治区成立六十周年を記念して建築された敷地は五万平方米の巨大な、独特な建築である。大恐竜、マンモスなど億万年以来の生態変遷歴史、草原文化、地下宝物などに加え、さらに現代の宇宙飛行事業のことなどを紹介している。呼和浩特フ(フホト)を離れ、一路、草原へ。菜の花の風景は美しい。さらに進むと、牧草地帯になり、馬、牛、羊ののんびりした姿がみられる。包(パオ)の集まる村落が方々に見られる。その一軒に寄り山羊乳、菓子を頂く、モンゴルの衣装を着せてもらい写真をとり、近くの牧場で馬、駱駝に乗った。私たちは、ある包パオの集団の一つに宿泊した。その包(パオ)の中には2つのベッドが置いてある。当夜は、野外で音楽と花火の共演があった。

7月27日
  ?沙湾旅遊へ、砂漠の山へロープウェイで登り、しばらく歩いた。下山し、包頭(パオトウ)へ向かう間に、ラサへの高速道路がある。農村地帯にはトウモロコシ、葡萄の温室がある。ドライブインで食べた桃、李、杏は美味しかった。包頭(パオトウ)は鉄の産地で多くの工場が建ち並んでいる。次に成吉思汗(チンギスハン)陸陵に近づき、最大の包(パオ)が建ち、宿泊施設のあるホテルに宿泊した。包(パオ)のレストランで食事を取りながら、成吉思汗(チンギスハン)の活躍を歌舞劇とした演技を観賞した。あと、野外で松明をたき、回りで踊った。

7月28日
  成吉思汗(チンギスハン)陵へ、門牌楼、銅像を経て九十九吉祥石段を登り、陵宮に到達した。成吉思汗(チンギスハン)の一生の出来事、諸国平定の歴史が壁画となっており、偉大さを痛感した。その後、車で呼和浩特(フフホト)に帰る。内蒙古国際大酒店にチェックインした。休憩の後、無量寺に参拝し、多くの伽藍を見学したなかに、乳白色の玉佛が安置されていた。夕食は餃子料理を楽しみ、土産物店を訪ねた。久しぶりにホテルで落ち着いて、明日の帰国の準備をした。

7月29日
  午前6時ホテルを出発、呼和浩特(フフホト)空港、北京空港を経て、関西空港に帰国した。お世話になった莎如拉(サルラ)さん、車の運転、案内をしてくれたハスチョウルさんに感謝いたします。
(協会会長 片岡 和男)
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中西寛治随想記(5) -内山完造さんの思い出②-
内山さん烈火のごとく怒る!

  昭和13年頃だったか、こんな事件があった。私の兄は前に言ったように、興中公司上海支社の役員としてかなりの顔役になっていたが、ある日、上海の街上で京都二中時代の同窓で、陸軍の自動車部隊の隊長をしている中尉某にめぐり会った。旧友同志大いに飲み大いに語り合ったのは勿論だが、実はこの中尉殿は兄から、北京駐屯時代に200円の金を借りていた。

  中尉殿は頭をかいて「全く相済まぬ、本来ならここで返済すべきだが持ち合わせがない。ところでオレは宿舎にちょっと面白いものを持っている。これを君に進呈するから、もし金になるようならこれで決済してもらえんか」と言うので私も兄について、彼の宿舎に行って見ると、戸棚から取り出したのは誰あろう孫文先生の死面(デスマスク)であった。約30センチ角の黒い石にレリーフとして刻まれたどっしりとした立派なものであった。

  「これはね、北京市内のある廟に駐屯したとき、内部を探していたら見つかったのだ。他のガラクタは他の将校がそれぞれ持って行ったがね、とにかくこれはちょっとしたものらしい、何とか金にならんかね!」
というようなことだったが、さすがに兄は不安になったらしい。兄は、自分はよく分からないから、内山完造さんにでも見てもらって相談してみようということになった。

