岡山と中国 2012年6月
平成24年6月
  215号


発行人 片山浩子
編集人 松井三平
新見市友好訪問団/田口光代記念友好訪問団
    新見・信陽友好都市締結20周年
                      友好教育基金も贈呈
「お茶まつり」開幕式
  新見市と河南省信陽市(現在は行政区が変わり、信陽市シ師河区)の友好都市締結20周年を記念した新見市からの友好訪中団2団が、4月、同市を訪れ、友好を深め交流の継続を誓いあった。

  訪中団は、新見市からの「新見市友好訪問団」(新見市教育長・中田省吾団長はじめ10名)と「田口光代記念友好訪問団」(五洋工業・田口誠社長を団長とする27名)。
母の田口光代氏が奨学金基金を設立
奨学金を手渡す田口誠氏
(河区第一中学)
  一行は、開催中の『信陽お茶まつり』開幕式へ参加したほか、政府主催の歓迎レセプションに出席するなど友好を深めた。
  特に、田口誠氏は、母親である田口光代氏が信陽市シ師河区に設立した日中友好教育基金(約350万円)に基金を追加し、就学困難な生徒へ奨学金を贈るなど、友情を深めた。

  4月28日には、シ師河区第一中学で全校生徒が参加し、中日友好教育基金の贈呈式が行われた。
  挨拶に立った田口誠氏は「父母の後を継いで日中友好の促進のために尽力したい。みなさんも勉学に励み、将来日本に留学に来てください」と力強く生徒に語りかけた。

  信陽市と新見市の交流のなれそめは、岡山市在住の田口光代さんの亡き夫・田口克己さんが、戦時中病気で倒れていた時、通りがかりの信陽市の青年が助けてくれ、日本軍の陣地まで送ってくれ、九死に一生を得たという話に遡る。
戦中の中国青年に恩返しをしたいと
  田口さんは戦後岡山で水道事業を起こし、五洋工業を設立し成功し、中国での恩返しをしたいと何度も信陽市を訪問、助けてくれた青年を探したが、果たせなかった。
友好教育基金の贈呈式で挨拶する田口氏
  そこで、未来へ友好をつなげようと、信陽市人民政府の要望もあり、岡山県内で友好提携を希望する都市を探し、当時の阿新地方振興局局長だった難波一進さんに相談し、新見市を紹介され、交流が始まった。

  当初は、政府間交流でなく、民間団体が主流となり交流を促進した。
  新見市では「新陽会」が中心となり、岡山市では岡山市日中友好協会が協力し、小学生同士のキャンプや商工団体の視察団などを継続し、1991年になってようやく友好都市締結となった。

  本年の20周年を契機に、経済的には飛躍的な発展を遂げている信陽市との間で官民あげて、新たな観点で新たな交流が進むことが期待されている。 

親子2代交流の絆
   日中友好に尽力した 故 村上 栄氏の子息 村上 尚
    郭沫若氏愛娘・郭平英さん/卓球・荘則棟夫妻
   [親子2代を超えた新たな日中友好に向けて]
                 [少年少女 友好交流卓球交歓会開催に向けて]
  元岡山大学医学部教授・川崎学園理事で、当協会創立時に副会長として日中友好活動に多大な足跡を残した故村上栄氏。 その子息である村上尚氏ら家族がこの4月訪中、父が親交のあった“古い友人”の家族らと交流した。訪ねたのは、故郭沫若氏の家族や、世界の卓球界では知らない人のない荘則棟夫妻ら。親子2代にわたる日中友好交流の一端を、尚氏に紹介していただいた。
村上 栄著「我が生涯の思い出」より
中国科学院を訪問した村上 栄氏
(前列右から3人目、昭和31年)
にこやかに懇談する郭平英さん(左)と村上 尚氏












