日中国交正常化45周年
2017年4月
平成29年4月
  244号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平

   国交正常化45周年・新市長表敬・緑化植樹他
 
洛陽へ市民訪問団
洛陽市人民政府表敬訪問。中央が劉宛康市長
 内山完造墓を訪問  呉昌碩記念館見学
 日中国交正常化45周年を記念した岡山市民友好訪問団(団長・片山浩子岡山市日中友好協会会長、10人)が、4月18日から同21日まで、洛陽市や上海を訪問した。

 訪問団は、岡山市の友好都市である洛陽市では、岡山市の佐佐木正士郎副市長らと共に劉宛康洛陽市長を表敬、恒例の植樹活動にも参加、洛陽古琴学会とも交流を深めた。

 一行は、18日午前、岡山空港から上海入り。同市内の呉昌碩記念館を訪問、呉越館長の案内で見学。その後、宋慶齢陵園の中にある内山完造先生のお墓参り。日中友好に生涯を捧げた内山完造に思いを馳せた。

 19日に洛陽に到着。ボタンが咲き誇る同市自慢の牡丹園を散策。夜には、以前から交流の深い洛陽古琴学会主催の歓迎夕食会に臨んだ。顔なじみの関係者同士、再開に話しを弾ませていた。

 20日には、片山団長と黒住昭子岡山市日中友好協会副会長ら3人と、別便で訪問した岡山市の佐佐木副市長らと共に、洛陽市人民政府を表敬訪問した。

 先に就任したばかりの劉宛康洛陽市長の歓迎の挨拶を受け、今後の交流活動などについて懇談した。
 恒例となった緑化植樹活動は、20日、洛陽孟津県の黄河沿いで行われ、地元関係者と共に汗を流した。

大連・東軟信息学院  院長らが協会を訪問

  大連の東軟信息学院国際教育学院の楊璐院長と張婷婷日本業務部長の2人が、4月7日、当協会を訪れた。
楊院長(左)と張部長
  両氏は、学院の紹介と留学生誘致をプレゼン、協会では松井専務理事が応対した。

  同学院は、大連市のIT企業、ニューソフト社が2000年に創立した私立大学。学生数は約14,000人で、このうち日本語を学んでいる学生が約1,200人と多い。

  今回の訪日目的は、提携している岡山商科大学や津山高等工業専門学校への訪問と、中国語学習者への留学生誘致だという。
  同学院は、企業が設立した学校ということもあり、ビジネスに役立つ実践的な授業が特徴。2週間の短期留学で、HSK3級を目指すという具体的な目標を持っている。
  また、中国国家教育部からインターネットでHSKが受験できる許可を取っており、タイなどとオンラインでの受験を実施している。

  協会では、現在、中国語センターの改革に取り組んでおり、中国での留学も組み込んだ中国語学習の方法も今後の課題になってくる。
  また、中国政府が就業ビザのランク分けを実施し、中国語が出来れば優遇されるという政策を開始するという情報があり、今後企業の中国語学習熱は高まってくる。
  協会としても今後の提携促進に期待したい。

 
岡山市立後楽館高校   新旧中国語講師交代

  洛陽市から派遣されている岡山市立後楽館高校の中国語講師がこの程交代した。
張さん
 
陳さん
  3月30日には、1年間勤務していた陳文静さんが離日し、同日、今度は来年の春まで講師を勤める張婷婷さんが来日した。

  空港では、上林英一校長始め、市教育委員会の指導課、そしてボランティアでお世話されている成広さんや当協会事務局員などが2人を見送り、出迎えた。2人の講師はいずれも洛陽師範大学の日本語講師で、洛陽市外事弁公室からの派遣となっている。

  この中国語講師招聘事業は岡山市と洛陽市の友好都市交流の一環として取り組まれており、当協会が橋渡し役をしている。


「農民・漁民画」展  美作市立作東美術館

農民画の「獲物」 
  美作市立作東美術館(美作市)で、日本では珍しい「中国農村漁村ライフスタイルアート展」が開かれ、3月1日、開幕式が行われ関係者がテープカットし開幕を祝った。

  主催は、美作市と中国文化センターで、岡山県立大学や当協会などが後援した。

  農民画は、色鮮やかな色彩で素朴な農業生活を描いたもので、中国ではひとつのジャンルとして確立しているという。最近浙江省の舟山市が中心となる漁民画が普及しており、今回は農民画、漁民画の両方が展示された。
岡山市日中友好協会 新理事に塚村、道上氏

