/戦/後/70/年/
2015年8月
平成27年8月
  234号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平
岡山へ9月天津(友好協会)洛陽(古琴学会)代表団 
「友好協定書」に正式に調印
        天津市から陳副会長ら代表4氏岡山へ
 

  岡山、天津両市の友好協会が正式に友好交流協定に調印するため、天津市人民対外友好協会の代表が、9月17日、初めて来岡する。

  代表は、同協会筆頭副会長の陳衛明氏(団長)、同協会第二処長(秘書長)の張鐸氏、それに医療代表と女性代表の4人。
  一行は、同日東京から新幹線で岡山入り、調印式に臨み、当協会の片山浩子会長らと協定書に署名する。
  また、調印後は、岡山市内の医療施設や介護施設などを訪問、交流することにしている。
  一行は18日午後、岡山を発ち神戸市に向かう。

  天津市との友好交流については、今年4月、岡山市日中友好協会の市民訪問団が天津市を訪れ、仮調印ともいえる「友好交流に関する意向書」に調印している。
  意向書では「両市友好協会は、平等互恵を原則とし、文化教育、体育衛生、企業管理人材育成、女性と青少年交流、高齢者福祉と健康などの分野で広範な交流と協力をする」とうたっている。

  今回は、意向書を受けて正式に友好協定に調印、具体的に相互に交流活動をスタートしようというもの。     当協会では、17日に歓迎会を計画している。

日中伝統音楽交流協定
       洛陽から古琴学会代表

  洛陽市から洛陽古琴学会(楊虹会長)の一行6人が、9月、昨年に続き来岡、同月12日(土曜日)午後6時半より、岡山市北区の宗忠神社で開かれる『鎮守の森・吉備楽コンサート』にゲスト出演することとなった。

  コンサートは、毎年〝お月見コンサート〟として同神社境内で開かれているもの。古琴学会は楊虹会長らが2曲を披露する。参加は無料。
  また、演奏に先立って、午前中には、岡山の吉備楽(小野盛孝楽長)と洛陽古琴学会との間で『日中伝統音楽交流協定』(仮称)を締結する。  洛陽古琴学会は、昨年10月、岡山、洛陽芸術家交流の洛陽市芸術家訪日団の一員として来岡している。その交流を契機に交流の機運が盛り上がり協定締結に進んだ。

  シルクロードの基点でもある洛陽と岡山の間で伝統音楽、楽器、楽譜などを通じた伝統文化の交流に大きな期待が寄せられている。
 当友好協会は、協定締結に立ち会う。
高校生44人大連、南昌、上海へ 
大連の家庭で生活体験  授業参加や交歓会出席

  岡山県日中教育交流協議会(会長・岡本啓県生涯学習センター所長)の日中青年交流事業「STUDENT EXCHANGE in 大連」が、このほど行われ、12人の高校生交流団が大連で交流した。
  交流団は、県内の9つの高校から選抜された12人の女子高校生と引率者2人と添乗員の計15人。
  岡山空港で行われた出発式では生徒代表の岡山城東高校の野田采加さんが、実際に目で見て、触れ合って、体験して理解を深めたいと力強く挨拶した。

  一行は、7月29日朝、岡山空港を出発、上海経由で大連に到着、受け入れ先である大連教育学院附属中学での歓迎式に出席。このあと、早速ホストファミリーに迎えられ、各家庭へ向かった。
  生徒は3日間にわたり家庭宿泊し、中国の家庭での生活を体験。大連滞在中、学校での英語や書道などの授業体験、座談会、交歓会などを通じて相互理解を深めた。
  生徒たちは4泊5日の日程で交流、上海経由で8月2日夜、大きな成果を胸に全員無事帰国した。

  この高校生交流事業は、岡山県教育職員互助組合と福武教育文化振興財団の助成を受けて交流協議会が実施(県教育委員会後援)しているもの。
  既に上海で4回、大連でも今年で4回目となり、日中の高校生がお互いに相互訪問する形で続けられている。