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特集  親子2代友好の絆 
         亡き父の志を継承し次代へ  村 上   尚
親子2代を超えた新たな日中友好に向けて
  私は昭和20年(1945年)岡山に生まれ、岡山で育った67歳です。現在、大阪府堺市に住んでおります。
  本年、日中国交正常化40周年を迎えた日中友好関係があるのも、国交のなかった頃、先人達が、民間人として中国との友好を大切してきた事が大変大きいと思います。
  その中で、私が北京を訪問し、郭沫若先生の娘様、郭平英さん(65歳)と、卓球の元世界チャンピオン荘則棟氏(72歳)ご本人に面会したく思う様になった経緯を、まず記したいと思います。
                   ○        ○        ○
  郭沫若先生の娘様、郭平英さんは、この3月末迄北京の郭沫若記念館の館長をしておられました。
郭沫若氏が創った詩碑の前で。
山本緑、郭平英、筆者、新館長の各氏
(左から。郭沫若記念館)
  どうして面談させて頂く事になったのか、その経緯をお話しします。
  私が現在勤務している日中間の航空貨物を取り扱うサービス会社の、上海側パートナー会社の中国人社長が昨年出張で来阪しました。

  雑談の中で私が、郭沫若先生と私の亡父、村上栄の関係を話した時です。
  「それであればご健在であると思われる後代(子孫)の方々と是非会って欲しい。中国人はそういう事をとても大切にする国民だから」という事でした。

亡父・栄は親善に尽力
  そこで、さっそく大阪の中国総領事館に同行し、担当官に探して欲しい旨依頼したところ、快く「直ぐ探しましょう」という事になったのです。
  数日後、中国科学院より総領事館を通じて返事がありました。
  返事は郭平英さんが訪問を快諾「日本の友人との交流を楽しみにしており、村上様が北京を訪問するなら、面会する事を楽しみにしている。連絡をお待ちしています」との事でした。
  同62年(1987年)に他界した父が遺した「我が生涯の思い出」(全380頁)を読み返してみると、郭沫若先生が岡山の旧制第六高等学校留学時に、後に岡山県知事をされた三木行治氏、川崎医科大学を開設された川崎祐宣氏と父は親友であった事が記されています。

昭和30年の郭沫若氏来岡時に
花束を贈呈する妹・緑さん。
三木知事の顔も見える
  そして、国交回復前の同30年(1955年)に中国科学院院長だった郭沫若先生が「訪日中国学術文化代表団」の団長として訪日され岡山に立ち寄られています。
  その時、私の2歳年下で当時8歳(小学校3年生)だった妹、緑(現姓・山本緑)が岡山駅頭にて郭先生に歓迎の花束を贈呈しているのです。
  また、翌年、今度は父が「岡山県訪中文化視察団」の一員として訪中した際、緑が書いて父に託した郭先生宛ての手紙を、中国側主催の歓迎の宴席(当時の毛沢東主席も同席)で渡しました。
  それが、中国語で中国側の出席者に紹介されました。その中の「…郭先生憶えていらっしゃいますか。私…」の部分を郭先生は繰り返し読んで感激されていた。

  郭先生はヒューマニストで感激家のようで、通訳が郭先生は恐らく心の中で涙を流しておられる事と思うと言っていました。
  訪中団員も、今回は「緑ちゃんが日中友好の親善に大きな役割を果たした」と喜んでいた事等が記されていました。
  そして、今回妹、緑も一緒に北京を訪問し、郭平英さんに面会させて頂く事になったものです。
                   ○        ○        ○
  次に、荘則棟氏との面談の経緯についてです。
  私は卓球が好きで小・中・高(操山高校)・大学と一貫して卓球部に所属し、当時岡山ランキング5位でした。
  しかし、学業の方はさっぱりで、亡くなった両親も「これでは進学出来る大学もない」と嘆いておりました。

  ところが高校3年の時、当時(1962年)、3回連続6年間、世界卓球男子シングルス・チャンピオンであった荘則棟選手を、日本人で初めて破った無名の大学選手が現れたのです。
  その選手が私の3年先輩の慶應義塾大学体育会卓球部の高橋浩選手(後に米国シチズン社長)でした。
  その事が卓球専門紙に掲載され、高橋選手が何故荘則棟選手を破ることができたか等々、その理由が詳細に書かれていました。
  それを読んで、私は大学に行っても卓球をやるなら「慶應義塾大学体育会卓球部」と決めて、それから卓球を一時中断し受験勉強に取り組み、幸運にも入学試験をパスしたという経緯があります。
昭和31年の「岡山県訪中文化使節団」。
前列左が村上栄、郭沫若(3人目) 毛沢東(5人目) 川崎祐宣(6人目)
中西寛治(7人目)の各氏(北京・勤政殿)