  岡山市日中友好協会では、今年度総会で、塚村淑子さんと道上知弘さんの両氏を新しく理事に選出した。若返りとパワーアップが狙いで今後の活躍が期待される。

  塚村さんは、塚村造園土木の取締役で、これまで、訪中団や協会活動に積極的に参加していた。
  加えて中国語の勉強にも熱心で、3月に実施された中国語検定試験では見事3級に合格。英語のレベルは、英検1級と英語通訳案内士の資格保持者。今後、訪日団受入れなどでの活躍が期待される。

  道上さんは、小学校時代から中国語の勉強を始め、岡山城東高校時代に当協会の会員となり、岡大中国人留学生との交流や少林寺拳法訪中団への通訳同行など、積極的に友好活動に参加。
  慶応大学卒業後、東京大学や慶応大学などで中国語講師を勤め、今春から岡山に帰り改めて当協会に再加入し、中国語センター長に就任した。
  現在、既に入門、初中級、広東語の各講座をスタートしており、企業研修とも取り組んで行く方針。
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 特 集 2017年にー[2]
                    羽ばたく!!
   
                         日中国交正常化45周年       

片岡総社市長を囲んで、日本語研修のみなさんと。前列左端が孫さん
                ソン   キ
    岡山県立大学  孫  毅 さん
岡山県立大学企画広報室国際
交流員 (山東省済南市出身)

ご出身は、何時岡山へ
  私は、中国の山東省済南市出身です。来日してもう12年目になりました。
  高校を卒業した直後、京都にある日本語学校に留学しにきました。そして大学受験に合格したため、岡山に移住しました。
  自分はとても運がいい人であると思います。奨学金を頂いて、国立大学に進学できて、岡山県立大学に就職できて。そして岡山市日中友好協会にお世話になったことも。

仕事場ではどんな仕事を
  県立大学では企画広報室に所属しています。国際交流員として中国を始めとする外国の連携大學との連絡調整、県立大学が受け入れる留学生の受け入れ促進と受け入れ後の支援、国際交流事業の企画・実施補助などです。

なぜ日本を選んだのですか
  私が日本に留学しようとしたのは、日本の漫画の影響があるからです。小学校から読んだ漫画は「ドラえもん」でした。中学校からは「SLAM DUNK」を読んだら、バスケットボールに夢中になりました。
  日本の漫画のすごいところは笑っているうちに、自然に感動させられて涙がでるんですね。

これからの「夢」は
  私の夢は2つあります。1つは世界が永遠に平和であること。もう一つは、自分が日中友好の架け橋になることです。
  平和と友好な環境を築くためには、信頼感がとても重要なポイントになります。信頼されるために、やはり他人(異文化)への理解と包容力が不可欠ではないかと考えております。
  勿論平和と友好の基礎は民間にあるので、引続き岡山市日中友好協会の方々と共に日中民間の友好交流に全力を尽くしたいと思います。

好きな言葉があるとか
  「 夢がある人は努力する
            努力する人は失敗もする、
                    失敗する人は反省する、
                             反省する人は成長する、
                                     成長する人は成功する、
                                              成功する人には夢がある。」 

瀬戸内日中友好卓球交流会
      青島市から11人来日

                 岡山・香川の小中高生と交流

  瀬戸内日中友好卓球交流会(村上尚会長)は、3月26日から1週間、青島市体育局の趙秀雲副会長を団長とする青島市卓球運動協会交流訪問団11人(うち選手7人)を受入れ、岡山・香川両地域で卓球交流を行った。

参加した少年少女(岡山会場)

  交流の前半は、岡山市のねや卓球道場で合同練習と試合を行い、2日間で約30人の小中学生選手が参加した。  
  歓迎会は、黒住教神道山「しんとうざん茶店」で行われた。
  同交流会の村上会長が「卓球の練習、試合は勿論のこと、瀬戸内の景色や食事、地域の人たちとのふれあいも楽しんでほしい」と歓迎の挨拶。

  3月29日は岡山でショッピングや岡山城、後楽園などの観光を楽しんだ。
  子供たちは、岡山城では籠に乗って大名気分を味わったり、日本刀を持って記念撮影をしたりと、日本ならで
はの文化を体験した。
  夕方にはバスで次の会場である坂出市へ移動、途中瀬戸大橋から眺める夕暮れの瀬戸内海の風景も堪能した。