 
岡山県日中懇話会  南昌市ヘ高校生21人 

  岡山県日中懇話会(黒瀬定生会長)の高校生交流訪問団が、8月1日から5日までの5日間、江西省南昌市を訪問し、現地の高校生らと親善交流した。
  一行は、県内の高校から選ばれた21人の高校生で、南昌第二中学と交流した。 

県高校文化連盟  上海へ青陵高生11人

  岡山県高等学校文化連盟(会長・藤澤薫総社南高校長)の国際文化交流事業友好訪問団は、8月7日から同11日までの5日間、上海を友好訪問。
  一行は、倉敷青陵高校合唱団の11人の高校生で、上海・新中高級中学と交流。上海側とは、相互交流の形で訪問しあっている。

 
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日本診療情報管理学会岡山大会
    学術大会に洛陽から参加

  9月17日、岡山市の岡山コンベンションセンターで開かれる第41回日本診療情報管理学会学術大会(大会長・土井章弘岡山旭東病院院長)に、洛陽市の東方医院から2名が参加することとなった。

  2氏は、同医院情報課の楊文宝課長と看護部の範文英主任。9月15日に上海岡山便で岡山入り、16日には岡山旭東病院見学と歓迎会に出席、17日から2日間大会に参加し、京都、大阪を見学した後、20日に帰国する。
  今回の招聘は、日中医療交流協定を締結している洛陽市の病院から、せっかくの機会ということで、土井院長の計らいで実現した。
 秋には、洛陽市医療交流訪日団が来岡することになっており、今後、相互の医療関係者の往来が一層緊密になってくる。

 
2015年6月30日〜 イタリア・ローマ
          范曾・文明対話

   伊大統領の招聘受け開催 范曾氏に「最高功労賞」授与
      中伊国交樹立45周年記念イベント 当協会からも招待受け役員出席

会場正面に大きな垂れ幕
  『范曾・文明対話』と題する范曽氏の個展が、6月30日、イタリア・ローマで盛大に開幕した。

  今回の展覧会は、イタリア大統領セルジョ・マッタレッラ氏の招聘に、范曽氏が答えた形で実現したもので、中国・イタリア国交樹立45周年を記念して開催された。

  開幕式に先立って行われたセルジョ大統領と范曾氏の会見では、大統領から范曾氏に対し、中国とイタリアの文化芸術交流への卓越した貢献を讃えるものとして『最高功労賞』の称号が授与され勲章が贈呈された。

  開幕式には、范曾氏の他に、イタリア文化顧問のルイス・ゴッダルト氏、駐イタリア中国大使館大使の李瑞宇氏、南開大学党書記の薜進文氏、中国欧州フォーラム創始者であるフランス国籍の高大偉氏、そして今回のメインスポンサーである三和銘茶の呉栄山董事長らが出席し挨拶した。

  その中で、ルイス氏は、今年が中国イタリア国交樹立45周年にあたり、范曾氏がイタリア政府の招聘を受け、イタリアで書画展を開き、ミケランジェロ、マルコポーロ、パ
開幕式で挨拶する范曾氏
ガニーニ、マテオリッチなどのイタリア著名人の人物画を描き、中華文化の魅力を展示していることは、文化交流という方式で中国とイタリアに新たなシルクロードを伝承していると、絶賛した。

  展示作品は大作品や書画など約80点で、会場では范曽氏がミケランジェロ人物画を描いている動画が大きく放映されるなど、工夫が凝らされていた。
  会場となった場所は、コンプレッソ・デル・ヴィットリアーノというところで、エマニエル二世記念館の中にあるホール。

  開幕レセプションは附設するレストランで開かれ、欧米からの華人、華僑、イタリア政府関係者、学者、中国からの政府、経済関係者そして南開大学関係者ら約500名が参加した。

