岡山と中国 2008年10月
平成20年10月
  193号


発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
江西省雑技団岡山公演成功裡に終わる
  岡山県と友好関係にある江西省から少年雑技団が来岡し、倉敷、浅口、備前、岡山、井原の各地で友好公演を行った。その内、岡山会場をわが岡山市日中友好協会が主催し実施した。
後楽園の一行
 

  8月28日、備前市の公演を終えて岡山入りした一行は、岡山後楽園を見学。郭沫若氏から贈られた鶴の子孫と石碑を見て、説明を聞いた一行は岡山と中国との関係を知り感慨深げだった。見学を終えた一行は今回の宿泊先である黒住教神道山の鶯鳴館へ投宿。歓迎会に備えた。
歓迎夕食会
さわら連の踊りで歓迎
 
  雑技団一行を歓迎するため、協会役員や実行委員会関係者らで歓迎夕食会を開催した。神道山名物「大元なべ」の食事と、さわら連による踊りの歓迎があり、雑技団の一行も応えて、舞台で雑技の一部を披露するなど大いに盛り上がった。


旭川荘への慰問
旭川荘で演技披露
 

  翌日、8月29日の朝、一行は祇園地先の社会福祉法人旭川荘を訪問し、江草安彦名誉理事長の歓迎を受け、児童院の多目的ホールで100名以上の障害者らに雑技を披露し、演技ごとに大きな拍手喝采がまきおこった。旭川荘では、来年度から江西省での高齢者介護専門士の養成を計画しており、今後江西省との往来や福祉交流が強まる予定。


岡山公演本番!
皿まわし
 
  午前の旭川荘訪問を終え、午後には会場の岡山市民文化ホールに到着。早速舞台に上がり、広さや高さの確認をした。そして、音響、照明などのスタッフとの打ち合わせと、今回急遽司会をお願いした国友さんらとも進行の打ち合わせをし、リハーサルに励んだ。

  3時過ぎには実行委員のメンバーが集まり、受付準備や会場整理の位置などを確認、本番に備えた。5時過ぎごろになると、自由席のため良い席をとろうと観客が並び始め、6時開場予定を早めて入場していただいた。満席になるかいくらか不安であったが、開演前には1階席が埋まり、2階席を開放してほぼ満席状態で幕が上がった。

  雑技の演技に会場から拍手やため息などが起こり、1時間半の公演があっという間に終わり、大成功の内に終了した。

 閉会にあたり、協会の片山浩子理事がお礼の挨拶に登壇した。江西省雑技団へのお礼、当日の満席の参加者へのお礼、そして今回の開催にあたり、宿泊、バスなどあらゆる面でお世話になった黒住教へのお礼を述べ閉会した。
お礼                                           協会会長 片岡 和男
  去る8月29日の江西省雑技団岡山公演に際しましては、皆様に多大のご尽力を賜り、また、多方面のご支援とご協力を頂き、まことに有難うございました。

 お蔭をもちまして、当日は満席となり、大成功に終えることができました。また、ご参加いただいた方々から、たいへん良かったとのお言葉を頂き安堵いたしました。

  今後とも、日中両国の友好交流行事にご協賛のほどをお願い申し上げます。
  ご報告かたがたお礼を申しあげます。ありがとうございました。
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戴保安先生逝去
  洛陽市外事弁公室元主任、洛陽市人民対外友好協会元副会長の戴保安先生は、9月18日、洛陽市内の病院で逝去されました。戴先生は、1981年4月岡山市と洛陽市が友好都市を締結した時、当時の洛陽市長・任普恩氏ら政府代表団の秘書長として来日されたのを始め、毎年官民様々な交流の架け橋として活躍され、日中友好、岡山と洛陽の友好交流に大きな功績を残されました。岡山の多くの友好人士からも戴さん戴さんと親しまれていました。