  後半の2日間は、坂出市立体育館で香川県の小中高生延べ約60人と交流した。
  ここでは同交流会の特別顧問で、元卓球女子世界チャンピオンの徳永(旧姓深津)尚子さんが駆けつけたこともあり、往年のプロ卓球選手であった趙団長とラリーを打合う一幕もあり、大いに盛り上がった。

 日中両国の関係が必ずしも良好ではない昨今、延べ100人近い岡山・香川両地域の卓球少年少女が、卓球王国中国の選手たちと直接対戦できる機会を提供している同交流会の活動は、日中友好、卓球技術向上の両面で大変意義深く、地元の報道関係者も熱心に取材、報道していただいた。

  最終日の4月1日、一行は、早朝、1週間にわたる充実した卓球交流を終え、来年の青島市での再会を約し岡山空港から帰国の途についた。 (事務局・国定剛)
 
「黄色いレシート」贈呈式  当協会も寄付金を受領 
  イオン「幸せの黄色いレシート」キャンペーン贈呈式が、4月18日、岡山市のイオンモール岡山一階未来スクエアで行われた。
  16年度、当友好協会に寄せられた黄色いレシートのバック(寄付)分は、4,600円で、ギフトカードとして受け取った。 
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朱金諾氏 (岡崎嘉平太氏専任通訳・全日本空輸㈱中国室
             講 演 録

「日中友好の架け橋
       岡崎嘉平太氏の思い出」
 

  全日空の朱金諾です。
  岡崎嘉平太先生の故郷で、且つ日中国交正常化45周年記念、岡崎先生生誕120周年という節目の年に、こうしたお話しをさせて頂くことは本当に光栄に思います。
  まずもって岡山市日中友好協会の皆さんに心から感謝申し上げます。

  ご高承の通り、岡崎先生は中国人民の古い友人で、戦後の日中国交正常化及び日中友好のために生涯ご尽力され、大きな功績を残して下さいました。
  今回は、岡崎訪中団最後の10年間、主に昭和53年(1978年)から平成元年(1989年)までの10年間についてのことです。

記念講演会(2017年2月18日)
  岡崎訪中団の当時の中国側の全線随行及び、先生の通訳として、あまり活字になっていない先生との思い出を中心にお話しさせて頂きます。

◯ 初随行
  昭和53年の夏でしたか、岡崎先生が訪中された時、当時の中国国際貿易促進協会の王耀庭会長に「周恩来総理が亡くなってもう2年、今後旅行社のルートを通して、気軽に故郷の友人たちを連れて中国旅行をしたい」との申し入れをされたのです。
  私は、その年の夏から先輩について初めて岡崎訪中団に随行しました。確か北京、西安を訪問したと思います。大変緊張して、要人会見の時にも、後ろの方で先輩の通訳を聞きながら、一生懸命会見の記録を作ったことを思い出します。

  翌年、先生は土光敏夫先生と岡山県の財界人12人を誘って敦煌に行かれました。その時初めて私はメイン通訳に指名されまして全線随行としてお供しました。各地の要人会見、観光案内と冷や汗をかきながら務めました。
  北京空港でお別れする時、先生から「朱君は声が良く通るし通訳も分りやすかった」とのお褒めの言葉を頂きほっとしました。
  以降、先生からご指名を受け平成元年の最後の訪中まで通訳として、岡崎訪中団を担当させて頂いたのです。先生は戦後百回訪中され、このうち38回お供をしました。
尊敬する周恩来総理を訪問(昭和46年)

◯周総理
  岡崎先生の訪中記録ですが、LT貿易の時から周恩来総理が一番多く会った日本人です。会見の数で岡崎先生が一番多いと思います。戦後日本の財界人として、中国訪問回数も一番、百回ですからね。

  実は、101回目の訪中もすでに企画されていたのです。1989年9月下旬、南開大学の名誉博士号の授与式に参加するため訪中を企画されていました。
  ところが9月22日、先生はご自宅で倒れられ亡くなられたのです。従って岡崎訪中団は百回で終了。