  会場では、南開大学学生の合唱隊のメンバーがこの開幕式のために来ており、茉莉花など見事な合唱を披露した。
  范曽氏自身、北京大学でイタリア大統領と対談したという経歴を持っており、ローマでも同氏の存在感は抜群に見えた。

  今回の、范曾イタリア展は南開大学の主催で行われ、当協会にも招待状が届き、会長所用のため黒住昭子副会長が会長代行として出席。
  范曽氏と交遊の深い松井三平専務理事も参加した。

  范曾氏やイタリアの関係者、南開大学関係者ら出席者と挨拶するとともに、今後の日本での展覧会開催の意向などについて意見交換した。




記者発表会


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友好協会会員、読者アンケートより―
       戦後70年と私
 
 記憶を記録し
 伝え残すこと
    《3》
憲兵の妻として  逃げ回った彼女
                        栗坪治子さん =福山市=

  彼女は九州出身の人でした。父は炭鉱で働き、母は義理の母でした。兄弟は何人かいたようです。性格は明るく、面倒見の良い、声の大きな人でした。
  ある時、年頃になり、父親に女学校に行かせてほしいと頼んだら、「坑夫の娘は学校なんか行かんでええ」と叱られました。
 それに反発して家を飛び出し、当時姉が義理の母と合わなくて、満洲に行き、錦州の資産家の中国人と結婚していました。

  その姉を頼って中国に渡り錦州に行き、念願の奉天の女学校に行かせてもらったのでした。彼女は成績もよく、充実した学生時代を過ごし、人生の中で一番楽しい時でした。また運命的な出会いから恋人もできていました。  卒業も間近なある日、親友から「わたし明日お見合いをするのよ。相手は憲兵さんなの」と打ち明けられ「よかったわねえ。上手くゆくと良いね」と言ったのですが、詳しく相手の話を聞くと、びっくり仰天。なんと相手は自分の恋人だったのです。

  何日も悩んだあげく、身を引くことにしたそうです。当時は女学校に行けるのは、金持ちか、家柄の良い子女がほとんどで、親友も満鉄の役人の娘でした。
  恋人の憲兵さんの将来を考えると、坑夫の娘でたまたま女学校に入っている自分では不釣り合い、彼女と結婚した方が幸せと思ったからです。
  半ば自暴自棄になり、学校も止め失意のうちに姉の居る錦州に戻り、バーで働き毎日酔いつぶれ、荒れた生活をし、客に絡まれたりすると、大げさにあの憲兵さんの名前を出し、「万歳!」とか「幸せになれ!」とかなんとかわめき散らし、やがて誰も彼女を相手にしなくなり、彼女は一人ぼっちでした。

  そんなある日、ひとりで酔いつぶれていると、お店の隅にいたひとりの男が、つかつかと寄ってきて、思わず往復ビンタです。
  驚いて顔を見ると、なんとあの諦めた彼だったのです。しばらく時間が止まったようです。気がついたときは彼の腕の中でした。彼はずっと探し続けていたのでした。
  それから、すぐに奉天に帰り復学し卒業を待って、めでたくふたりはゴールインしたのでした。
  男の子にも恵まれ幸せな日々が続くと思われたころ、あの太平洋戦争が始まり、当然彼も憲兵として出兵してゆきました。

  彼女の幸せはほんのわずかでした。ついに彼は音信不通となり二度と帰ってくることはありませんでした。     彼女は姉の元に帰り、間もなく終戦を迎えました。その当時の満洲にいた日本人同様に、彼女の苦難の始まりでした。頼りの姉の家も裕福であったため、財産はすべて没収され丸裸。彼女も着の身着のままで逃避行しなければなりません。
  しかも彼女には特別な事情がありました。当時終戦と同時に、戦犯狩りが始まっていました。まず狙われたのが、通訳、巡査、憲兵です。