  協会では、会長名の弔電を送りました。また、松井事務局長が、洛陽緑化訪問の機会に、9月25日、戴さんのお宅を訪問し、遺族に弔意を表し、ご香典を供えました。

        弔  電

 洛陽市人民対外友好協会 殿

 洛陽市人民政府外事弁公室元主任、洛陽市人民対外友好協会元副会長の戴保安先生が急逝されたとの悲報に接し、大変驚き、悲しみに打ちひしがれています。
 私は、岡山市日中友好協会のすべての会員を代表し、また私個人として、謹んで哀悼の意を表したいと存じます。
 戴先生は岡山市と洛陽市の友好都市締結以来、一貫して官民上げての友好交流に尽力され、数多くの大きな業績を残されました。
 私どもは、戴先生の遺志を受け継ぎ、悲しみを力に変え、日中友好と岡山洛陽の民間交流の発展のために更に尽力し、私どもに課せられた任務を全うすることを、ご霊前にお誓い申し上げます。
 末尾になりましたが、ご親族の皆様には、悲しみの最中とは存じますが、お力を落とされずご健康に留意されますよう心よりお見舞い申し上げます。

 2008年9月20日
岡山市日中友好協会
 会 長 片岡 和男 
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国慶節行事に出席                           協会活性化委員 黒住 昭子
新たに着任した
張欣副総領事 (右)
 

  去る9月26日、中国駐大阪総領事館主催の「中華人民共和国建国五十九周年」を祝うレセプションが大阪で開催されました。この会は中国の国慶節(10月1日)の時期にあわせて毎年行われているそうで、岡山市日中友好協会は今年初めて招待をうけました。

  今回は片岡会長をはじめ理事の皆さんもご都合がつかず、役不足ではありますが、黒住が代理として出席させていただきました。

 
  会場のリーガロイヤルホテルでは、一番大きな宴会場があるフロアーがすべてこの会のために貸し切りにされていました。さすが中国総領事館の正式レセプションと思わせる規模で、各方面から1,000人近い方々が集っておられました。

  また、メイン会場が開く前の控えの間には、総領事館の領事の皆さんが日本の四季を自ら撮った写真がきれいに展示され、私たちの目を楽しませてくれました。このような手作りの「もてなしの心」にも感心させられました。

  開会して、先ずこの度新たに着任された、張欣副総領事のご挨拶があり、続いて日本側から橋下大阪府知事のお祝いのスピーチがありました。どちらも、今後益々日中の交流を積極的に進め、真の友好関係を築きましょう、ということを強調されていました。

  今年は日中平和友好条約締結三十年の年にもあたるそうで、私はこのレセプションに岡山市日中友好協会としての祝意を表したいという気持ちから、着物を着て出席しました。それが効を奏してか、会場では中国、日本双方のいろいろな方とお話しをするよいきっかけとなり、張欣副総領事とも直接ご挨拶して当協会をアピールすることができました。

  このような機会を通じて、駐大阪総領事館とのパイプをしっかりつないでいくことができれば、当協会としても今後の友好活動の上でとても心強いことだと思います。
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写意中国花鳥画-意は筆先にあり                  洛陽書画院副院長 趙海寛
  岡山市役所中国歴史文化研究会・古代吉備国を語る会主催、NPO岡山市日中友好協会共催の夏季特別講演会が、8月24日(日)午後1時から5時まで、岡山市立中央公民館第5ホールで開かれました。
  講演は3つ。1.今津勝紀岡山大学文学部准教授の「吉備と出雲の交流」。2.王炬洛陽市文物工作隊学芸員の「隋唐洛陽城里坊区における発掘調査」。3.趙海寛洛陽書画院副院長の「写意中国花鳥画-意は筆先にあり」。
  3人の講師の講演の中から表記の講演の一部を掲載いたします。

  このたび、洛陽市の友好都市の岡山市で、文化芸術交流を行なうことができて、大変嬉しく存じます。まず、この場をお借りいたしまして、皆様と交流ができる場を作っていただいた古代吉備国を語る会及び岡山市役所洛陽会並びに岡山市日中友好協会に感謝の意を表します。ありがとうございます。