  日本の財界人としてほぼ中国全土を訪問されました。私の記憶ではチベットと青海省を除いてです。
  その時は、土光さんを誘って企画まではされたのですが、直前になってドクターストップがかかり、土光さんも臨調の仕事が入ってダメ。
  結局、岡崎先生はコースを変更して雲南省と上海に行かれました。岡山の財界人ら9人は予定通りチベットに行かれましたが、大変だったそうです。

郭沫若氏の自宅を訪ね懇談(昭和48年)
◯土光さん
  1979年8月、日本の民間の訪中団体として始めて、岡崎・土光訪中団がシルクロードの蘭州、敦煌、西安、成都などを訪問されました。
  その後、孫平化さんが井上靖さんや平山郁夫さんらの文化使節団を招き、敦煌に行かれましたので、岡崎訪問団が一番乗りだったのです。

  しかし、敦煌に行く前、現地は百年ぶりという鉄砲水に襲われ、街も道路も流されてしまった。
  現地の方は、安全のためと言ってコースの変更を提案してくるのですが、岡崎・土光さんとも「何としても行きたい」とおっしゃる。
  結局、現地の旅遊局に特別手配してもらって、手前の安生という街に一泊して、とんぼ返りの日帰りで莫高窟を見学しました。
  当時の莫高窟は、鍵もかかっておらず完全に「ハダカのまま」でした。その分ゆっくりと莫高窟を直接見学でき、先生も土光さんも非常に感激されていました。

◯ 郷土愛
  印象に残っていることと言えば、吉備真備の記念碑建立のことがあります。
  吉備真備は岡山県の出身で唐の時代、2度にわたって遣唐使として中国にわたっています。この記念碑を西安につくろうというものです。
  地元の高橋県議さんらが水面下で動いていたのですが、西安の許可がなかなか下りず困っていると言うことで、岡崎先生のところに要請が来たのです。

  先生が私に「何か良い方法はないか」と聞かれましたので、たまたま翌日に王震副総理との会見が予定されていましたので「副総理に説明されたら…」と答えたのです。
  当日、岡崎先生の要望に、副総理は即OKでした。その後西安市人民政府の全面協力もあって記念碑は完成しました。
  岡崎先生は、記念碑完成記念式典には岡山県の人たちを多く引き連れて、西安まで来られました。故郷を愛する岡崎先生の姿が深く印象に残りました。

◯ オヤジの涙
  もう一つは、以前、再建を手掛けられた池貝鉄工のOBの方々への対応です。
  先生は再建に本当に苦労され、リストラでやむなく労働組合幹部の首切りをされた時、先生は泣きながら訴えられたそうです。
  組合の幹部らは今もって先生のことを尊敬し「オヤジ」と称して、岡崎訪中団に参加され、何回も中国旅行に来られています。

  最初の訪中の時、ほとんど男性ばかりでしたので、先生は「あのころ一番迷惑をかけたのは皆さんのご家族です。ぜひ奥さん同伴でいらっしゃい」と、涙を流しながらおっしゃったのです。
  その後、池貝鉄工のOBの訪中団は、ほとんど奥さん同伴です。先生が亡くなられた時、池上本門寺での告別
式で、先生の棺を担いだのは、それら池上鉄工OBの皆さんでした。

◯ 戒厳令
  天安門事件のことを、最近日本ではあまり言わなくなりました。
  戒厳令が敷かれた当日、北京に入ったのです。街では、学生と市民が戒厳部隊の入場を阻止するために、あちこちでバリケードを造り、メーンストリートがほとんど通行できなくなっていました。
  そんな時の訪中でした。岡崎訪中団の歓迎宴会の場所も、人民大会堂から郊外の迎賓館にやむを得ず変更されました。

  そんな状況だと言う報告を全線随行から受けましたので、私はバスの前面のステッカーに「周恩来総理の古い友人 岡崎嘉平太訪中団」と書き、貼り付けました。
 すると、それを見た学生や市民が、バスに道を開けてくれたのです。岡崎先生や訪中団の皆さんには深い印象となったでしょう。

◯ 信と愛
  私は、岡崎精神を受け継いで日中両国はもっと共有する夢を語るべきだと思っています。
  岡崎先生は生前、好きな言葉を3つ挙げておられます。
  一つが「信は縦糸、愛は横糸、織りなせ人の世を美しく」で、生涯大切にされた言葉です。正に「信」という縦糸を通じて、愛情と誠実さを持って生涯実行された言葉です。