  庶民たちは大きな戦争指導者よりも、身近で権力を振り回し苦しめた連中を許さないのです。仕返しは凄惨を極め、リンチも頻繁に行われ、彼らは身を隠し逃げ回らなければなりませんでした。
  当然、その火の粉は家族にも及びます。彼女も亡き主人は憲兵なので標的です。彼女は転々とし、やがて李という旅芸人に助けられ、かくまってもらって、びくびくしながらもハルピンに定着していました。
  しかし、彼女のつたない中国語のためか、怪しまれるようになり、ある日、家の前で2、3人の中国人が中を伺って、何やら話していました。
  その時、李さんが帰ってきて、耳打ちし「すぐ逃げろ!」と落ち合い場所を伝え逃がしてくれました。

  取るものもとりあえず、窓から逃げ出し、隣の家伝いに辛うじて逃げることが出来たのです。その後、李さんと子供と落ち合い、再び逃避行となり、隠れ隠れしながらやっとのことで開原という街に落ち着きました。
  李さんは地元の劇場で仕事を見つけ、彼女はその傍らの小屋で〝元宵餅〟を売って生活をしていました。    私が彼女と知り合ったのはちょうどこのころです。私も開原に逃げてきており、知り合いの中国人から「日本人らしい女の人が居る」と言われ、会いに行ったのです。

  懐かしさもあり、妹のように接してくれ、自分の半生やら、いろいろのことを話してくれました。不思議だったのは、子供を家に近付けず、離れたところで遊ばせていました。
  何か用心しているようでした。日本人が居れば噂になるものです。彼女にとって開原も安住の地ではなかったのでしょうか。
  彼女と知り合って3ケ月ほど経ったころ、一緒にひとつの村に誘われました。そこは朝鮮人の部落でした。     彼女はひとりの朝鮮人を紹介してくれました。「わたしの妹よ」。彼は私にお小遣いをくれようとしましたが、断りました。
  彼は長距離のトラックの運転手で羽振りは良さそうでした。彼女は何かその人と話し込んでいました。

  4、5日経ってまた彼女のところに遊びに行くと、もう彼女の姿はありませんでした。李さんの寂しげな顔が印象に残っています。あの日が彼女に会った最後の日となりました。
  何があったのか、私には知る由もありませんが、憲兵の妻として逃げ回った彼女の半生をたどると、また何かに脅え、逃避行となったのではと想像しました。

  彼女に何の罪があったのだろう、その後の彼女の消息は不明である。
  彼女の名前は山崎美代子さん。昭和22年ころの話しです。今も中国のどこかにいるのだろうか…。
                                                      (帰還残留孤児)
 
「岡山県学術文化視察団」訪中(昭和31年)

毛主席との会見。会場は北京の中南海「勤政殿」
日中国交回復以前の民間交流のスタートとなる記念すべき一枚

  戦後岡山の対中国交流のスタートを物語る写真である。

  昭和30年(1955年)12月、郭沫若(中国科学院院長)は中国科学院学術視察団の団長として来日、岡山を訪問する。

  これが縁となり郭沫若の招きで同31年11月、岡山県学術文化視察団が52日間にわたって中国各地を訪問する。

  この11月18日、北京で毛沢東主席と会見した。その時の記念写真である。

  以下、団員名簿である。

   [団  長] 林秀一(岡大教授)
   [副団長] 川崎祐宣(川崎病院長) ▽村上栄(岡大教授)
   [秘書長] 中西寛治(日中県支部事務局長)
   [団  員] 岩本為雄(県仏教会長) ▽米田茂男(岡大教授) ▽緒方末彦(県農業試験場長)
         ▽楢村良章(映画サークル会長) ▽山本修一(日中県支部副会長)
         ▽山本遺太郎(県詩人協会長)  ▽桂又三郎(陶芸評論家) ▽石井遵一郎(音楽評論家)
         ▽牧山堅一(津山中央病院長)  ▽塩沼秀之助(長島愛生園医師)