1. 中国画の特徴

  西洋画に比べて、中国画は独特の特徴を持っています。伝統的な中国画には影がなく、自然界の光源が被写体に与える明るさの変化も強調しません。また、本物が描かれた作品と似ているか否かに拘らず、その代わりに、画家の主観的な情趣の表現を強調する傾向が見られます。中国画は「形を以って神を写す」(ものの形を借りて自分の気持ちを表現す)を重視し、「妙は似ていると似ていないとの間に在り」という感覚を追求します。勿論、西洋画も創作の中では「心」の伝えを重視していますが、中国画に比べて「形を以って形を写す」ところが目立つように思われます。
  西洋画に比べて、中国画の特徴が芸術手法、芸術分類、構図、筆の使い方、墨の使い方、着色などの面からも窺われます。

  中国画は表現形式上から、細密画と写意画及び細密画と写意画の両方を兼ねる「兼工帯写」という画法の三つに分けられます。細密というのは筆で線、色彩を細かく綿密に描く画法です。細かく綿密に絵を描くので、細密画と称します。これに対して写意は形式に拘泥をせず、豪放、簡潔な筆使いで被写体を描写し、情趣の表現に重きをおく画法です。そのため、写意画は高度なまとめる力と含蓄な感性表現が要求されます。具体的な創作過程において、思うままに情趣を表現するには筆をおろし始めたときの正確さと、筆を走らせる途中における熟練さが要求されます。「兼工帯写」は細密画と写意画を融合しあい、両方を兼ねる表現手法です。

  内容から分類すると中国画は人物画、山水画と花鳥画に分けられます。これは主に描かれる被写体による分類です。

2. 写意花鳥画

  中国写意花鳥画における写意の特徴は「写」(書く)にあります。書道での字を書くと同じように絵を書くのです。書いたラインは生命力のあふれるラインです。写意の意は情趣のことです。「写意」が被写体の客観性を画家の主観性に融合させる「似ていると似ていないとの間」という芸術的な効果を追求しています。

  中国写意花鳥画は悠久な歴史と独特な民族性を以って、世界で名高いです。早くから唐代ではすでに独立した絵画の科目が設置されました。時代の移り変わりに伴い、より人々に受け入れられ、愛されるようになりました。写意花鳥画の性質を知るため、まず、「写意」の特徴をはっきりさせないといけないと思います。「写意」は中国画の核となるものです。

  「写」というのは書道での字を書くと同じように絵を書くことです。書いたラインは感情と個性のある生命力にあふれるラインです。「意」は情趣を指し、客観に存在している事物を画家の感情、修養に融合させたものです。「写」と「意」が合して一となるのは、心象と情趣の融合を重視し、「似ていると似ていないとの間」という芸術的な効果を追求した結果です。写意花鳥画の主な特徴は「写」(書く)にあり、筆を通して写意性があふれるインパクトなラインを「意」の伝達手段となしているのです。

  中国写意画は構図と着色による影響が大きいので、構図と着色も特に重視されています。そのため、古人の経験を取り入れることに基づいて、意を筆の先に走らせる写意花鳥画の構図を把握しなければならないと思います。そして、花や鳥の成長規則と習性を理解、 研究する上で情趣を作り出し、主従関係を考えた上で変化を統一に寓するように工夫をしてからこそ、やっと花や鳥の本質と情趣のあふれる作品ができ上がります。着色は画家の主観性と深くかかわっています。生活の真実に反映する一方、芸術作品にある誇張さにも配慮すべきでしょう。色彩の斬新さ、重厚さ、リズム感、また時代の息吹の感じられる点も求められます。

  現代花鳥画を創作するもっとも重要なのは、現代人の美意識を持って自然界に隠されている美を発見し、的確に見極め、そして、その美に含まれる意味を悟り、美の規則に従って美を作り出し、そのうえ、鑑賞する人の共感を呼び起こすところにあると思います。