  次が「前事不忘 後事之師」です。前のことを忘れず、後の戒めとするとのことです。三つ目が「飲水不忘掘井人」で、水を飲む時は井戸を掘った人の事を忘れるな、と言う事です。
  先生は、中国を訪問された時にはたびたびこれらの言葉を引用されて、日中の共存共栄を訴えておられました。

◯ 原点
  私は、今日の日中関係で一番の問題は双方の理解が足りないことだと思っています。両国の国民の間の相互理解を深め、相手に対する理解の努力をしなければならないと思います。
  それには、45年前の日中国交正常化の原点に戻るべきだと考えています。中国の発展が日本にとって、チャンスなのか脅威なのか、この位置づけを確立する必要があると思います。この認識が非常に大事です。
  相互不信の連鎖を断ち切り関係改善の道筋を付けるべきだと思います。今、時代は日中関係に何を求めているのか、岡崎精神とは何なのか、皆さんとご一緒に深くもう一度考えて見たいと思います。
                (講演録は二月十八日開かれた日中国交正常化四五周年記念講演の要約です)
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投 稿
   
触れてみて分かること

                     福岡大学四年生  
小 野 沙也香

  私が初めて中国という国に向き合ったのは高校一年生の夏でした。
  きっかけは、友達が「STUDENT EXCHANGE in 大連」の広告を見つけてきて、一緒に行こうと私を誘ったことでした。
  当時の私にとって中国は、日本との関係が良くない国だという印象であり、しばしばニュースで悪く言われていたために少し偏見もあったと思います。
  そのため、友達から誘われているのに交流活動への参加を渋っていましたが、高校の先生の助言もあり、参加することにしました。

  今から思えば、このプログラムは私の人生を大きく変えたものだと思います。
  なぜなら交流活動の際の私のパートナーは日本語が話せず、私たちは英語で会話をしたのですが、私は中国語はもちろんのこと、英語さえも流暢ではなかったので、会話に詰まることもしばしばでした。
  それは私にとって、とても悔しくてもどかしい気持ちで、この時、私は初めて「中国語を話せるようになりたい」と思ったからです。

  高校二年生の夏も私はSTUDENT EXCHANGEへの参加を志願し、前例のない2年連続参加をさせていただきました。
  1年目とは違い、少し心に余裕もあったので、前回の参加時には見つけられなかった中国の成長スピードなどの状況を見ることが出来ました。
  この年、私は岡山県主催の韓国慶尚南道への訪問団の活動にも参加し、韓国語にも興味を持つようにな
りました。
  中国語や韓国語を学びたいと思い、そのために進路を理系から文系に変え、大学も言語学習の環境や交換留学制度が十分に整っている点から福岡大学人文学部東アジア地域言語学科を志望するようになりました。

  無事に志望する福岡大学へ進学し、毎日自分のやりたい勉強が存分にできる環境が非常に嬉しかったです。   私は高校生の時まで勉強嫌いでしたが、大学に入学してからは勉強が楽しくて仕方がありませんでした。
  また、福岡大学には中国や韓国からの留学生が大変多く在籍しており、留学生たちとの交流は私にとってとても有意義な時間でした。
  三年次に中国へ留学することは大学へ入学する前から決めていたことでしたので、留学自体への抵抗感はありませんでした。
  しかし、どの大学へ行くかを決断するのには多くの時間を費やしました。
  先生、先輩方、中国人留学生たちにアドバイスをもらい、私は山東省にある烟台大学を選びました。

  ここ烟台は距離的に韓国から近いため韓国人が多くいて、日本人は少ないので会話の際には何が何でも中国語を使わざるを得ず、さらに中国では比較的に空気が綺麗な都市です。
  韓国語も同時に勉強している私にはピッタリの大学だと思ったからです。
  もともと交換留学は1年の予定でしたが、1年間という時間はあっという間で、生活に慣れ、中国語の習得もこ
れからという時期だったので、中途半端な終わり方をしたくなかったことや、私自身が烟台大学での生活をすっかり気に入ってしまい、延長して2年目を過すことにしました。
  もちろん福岡大学を1年間休学するということは、私にとって同期から1年分の遅れをとるということであり、非常に悩みましたが、それでもこの選択に後悔はありませんでした。