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故江草安彦氏追悼講演会開催
       偉業讃え名誉県民選任の声も
千葉忠夫氏の講演

  7月22日、社会福祉法人旭川荘、山陽新聞社会事業団などの共催で、さる3月11日に亡くなった旭川荘名誉理事長の江草安彦氏を追悼する講演会が開かれた。

  会場の岡山市北区の山陽新聞社「さん太ホール」には、旭川荘関係者や故人と交遊の深かった人たちなど約250名が詰めかけ、故人の遺徳を偲んだ。
  司会は、同氏の長男でテレビせとうち報道局長の江草明彦氏が務めた。

  講演会は、主催者を代表して山陽新聞社の松田正巳社長が挨拶。続いて江草氏が亡くなる1か月前にテレビせとうちで収録された番組「敬天愛人 旭川荘60年の歩みと未来」が放映された。
 この後、デンマークから来日したバンクミケルセン財団理事長の千葉忠夫氏が講演。
  同氏は、ノーマライゼーションの考え方で江草氏とバンクミケルセンが意気投合し、日本でその考え方を実践し広めた江草氏の功績を高く評価した。

  引き続き、旭川荘理事長の末光茂氏、山陽新聞社会事業団専務理事の阪本文雄氏が登壇し江草氏の医療社会福祉の偉業を讃えた。
  江草先生は、岡山県議会から名誉県民賞に推薦されており、秋には正式に決定する運びという。また、今年は旭川荘が創立60周年を迎える。江草先生はあの穏やかな眼差しで天国から見守っておられるに違いない。
                                                   (松井三平記) 
郭沫若筆の追悼詩寄贈と講演会
       
先人顕彰会・井原が内山完造の生誕130年

  井原市の先人を顕彰しようという「先人顕彰会・井原」(川井真治会長)は、7月26日、同市芳井町の芳井生涯学習センターで、郭沫若筆の追悼詩寄贈式と講演会を開いた。

  これは、日中友好交流に多大の貢献をした芳井町出身の内山完造の生誕130年を記念したもの。顕彰会会員や関係者ら約50人が参加、内山完造や魯迅、郭沫若らに想いを巡らせていた。
  追悼詩は、内山完造の逝去3周年を紀念して、郭沫若が書いた「東海之土、西海之花。生於岡山、薀於中華。萬邦友好、四海一家。消滅侵略、幸福無涯。」の書。

  寄贈式では額装した書を、川井会長が滝本豊文井原市長に手渡した。滝本市長は「内山完造は郷土の誇る先人である。それを後世に伝えていく上での貴重な資料です。広く市民に見て頂きたい」とお礼を述べた。
  講演会では、上海市名誉市民章も受けている福山市日中友好協会の佐藤明久会長が「日中友好運動における魯迅先生、藤野厳九郎先生、内山完造氏」と題して話した。

  今年の内山完造生誕130年では、中国・上海魯迅記念館でもシンポジュウムなど各種の記念行事が計画されている。

特集「戦後70年と私」
           原稿募集のお知らせ

  会報「岡山と中国」編集委員会では、特集している「戦後70年と私」のアンケート(投稿)を、次の通り募集しています。
  特集の趣旨は、戦後70年経過した現在、各人の記憶を記録し、それを後世の家族や人々に伝え残そうというものです。
  戦争の記憶、戦後復興の記憶、家族の記録等々、残しておくべき記憶を、記録して行きたいと思います。今でしか語れない記憶、残しておきたい記憶をお寄せ下さい。

  お寄せいただいた記録は、会報に掲載するほか、記念冊子として来春2月頃発行する計画です。
  詳細については、今8月号に同封する要項をご覧ください。ご協力をよろしくお願いします。
  問い合せ、連絡先は、岡山市日中友好協会事務局(電話086-225-5068)まで。