卓球通じ荘則棟氏と縁
  しかし、入塾して卓球部に入部したもののレギュラー選手にはなれず、3年生の時からマネージャーとして、卒業するまでの4年間卓球部に所属しました。
  その時の同級生に全国高校女子チャンピオンであった愛知県桜ヶ丘高校出身の深津尚子さん(現姓・徳永尚子、現在香川県高松市の料亭「二蝶」の大女将)がいました。

  深津さんは大学3年の春(1965年)、当時のユーゴスラビアのリュブリアナで開催された、世界卓球選手権大会において女子シングルス・チャンピオンに輝きました。
  同大会の男子シングルス・チャンピオンが荘則棟さんだったのです。

  徳永さんは今でも、荘則棟さんと交流があるとの事で、昨年末、徳永さんと話をしている時に、私が北京訪問をする予定がある事を話したところ「それなら荘則棟さんに是非、お会いしてきたら良い」と言われ、前述の経緯もある事から面会する事にしたものです。
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少年少女 友好交流卓球交歓会開催に向けて
  郭平英様との面談は、4月3日、行われました。
  北京・郭沫若記念館の公式会見場の客室で、まず中国茶を戴きながら、村上側よりの贈り物と日本で収集した郭沫若先生の旧制第六高等学校留学時代の資料(岡山市日中友好協会より預かった資料)をお渡しし、郭平英さんに面談する事に至った経緯を改めてご説明させていただきました。

  それに対し郭平英さんからは「父親の郭沫若と約60年前に日本で友人同士であった村上栄氏の娘、息子さん達と今回この様な形で再会出来て、私達も本当に嬉しい。さぞ両方の父親とも天国で喜んでいる事でしょう。この様な友好・交流が一番大切で価値のある事であると思うと同時に、今後共この出会いを大切にしていきたいと思っています」とのお話がありました。

郭沫若記念館で土産品を贈る山本 緑さん(左)と郭平英氏
交流の継続を互いに確認
  我々の子供達、孫達の時代にもこの様な機会が継続して行く事を願うと共に、その努力をして行く事を両方の娘、息子達で確認を致しました。
  その後、記念館内部に陳列してある資料・展示物について郭平英さん自ら懇切丁寧に案内していただき、郭館長の母親(郭沫若氏の妻)から聞いた話を交えながらの説明に感激した次第です。

  新中国の指導者として、また日中友好の架け橋として、郭沫若先生が如何に日中友好のために心を砕き、ある時には文学者として、ある時には哲学者として、ある時には詩人として、そしてある時には政治家として日中両国のこれからの新しい時代のためにいかに活躍、活動、努力をされたかが良く理解できる資料館でした。

  その後、席を高級中華レストランの個室に移し、フルコースのご馳走を戴きながら、中華料理の作り方、料理に使う素材の話、お茶の話、お酒の話、又今後の日中友好交流のあり方等についてお話をさせていただきました。

郭平英氏は館長を退任
  そして、記念館の入り口玄関に飾ってある郭沫若先生直筆の詩が大きな石材(縦2メートル×横5メートル)に彫ってある石碑のレプリカの置物と中国茶(ジャスミンテイー)を記念に戴き、最後に郭平英さんと記念館職員の皆様方と何度も、何度も硬い握手をして別れました。
  尚、永年に亘り記念館館長を務められた郭平英さんは、3月31日付けで退任され、4月1日より新任の館長さんに業務を引き継いでいるところでした。
        ○      ○      ○
荘則棟夫妻と筆者。
後ろに“ピンポン外交”時のニクソン大統領との写真が飾られている
  荘則棟氏との面談は、こちらも意義ある、楽しいものでした。
  面談は、北京郊外の30階建ての新築高層マンションの11階にある荘則棟氏の自宅のリビングルームで行なわれました。
  冒頭、前述の高橋浩氏、徳永尚子さんよりお預かりしてきたお手紙、贈り物を、また、村上側からの贈り物をお渡しし、このたび荘氏に面談をさせていただく事に至った経緯を改めてご説明しました。