3. 意は筆先に在り


  写意画は描く道具の材料によって、変更不可という性格を持っています。それゆえ、絵を描く前の事前計画が必要不可欠となります。つまり、「胸に成竹有り(完成した様を思い描く)」、「意は筆先に在り」が要求されます。

  画家が描く対象となる客体と溶け合う交流を行なうのは、構想を工夫し、芸術的な情趣を形成していく過程でもあります。客体の「形」を得、「神」を伝えるだけでなく、「法」も得るのです。いわゆる「情趣を得れば手法がうかぶ」です。勿論、創作中の「意は筆先に在り」は、その場での頓悟とインスピレーションを否定しているわけではありません。

  中国花鳥画は中国画の歴史において、とても重要な絵画の一種です。千年を経ても衰えなく、そればかりかますます注目を浴びるようになっています。また、中国花鳥画も中国画の中で、筆の使い方、墨の使い方、格式、規則と韻致をもっとも重んじる絵画の一つです。そのうえ、作品に含まれる情緒と情趣をより重視し、画家の主観的な思想と感情を表現するため、「暢神」(発想)、「抒情」(抒情)、「寄興」(興趣を寄せる)、「借喩」(換喩法)の手法がもっともよく使われています。そのため、花鳥画は民族の思想、哲学的な観念、美の情趣と文化の特徴をもっとも具えている絵画だと言えるでしょう。


4. 絵を習うにあたって

  ここでは、絵を習う方法を二つご紹介いたします。

  一つは、中国画が発展している過程の中では、伝統的な表現手法がたくさん残されているので、これらの手法を習得し、古人或いは先生の作品を模写することです。

 二つ目は、日常生活が画家のもっとも身近な手本となることです。画家は日常生活の中で絶えずに自分を磨くべきでしょう。中国の国画家がよく「造化を師にする」と言っているように、生活から啓発を受けて、広く素材を集めることによってやっと素晴らしい芸術作品が作り出されると思われます。

  二つの方法は互いに補完しあうもので、どちらも不可欠なのです。古人の作品を模写するだけでは、だんだん自分の独特の創作力を失ってしまいます。一方、日常生活にあるものをそのままスケッチするだけなら、伝統的な技法を失ってしまいます。

  画家が国画を模写する基礎的なものを身につけたら、生活が創作のもっとも重要な源となってきます。清代の画家石濤の「筆は心なき生活にあらず」(創作活動は心意気のある生活による)と言っている如く、家に籠もって考えにふけるだけではいけません。というのは自ら集めたイメージがないので、人物の性格や精神的な面への把握もできないからです。生活から離れていたイメージはただの概念でしかないです。例えば、生活の中で、一番熟知している人なら、目を閉じてもその人の表情、気質、声や姿が自然に浮かんできます。創作もこれと同じです。

  以上に述べたほか、芸術創作に従事する人にとって、人柄と道徳の修養もなくてはならないものです。古人がよく「書は其の人の如し」または「画は其の人の如し」と言っていますが、これは即ち画家の人柄と修養が常に作品の筆の先ににじんでいるということなのです。
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中西寛治随想記(5) -内山完造さんの思い出③-
後日談

  中国建国の父・孫文先生のデスマスクを、神聖な廟から盗み取って、飲み代かせぎに売りとばそうとした日本の将校は、内山さんに怒られて早々に退散した。

  これには後日談がある。内山さんはその後、日本の興亜院(対中国政府の官庁)の文化部長の松井という男を呼んで、このデスマスクの返還式をして中国人民におわびをしようという段取りをつけた。

  当時の日本の占領地域は汪兆銘カイライ政権であった。この政権の外交部長緒民誼と相談して、上海で盛大な返還式が行われた。内山さんをはじめ日本の上海在住の名士が参列した。私はこのデスマスクを首にかけて式場にはいるという役を仰せつかったのである。