吉備楽コンサート
         9月12日夕、宗忠神社

  宗忠神社ご鎮座130年記念と銘打った「鎮守の杜 吉備楽コンサート」(宗忠神社奉賛会・吉備楽十六日会主催)が、9月12日、岡山市北区上中野の宗忠神社境内で開かれる。
  吉備楽とは、雅楽や倭舞などの流れをくむ古典芸能の一種。笙や横笛などの管楽器と太鼓や鉦鼓などの打楽器で演奏される。
  同日は午後6時半から同8時まで奏でられる。今回は、特別に交流のある洛陽の古琴学会のメンバーがゲスト出演する。
  入場・観賞は無料。

 
活動日誌
  6/11…三誌友の会例会(ピュアリティまきび)
  6/19…田口光代さんお通夜。
  6/20…告別式(清輝橋シティホール)
  6/28…中国語検定試験(岡山ビジネスカレッジ)
  6/30…会報「岡山と中国」発送(協会)
  6/30…范曽イタリア展開幕式(ローマ。コンプレッソ・デル・ヴィットリアーノ)
  7/ 4…日中青年交流大連派遣高校生結団式(県日中教育交流協議会)
  7/ 9…福山市日中友好協会佐藤会長来局(協会)
  7/ 9…三誌友の会例会(ピュアリティまきび)
  7/10…瀬戸内卓球交流会理事会(協会)
  7/26…「先人顕彰会・井原」出席(芳井生涯学習センター)
  7/30…会報編集委員会 (協会)
  8/12…会報8月号発送 (協会)

先憂後楽

  7月17日から20日の間に、中国との高校生交流の説明会や訪日団受入れに関わった。上海と交流する県高等学校文化連盟、江西省南昌との県日中懇話会、そして大連との県日中教育交流協議会の3団体。合わせて55名の高校生が中国の高校生と学校訪問やホームステイを通じて中国の生活を体験する。高校生同士が直接触れ合い、語り合い、食卓を囲み、見聞することの意味は大きい。

  日中間には、長い平和友好の関係があるが近代での日中戦争という歴史もあり、日本の負の歴史としてきちんと踏まえておかないといけない。その反省の上に立ち、未来の、より良い関係を築くために大人の責任は重い。

  先般衆議院を通過した安保法案をめぐり、シンガーソングライターの長渕剛さんが「戦争に行くのは子供たち」、行かない人たちが議論すべきは「戦争を起こさないようにするにはどうすればよいか」という事だと発言している。

  毛沢東の言葉に『未来は青年のものだ』というのがある。日中友好交流を担うのもこの国の将来を担うのも青年である。だからこそ私たちは未来に禍根を残さないように、今しなければならないこと、出来る事を考え実践しなければならない。 (松)


       
戦後70年記念事業推進及び認定NPO法人の
         認可のためのご協賛寄付金のお願い


  本年は、第二次世界大戦が終結して70年を迎える年です。あの悲惨な戦争により多くの尊い命が奪われ、多大な苦難と犠牲を強いられました。つきましては、戦後70年の記念事業を行うためと、現在の仮認定から正式な認定NPO法人の認可を取得するため、皆さまのご理解とご支持を賜り、ご協賛寄付金をお願い申し上げる次第です。

         2015年 7 月  仮認定NPO法人岡山市日中友好協会
                                      会長  片山 浩子

         [記念事業]  「戦後70年と私」(仮)記念誌発行
                  講演会の開催など

         [協賛寄付金要項]
          ・一口=3,000円
          ・期限=2015年 6 月~12月
          ・申し込み方法=郵便振替申込票に住所、氏名を明記の上、お振り込み下さい。
                     後日領収書を発行させて頂きます

         [お問い合わせ先]
           仮認定NPO法人 岡山市日中友好協会事務局
             岡山市北区錦町 5-15 南田辺ビル2階(〒700-0902)
             電話 086−225-5068 Fax 086−225−5041  
                                                    担当:松井  


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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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