  そこで私が持つ役割を買って、兄と中尉について内山書店を訪問し内山さんに事情を説明したところ、初めのうちはニコニコとしてお茶をいれながら話のいきさつを聞いていた内山さんが、いきなり顔をあげて、「このバカモノ!そういう日本人がいるからこんな馬鹿げた戦争になるのだ。君たちは孫文という人を知らないのか。孫文先生は中国建国の父ではないか。志半ばにして死んだが、中国七億の人民は、民族の指導者として、又国父として子供に至るまで敬愛しているのだ。その像をこともあろうに、日本の将校が、神聖な廟から盗みとって、おまけに飲み代かせぎに売り飛ばそうというのは何ということだ。恥ずかしいとおもわんか。」

  平素温厚な内山さんが眉を逆立てて怒り出し、とどまるところを知らない。
  私も雷に打たれたように首をすくめていが、その中尉殿、手がふるえてたばこに火がつかず真っ青になって、軍刀もとりあえず、早々に退散した。
 
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シリーズ洛陽(11) 海法一滴集
  洛陽白馬寺の海法大師著『海法一滴集』は96年に発刊。畢生の大著で、全867ページにわたり、中国仏教が概観できる。
  インドから中国に伝わった仏教が洛陽で華ひらいた。漢代から現代まで「荘厳国土、利楽衆生」のテーマがつづいている。
  そして日本伝播。本著に「是日本衆生の殊勝因縁!是世界仏教史上の一件大事!」とうたわれている。
  岡山と交流、友好往来にふれ、92年6月に日中国際平和祈念法要を共催、和平宣言を発した。
  その中で被災国・中国は平和を求めるが、加害国日本は更に渇望している。両市民で世界平和の実現に努力していこう!と結ぶ。
  また91年、岡山県日中仏教文化交流会員(26人)が海法大師から八斎戒を受けた写真がグラビアをかざる。懐かしい交流の映像である。
  海法大師の一滴集はお人柄であろう。文革から立ちなおって20年、みごとに白馬寺を再興、国際寺院とされた。一滴の味は百川を集めたもの、と称賛される。
(協会理事 宮本光研)
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ちょっとチャット(50) 「若者同士の交流を広げよう」             語学講師  張 文 
上海へ赴く高校生の前で
レクチャーする筆者
 
  先日、中国の高校生と交流を行うため上海へ派遣される予定の岡山県内の高校生たちに、中国のことについて話す機会があったが、そのとき話を聞いてくれた子どもたちの真剣な表情がとても印象的だった。彼らが中国についてこれほど興味をもっていることを一人の中国人として、また年齢が近い子どもを持つ一人の母親として、たいへん嬉しく思う。子どもたちの今回の中国訪問が成功するよう心より願い、日中両国の若者の交流がますます広がることを期待している。

  近年、望ましくない日中関係が続いていたが、その原因の一つは相互理解の欠如であると思う。日中両国のメディアは相互に関する報道が断片的で偏狭的になりがちのように思われる。中国では反日教育が行われているとは思わないが、日中戦争を背景にした映画やドラマが多く、一方で現在の平和な日本について伝える番組が少ないようだ。

  そのため、中国には戦後の日本の姿を知らずに軍国主義のイメージを捨て切れない人がいる。また、日本でも、多くのメディアは中国社会の陰暗部のみを大々的に報道し、日本の子どもたちに中国に対して恐怖感を抱かせてしまう。これらの報道は相互の若者に隣国に関する不完全で偏向的な情報を与え、嫌疑の念を抱かせかねないと同時に、お互いに理解し合うチャンスをも奪い取ってしまう。