  しかし今にして考えれば、内山さんも必死の思いであったろうと思う。何しろ軍人様々の時代、日本憲兵が上海を支配していた時代に、将校に向かって面罵することがどういう結果を生むかということは想像にかたくない時代である。敗戦のあとでこそ、「あの時オレは軍の政策に反対だったのだ」とか「軍人の馬鹿者どもに説教してやったよ」とか、ありもせぬことを言って得意がっている者は多いが、中国侵略の真只中の上海でこれだけのことが言えるのは、やはり中国人民の中にどっかりと根を下した内山さんなればこそであったと思う。

内山さんの講演旅行と日中友好協会の発足

  私は南京で敗戦を迎え、昭和20年9月から翌年3月まで7ヶ月、元日本軍兵舎であった設備をそのまま利用した「日僑集中営管理所」(日本人捕虜収容所)で妻と共に捕虜生活を終えて21年4月岡山県小田郡矢掛町に引き揚げた。翌22年12月、東京に引き揚げた内山さんから連絡があり、岡山で日中友好協会の支部をつくってくれという依頼があった。内山さんが郷里の後月郡芳井町に墓参に帰った機会に、私の郷里矢掛町に日中友好協会の看板を掛けたのが事の始まりであった。

  1950年、東京の中央本部の発足以来、岡山の初代事務局長として約15年勤め、其の後、岡山の日中友好協会の非民主的な運営に共鳴できず、次後「郭沫若先生を偲ぶ会」「内山完造先生顕彰会」の看板を掲げ、内山精神を支えに、戦後よろめきながらも一貫して今日まで日中友好運動を続けて来た。それには私の上海、南京における生活体験と戦争に対する反省が基礎になっており、また内山さんに師事したことが大きな機縁になっている。

  内山さんはそのころから得意の漫談で日本全国を行脚され、その間に各地に日中友好協会組織の種をまいて歩かれた。例のモンペ姿に杖を持ち、まるで巡礼者のように、招かれるところはどんな山奥でも行って話をされた。岡山は特に郷里と云うこともあって力を入れておられた。私も県下を毎年春秋2回約6年間にわたって、県下の各高等学校、ライオンズクラブ、労働組合等、鞄持ちとして案内した。

  「犬が東向きゃ尾は西を向く」「北のない南はない」「中国人はあたりまえの生活をしようとしていたが、日本人はあたりまえの生活をしていなかった」

  そんな平凡な言葉から説き起される内山さんの深い経験と哲学とが、当時の私には十分に理解できなかった。また残念ながら怠慢で記録も取っていなかった。

  しかし、内山さんが亡くなって25年、私も色々の変転を経験して、内山さんの片言隻句の中に、無限に味わうべきものを今更のように発見するのである。

  1972年9月29日、日中の国交が回復されて以来、体制の違いを越えて相互の理解に基づいて、政治、経済、文化その他あらゆる面で日増しに交流が盛んになって来た。

  このことはほんとに喜ばしいことである。

  中国は今「近代化」に国をあげて懸命に取り組んでいる。特に、日本の科学技術の協力を謙虚に要請している。私たちは中国人民の生活向上の為に協力を惜しまず、鑑真和上以来、1200年の日中友好の絆を大切にし、相互の努力によって有無相通じる美しい花を咲かせ、平和で実り多い時代を我々の世代に築き、次の時代に引き継いでゆきたいものである。