お元気だった荘則棟氏
  荘氏とは1965年の当時のユーゴスラビア・リュブリアナの世界選手権大会において、それまで過去3回の対戦で勝てなかった日本の高橋浩選手との準々決勝戦で、何故勝つ事が出来、男子シングルスで優勝出来たか等々、卓球の話をしました。

  現在は「荘則棟杯国際卓球大会」(海外からの参加者もあり民間レベルで開催、少年・少女の選手達も多く参加する大会)を毎年中国各地で開催している等のお話がありました。
  同氏は、現在ご病気療養中ですが、そんな事を感じさせないお元気なお姿で、頬を紅潮させながら本当に嬉しそうにお話になっていたのが印象的でした。
  また、いわゆる「米中ピンポン外交」に至った経緯、その後の米国との交流の裏話等も話して頂き、大変意義深い面談となりました。

卓球交歓会実施に意欲
  そして、現在岡山市の卓球関係者の方々と協力して企画している「岡山少年・少女日中友好交流卓球交歓会」の実施のため、中国側の受け入れ先を探している旨の話をしました。
  すると、手紙で事前にお願いしていた事もあってか、その場で青島市卓球実験学校の薫煕校長先生に電話をされ、その受け入れの再確認を取っていただきました。
  「この件の話はつけてあるので、実施に向けての細かい話は同校長先生との間で進めて下さい」との力強い返事でした。

  そして更に、今年8月、青島市で行なわれる「第23回荘則棟杯国際卓球大会」に下見・打ち合わせを兼ねて是非見学に来たらどうか、さらに高橋浩さん、徳永尚子さん、松崎キミ代さん(1959年、1963年の2回世界卓球女子チャンピオン)にもご都合が付く様なら是非来て欲しいので、伝えて欲しい旨依頼がありました。
  最後に私の方から、「荘さんのお身体が早期に回復される事を祈っています、そして早くお身体を治癒されお元気になられて、また日本に来て下さい。今度は是非、岡山で再会しましょう」と申し上げ、辞去致しました。

仲の良かった荘ご夫妻
  今回、荘則棟氏とは初対面でありましたが、そんな事を感じさせない、優しい、暖かい、細かいご配慮が見て取れ、卓球だけに秀でた方ではなく、人間として素晴らしい、高い人格者である事を実感致しました。
  また、仲の良いお幸せそうなご夫婦のお姿が印象的でした。

  終わりにあたり、今回お会いさせていただいた、中国の品位ある人々に対し、心より深く感謝し、今後の日中友好に微力ながら力を注いでいける事を念じつつ筆を置きます。

[メモ] 村上栄氏(明治36年~昭和62年)島根県出身。昭和6年岡山医科大学卒、細菌学の権威。岡山大医学部では教授、学部長などを歴任。三木行治知事、川崎祐宣川崎病院長、郭沫若氏等と親交。日中友好活動に尽力。その次男が尚氏、次女が緑さん。
 
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唐家氏(中日友好協会会長)歓迎会
    民間交流の大切さ強調 
          「関西には特別な親しみを感じる」
  唐家璇中日友好協会会長を団長とする訪日団を迎えての歓迎会が、4月23日、大阪・大阪リーガロイヤルホテルで華やかに執り行われました。
  当協会では、主催の大阪府日中友好協会からご案内をいただき、代表して松井三平理事事務局長、宮本光研理事と黒住昭子の3名が出席いたしました。

  唐家璇氏といえば、以前外務大臣や国務委員などの重職を務められた知日家として知られています。
  この度、中日友好協会の会長にご就任され、日中国交正常化40周年の節目にあたるということもあってか、外交部の幹部も含め12名のそうそうたる方々の来日でした。
  会場には関西圏を中心として、経済界や文化界など様々な分野から約300人が集まり、活気ある雰囲気に包まれました。
  唐家璇さんがいよいよ入場される時には盛大な拍手とともに自然と花道ができ、その人気ぶりをうかがうことができました。

  日本側からは、大阪府日中友好協会の谷井昭雄会長や、大阪経済同友会代表幹事等の歓迎の挨拶を受けて、唐家璇氏が今後の日中関係の展望を丁寧にスピーチされました。
  同氏は、両国が今後も友好関係を深めていくことの重要性、特に民間交流の大切さを強調されました。