  では、このような状況を打開するにはどうすればよいのだろうか。長年日本に滞在し、たくさんの日本の若者と接してきたが、日中両国の若者の間には相手の価値観や考え方を理解する基礎があると感じる。日本の若者の間では、中国の有名人といえば、ジェット・リーや姚明など芸能・スポーツ界のスターの名前が挙がる。また、中国の若者は日本の漫画を見て育ち、雑談では「人気」「かわいい」など日本語の表現を使い、知らぬ間に日本の流行文化を取り入れている。しかし、この程度の相互理解でよいのだろうか。去年上海を訪問した高校生たちがこの間の四川大地震被災地のために募金活動を行っていた。また、生涯日中友好のために貢献した岡崎嘉平太先生は学生時代中国人の友人がいたという。日中友好と真の相互理解のためには、両国の若者の交流が欠かせないことは明らかである。

  今年は「日中青少年友好交流年」。両国の有識者が未来を見据えて、若者たちにこのような交流の機会を与えるのは喜ばしい。中国の若者は情熱や向上心を提示して、日本の若者は協調性と謙虚さを提示しながら、互いに刺激しながら成長していく。歴史の重圧を背負う必要はないし、メディアの誤った誘導に影響されてもならない。ただひたすら交流しお互いに理解を深めていく。中国の経済発展に伴い、隣国同士が協力する機会はますます増えていくだろう。将来国の中核を担っているはずの現在の若者が今築き上げている信頼関係は一種の宝物となっているだろう。しかしながら、日中関係は依然として複雑である。親の世代を超える知恵によりともに努力していくことを信じている。
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江西省雑技団チケット販売にご協力を!
会員の皆さん!

  8月29日の開催日まであと3週間足らずとなりました。
  理事・会員の皆様先頭に、各方面への協力依頼が広がっていますが、まだまだ、800席を満席にするには至っていません。

  知人友人の方々に更に一層のご協力依頼をお願いいたします。1枚でも2枚でも販売していただきますようお願いいたします。ご連絡いただければ、事務局よりチケット・チラシをお送りするか持参いたしますので、ご入用の方は是非ともご一報ください!


  江西省雑技団岡山公演についての詳細はこちらをクリックしてください。
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活動日誌

6/12

中国三誌友の会167回定例会。ピュアリティまきびで開催。
6/18 会報「岡山と中国」191号発行。
7/7 第三回理事会開催。
7/10 中国三誌友の会168回定例会。ピュアリティまきびで開催。
7/15 呂燕玲さん北京へ。
7/29

岡山県日中青年交流団23名上海へ出発(~8/4)

会員消息&中国関連消息
【入会】宇野忠正(岡山市牟佐)
【逝去】大森安廣

会報第191号で紹介した「大三国志展」全国巡回の岡山近辺の開催地は下記の通り。
         記
1. 関西国際文化センター(神戸新聞社主催・9月5日~10月5日)
2. 香川県立ミュージアム(四国新聞社主催・11月26日~12月24日)

先憂後楽
  8月8日8時8分、いよいよ北京オリンピックが開幕する。食品問題、チベット問題、四川大地震、などいずれをとっても大きな事件が続き、まだ未解決か復興途上にある。中国はそれらを抱え、戦いながら世紀の大祭典を迎えようとしている。

  7月の半ばに北京へ行った時、至る所に奥運(北京奥林匹克運動会の略-北京オリンピックの意)のマスコット「福娃(フウワア)」の広告が見られた。が、福娃の5匹の動物が表現する「北京歓迎」という割には、観光客は少なくなりそうだ。

  地元の旅行社によると、オリンピック期間中の観光客は制限するとの通達が出ているという。車の流入制限や各所での安全チェック、空港での二重のセキュリティ検査をはじめ、北京駅でも路上で寝泊りしている人々をパトカーや白バイがマイクで放送しながら排除していた。天安門広場から天安門に至る長安街地下道にもセキュリティが設置されるなど、確かに安全面にたいする構えは相当なものだ。

  洛陽市の外事弁公室に電話したとき、丁度、明日聖火が洛陽を通るので忙しい、と言っていた。穏やかに賑やかに盛大に開催されることを念願するばかりだ(松)


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