  これこそ内山完造先生が生涯をかけて念願した、「中国と仲良くしなければ日本の将来はあり得ない。」と叫び続けた内山精神に応える、私たちに課せられた課題であろうと思う。
(1985年)
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シリーズ洛陽(12) 「登龍門」
  いわゆる「登龍門」は山西、陝西省の境にあり、ここの激流を登った鯉は龍になる。
  洛陽にも龍門があり、石窟寺院。インドから伝わった仏教が華咲き、大日(ルシャナ)如来をまつる。
  ルシャナの光はローマでルーチェ、英語でルックとなり、遍くかがやくの意味。
 世界に冠たり、人類史上に信仰を発信するが、今も古都の南郊、伊水に面し、しづかな微笑をたたえて坐す。じつに美形で、モデルが則天武后だというから“美男におわす”とはならない。
  ここが龍門であることは洛陽の南入口であり、伊水の流れがやがて黄河に出るからであろう。
  黄河は三門峡を登り、中流砥柱(とちゅう)の岩文字「照我来」を刻む。黄河よ、われに向って流れて来い!というのは中国人の覚悟である。
  1991年6月、洛陽に遊んだ協会ツアーの一人が出家、この地に因んで法名・龍門房と命名けられた。
  今は秋、日本の小学校の運動会に「登龍門」が立つ。子らよ、龍馬になって天に登れ、の心意気だ。
(協会理事 宮本光研)
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ちょっとチャット(50) 「2008中国海外学士遼寧(大連)創業週」視察
                              岡山大学社会文化科学研究科 劉 暁邦  
劉 暁邦さん (大連にて)
 
  「2008中国海外学士遼寧(大連)創業週(ウィーク)が開幕した!」中国政協副主席王志珍の宣言とともに、科技部、教育部、人事部、国務院華僑オフィス、中国科学院、遼寧省人民政府が主催、大連市人民政府、遼寧省科技庁、教育庁、人事庁、外(華僑)オフィス、財政庁、信息産業庁、中科院瀋陽分院が共催の「2008中国海外学士遼寧(大連)創業週」は、開幕した。

  全国政協副主席王志珍をはじめ、中国科学院、国務院華僑オフィス、人事部、全国オーバドクター研究生管理委員会、中国工程院副部長郭重慶、李克強、孫春蘭、曾維、夏徳仁、許衛国、藤衛平、李永金、林慶民など遼寧省、大連市の幹部と国務院発展センター、国家科技部、中国技術市場管理促進センター、中国人民銀行、国家開発銀行、国家教育部、黒龍江省、吉林省などの省、市幹部、及び世界各地からの六百人あまりの海外学士が開幕式に出席した。
  開幕式で中国科学院常備副院長白春礼、遼寧省委書記、省人大主任聞世震、省委副書記、大連市市長夏徳仁がそれぞれ挨拶をした。市長夏徳仁は挨拶で、中国共産党大連市委員会、大連市人民政府と650万の大連市民を代表して「世界各地からの海外学士と企業家を大歓迎する。2000年以来、中国海外学士遼寧(大連)創業週はすでに九回開催し、良好な経済利益と社会利益をもたらしている。東北旧工業基地復興の戦略を実施するとともに、大連市と東北三省の友好都市が急成長している。そして、海外学士が才能を発揮して、各技術の先端にたち、東北旧工業基地復興の力になっている。」と発言した。

  今回の海創週に私が日本からの23人の海外学士代表の一人に選ばれたことは、非常に光栄だと思っている。24日から4日間にわたり、国家科学技術部、教育部などの部門をはじめ、何項かの論壇と商談がそれぞれ注目された。それと同時に、国家人社部と国資委研究センターは25個の国有大型企業、中型企業参会の手はずを整えている、sina、IBM、HP、AIGなどの企業が参加し、しかも会議期間中の現場で海外人材募集が行われていた。海創週のもう一つ重要な目的は、海外学士とのビジネス、教育、医療等色々な分野の情報交換である。25日記者会見後に大連市市長夏徳仁及び市政府の役員達と座談会を開いた。現在、飛躍的に発展している大連が今後高新技術(IT、生物医学、新材料)及びそれによる知的財産保護分野に力を入れること等を具体的に語った。海外学士の企業創立にも積極的に支援を与えると私達を大変激励してくれた。