唐家璇氏を挟んで宮本理事と黒住理事
  中国がこれから内陸部に重点をおいて開発を進めることになるということ、またその動きに日本が積極的に関わり、双方が共に発展していくことを希望することなどを語りかけるように話され、皆熱心に聞き入っていました。

  「今回は東京ではなく、まず大阪に入ってきたのは、古くからの友人がたくさんいることもあるが、関西は歴史的にも古くから中国と深いつながりがあり、特別な親しみを感じているから」との言葉に会場は多いに盛り上がり、最後には自ら流暢な日本語で締めくくられました。

  大局的に、日本と中国双方の立場も踏まえながら、これからの日中交流を益々活発にしていくことの大切さを語られた唐家璇氏の言葉を直接聴き、またそのお人柄に触れることができて、私たちの協会活動の意義をあらためて認識することができた貴重な機会となりました。(理事-黒住昭子)

 
日中教育交流協議会総会


  平成24年度岡山県日中教育交流協議会(以下、協議会)の総会ならびに理事会が、5月19日午後1時半から、岡山市北区の岡山県生涯学習センターで行われた。

  総会には、役員、会員ら15名が参加。開会にあたり、門野八洲雄会長が協議会設立の趣旨と経緯、活動の内容について触れ、日中青少年交流を促進するため、協議会の役割は大きいと、参加者へ一層の協力を呼びかけた。

  その後議事に入り、昨年度活動報告、収支報告が了承され、新年度役員が選出された。
 次いで、日中青年交流(STUDENT EXCHANGE IN 大連)を柱とする今年度方針が採択され予算案も可決された。
 
鄭正浩先生による 「中国語講師勉強会」開講
                   受講生募集中、定員15人
  当協会附属岡山中国語センターでは、7月7日午後4時半から、市内北区の協会事務所で、中国語教育の権威、鄭正浩先生を講師とした第1回目の「中国語講師勉強会」を開催する。
  これは、中国語の教師養成を目的としたもので、基礎中国語を終了した者が対象。受講料は無料(会員のみ)。

活動日誌
 4/27…新見市信陽市シ師河区友好都市20周年記念訪問団27名(~4/30)
 5/ 1…岡山市民友好訪中団反省会(神道山茶店)
 5/10…三誌友の会例会
 5/14…日中教育交流協議会事前調査団(上海・大連)~17日
 5/19…日中教育交流協議会総会・理事会(岡山県生涯学習センター)
 5/29…第2回理事会(協会事務所)
 6/ 2…于愛紅歓迎会(有志、五七五)
 6/ 2…テレビせとうち大連取材出発(金子陽子さん大連へ赴任)
 6/ 5…土井章弘副会長講演会(岡山市民文化ホール、厚生会主催)
 6/12…山陽放送(RSK)メッセージ上海取材
 6/14…三誌友の会例会
 6/15…山陽放送VOICE大連取材
 6/23…日中教育交流協議会結団式・第一回研修会
 6/24…中国語検定試験(ノートルダム清心女子大学)

会員消息
【入会】
 寺坂 信久さん(岡山市)
 鄒   駿さん  (岡山市)
 
先憂後楽
  協会事務所の荷物整理をした。富田町交差点の事務所から現在の錦町の田辺ビルに引っ越したのは、1983年だったが、それ以来本格的な整理をしたのは今回が初めてだ。かれこれ30年近くそのままになっていた資料もある。

  一番の問題は、人民中国、北京週報などのバックナンバーの処分をどうするか、という問題。70年代のころからのものもあり、また、設立当時の活動記録など、協会のみならず、岡山と中国との友好の歴史を語る上で貴重な資料である。協会が引き継いだ1950年代の友好協会の資料もかなりあり、内山完造氏の直筆というお宝資料もある。

  しかし、価値があるかどうかは、後世の人が決めるもので、今の事務局的思い入れは別問題。捨てなければ整理整頓にはならない。その判断をしないまま今日まで来ていることが雑然とした事務所の原因だったと反省している。

  伝えるべき資料とそうでないものを分ける作業をして、きちんと管理していくことが友好をつなぐ意味でも大切な仕事だ。どなたか達人はおられませんか。(松)



「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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