  2年間の留学中にHSKやTOPIKという試験で最高レベルの6級に合格し、私は高校生だったあの頃からの目標である中国語と韓国語の習得を8割ほど果たせたと思います。
  後の2割は、言語の知識ではなく、ネイティブならではの感覚やセンスを身につけることなのだと思います。
  例えば、その国のギャグを聞いて笑えた時に、その国の言語を完全にマスターしたと言えるのではないでしょうか。
  私が留学していた時に出会った中で最も印象に残っている言葉があります。
  それは「あなたが中国語が上手くて良かった。ありがとう」です。これは、私が常連だったカフェのスタッフから言われました。
  よく通っていましたから自然と顔見知りになったわけですが、そのうちお互いに話をするようになり、仲良くなりました。
  その時にこのように話してくれました。私は中国語が出来て感謝されたことがなかったものですから、非常に驚きました。
  なぜ「ありがとう」なのか聞いてみたところ、「今までも常連だから顔を覚えた留学生は多くいたけれど、中国語が上手くなければ会話も続かないし、友達になんてなれなかったんだよ。だから友達になれたことが嬉しくて。ありがとう」と言ってくれました。
  私もその時初めて言語を学んでよかったと思いました。

  中国に留学していたと言うと、周りの反応は決まって「反日的じゃないの?大丈夫だった?」と言うものです。
  しかしそのイメージは違うと思います。少なくとも私と付き合った同年代の友だちの中にそのような空気はありませんでした。
  私が日本人だと分かると目を輝かせて「日本のアニメ最高!」とアニメの話に花が咲いたものです。これから中国の若者と交流するならアニメの知識が必須なのかもしれません…。
  政治的、歴史的といった問題はどの国にも存在します。そして、それに対して、人間対人間としての関係があるのだと思います。
  私が日本人として中国人や韓国人の友人と政治的な話や歴史認識の話をすれば、お互いに話が合わなくなることもあるでしょう。
  しかし、それでも私はその友人とご飯を食べたり、遊びに行ったりしたいと思いますし、その友人自身は魅力的だと思っています。

  「国」という大きな括りで見ると、私たちはお互いに立場の違いが生じて、遠く離れている時があります。しかし人間対人間として見れば、国家的な問題を超えて、個人的な交流があると思います。
  それが文化交流につながっているのではないでしょうか。私は旅行や学生交流を通して、この文化交流を支援していく人間になりたいと思います。
活動日誌
 3/15…岡山外語学院卒業式
 3/16…ワールドオプティカルカレッジ卒業式
 3/26…中国語検定試験(岡山ビジネスカレッジ)
 3/26…青島市卓球運動協会訪日団来日
 3/27…青島市卓球訪日団歓迎会(神道山)
 3/30…岡山市立後楽館高校中国語講師、陳文静さん帰国。同、張婷婷さん来日
 4/ 6…認定NPO法人認可申請(岡山市)
 4/ 7…大連東軟信息学院来局(協会)
 4/10…本年度第二回理事会、新理事歓迎会
 4/10…中国語初中級開講
 4/11…中国語入門開講
 4/13…三誌友の会例会(まつのき亭)
 4/14…中国語広東語開講
先憂後楽
  本年も洛陽市牡丹祭りに参加する訪問団が実施できた。昨年は協会設立35周年の節目の年で、総勢37人の訪問団となったが、本年は協会役員や常連となっている会員ら10人の訪問団となった。ただ、洛陽市側の歓迎は人数に関係なく暖かく友情溢れる内容だった。 

  洛陽への訪問団は、1982年9月の協会第一次訪問団を第1回として、ほぼ毎年実施してきたが、牡丹祭りが35年前に始まり協会へも招待状が届くようになってから4月訪問が常態化してきた。それ以外に、留学、青少年、文化、医療福祉、緑化関係等の相互訪問が拡大し、友好都市凍結の時期も含めて民間往来は途切れることがなかった。

  この36年間に岡山市長は岡崎平夫氏から6代、協会長は赤木五郎氏から5代にわたりそれぞれの時代時代に即した交流を官民協力しながら実践して来た。

  日中政府間の状況を見る時、わが活動の無力さに落ち込むこともあるが人と人を繋いで来た協会の役割は確かにあると信じたい。今回の訪問の別れ際に洛陽市のパートナーである于愛紅さんが「私たちの関係は仕事の関係ばかりでなく、もはや友人の関係ですね」と言ってくれた。中国語に『不要見外』(よそよそしいのは止めよう)というのがあるが、その域に達するまで『綿薄の力』を尽くすのみだ。   (松)



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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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