  4日間はあっという間であったが、収穫がいっぱいで、味わい深かった。急速に発展している中国は海外の人材を非常に大切にしていると実感した。海外学士の私達としては、しっかり学業に励みながら日本と中国の間の友好の架け橋の役目を果たし、日中両国の関係を深め、国際社会で大きな役割を果たしたい。日本で学び、交流を重ね、将来日中両国、国際社会で活躍したい。
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活動日誌
8/7 第4回理事会開催
8/8 会報192号発行
8/28 江西省雑技団歓迎会(神道山)48名参加
8/29 江西省雑技団岡山公演 市民文化ホール
9/9 江西省雑技団岡山公演反省会
9/11 中国三誌友の会第169回定例会、ピュアリティまきびで開催
9/24 洛陽小浪底緑化協力事業のため國忠征美さんと松井事務局長洛陽訪問
9/25 松井事務局長 戴保安さんの遺族弔問
9/28 中国在大阪総領事館主催中華人民共和国成立五十九周年記念祝賀会(リーガロイヤルホテル大阪)黒住昭子さんが会長代理出席
10/9 中国三誌友の会第170回定例会、ピュアリティまきびで開催
会員消息&中国関連消息
【結婚】
10/4…協会理事宮本光研子息宮本龍門氏結婚
先憂後楽
 いま旅行添乗で雲南省に来ている、本日、昆明から西双版納に移動し、明日から大理、麗江、シャングリラと旅する8日間の雲南周遊の旅だ。

 今回のお客様は、旅行会社アジア・コミュニケーションズ(以後アジコムと略す)ができてから何回もご一緒してきた常連の方々ばかり。友好協会を基礎にアジコムという旅行会社を設立して19年になる。来年は20周年だ。1988年夏の暑いときだったと記憶している。元会長の三島伯之氏、現在もお世話になっている旭川荘の江草安彦先生、そして黒住教の黒住忠篤氏と洛陽へ福祉視察に訪れた帰路、18時間にも及ぶ夜行列車の話し合いの中で、この会社の設立方針が決まった。
 
 中国を理解するにはやはり、訪問してその広大な大地に触れ、そこに住む人々と交流して初めて友情が生まれ育まれる。そのための旅行社を作ろうと衆目一致した。株主には当時の役員の方々以外に地元の交通会社の社長各氏にも参加いただき、翌年12月、岡山に中国との友好交流を方針とする旅行会社アジコムが誕生した。

 爾来、友好都市交流や旭川荘の福祉の翼はじめ数々の友好訪中団を取り扱い、岡山上海便も開通し、岡山と中国の往来は飛躍的に進んだ。本年は、ギョウザ問題や、四川大地震、北京オリンピックの後の食品問題などで中国への観光旅行が激減した。しかし、中国の広大な大地の旅行資源は無限といってよい。多くの世界遺産、また、55の少数民族などなど魅力は一杯だ。

 協会から生まれたアジコムは更に陣容を強化し、日中相互理解促進の社是を全うすべく一層の役割を果たしたいと思っている。(松)
アジア・コム旅遊消息   ASIA COM TRAVEL INFORMATION
営業本部設置のお知らせ
 いつもアジア・コミュニケーションズをご利用いただき、誠にありがとうございます。
 さて、弊社では、お客様の多様な要望にきめ細かく敏速にお応えしていくため、営業要員を増強し、営業本部を設置いたしました。

 また同時に、ツアー愛称を創り、様々な企画旅行をご提案してまいりたいと存じます。
 これを機に、スタッフ一同心機一転し、顧客サービスの更なる向上に努める所存でございますので、なにとぞ一層のご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。

平成20年10月10日
株式会社アジア・コミュニケーションズ
 代表取締役 松 井 三 平

2F-営業本部
海外国内を問わず団体個人旅行、航空券予約等あらゆる旅行業務を取扱います。
本部長 佐野 芳康
営業 森  誠
営業 福島 隆行
スタッフ 岩尾 美枝
スタッフ 平松 信子
電話:086-222-7722
FAX:086-222-7732
4F-トラベルカウンター
海外国内問わず航空券予約発券業務、その他あらゆる旅行関連業務を行います。
チーフ 藤井 久子
スタッフ 松岡 寛美
……中国語応対可
スタッフ 金 秋延
……中国語応対可
電話:086-231-0334
FAX:086-225-5041


「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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