日中平和友好条約締結40th
2018年10月
平成30年10月
  253号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平

おかやま国際音楽祭2018/中日韓民族音楽コンサート
  民族音楽の交流盛況    洛陽  ・ 岡山   

  吉備楽や古琴など日中の民族音楽の交流が進む中、9月、洛陽から琵琶の演奏家が岡山を訪れ、見事な音色を響かせた。 これに先だって4月には岡山市民友好訪問団が洛陽を訪問し演奏家とも交流。また、岡山からも洛陽に出向きコンサートに出演、お互いの友好交流はおおいに盛り上がった。

 伝統文化の伝承こそ我々の義務
高明氏の琵琶演奏
  今回、来岡したのは、洛陽市在住の琵琶奏者、高明(こうめい)氏。同氏は、9月28日、上海経由で岡山入り、翌日開会した岡山市など主催の「おかやま国際音楽祭2018」オープニングコンサートに出演した。
  JR岡山駅西口のリットシティビル「ひかりの広場」で開かれたオープニング式典には、同市の大森雅夫市長らも顔を見せた。

  コンサートの二番目に登場した高明氏。白い舞台衣装に琵琶を抱え、琵琶の名曲を奏でた。音色は、日本の琴とアコースティックギターを合わせたような音。爪で弦を弾いて演奏する。

  最初は、項羽と劉邦の戦を取り上げたテンポの速い「十面埋伏」「覇王卸甲」。琵琶では代表的な古典武曲として知られ、勇ましい音調が特色。
  次が、中国南部地方の田園・自然風景を表現したゆったりとした文曲「江南追憶」と雲南地方の「イ族舞曲」。
  聴衆は、時には勇ましく、また他の場面ではゆったりと、その繊細な〝爪さばき〟に、聞き入った。

  「琵琶は全世界の音楽と一体になれ、どんな音楽にも合わせやすい。独特の音色とテクニックも特色なのです」と高明氏。琵琶の魅力について強調した。
  この日は、4月の「岡山市民友好訪問団」の一員として洛陽市を訪れ、高明氏と交流した関係者らも、激励に訪れ歓談した。
  この中で高明氏は「岡山は洛陽と同様、歴史的な都市です。私たちはこの伝統を伝承していくことが義務で
高明氏
す」と意欲を見せていた。

  また岡山との文化交流についても「より頻繁に交流していきたい」と強調した。
  激励に訪れた人たちを前に「ぜひこの曲も聴いて欲しい」と琵琶をとり、代表曲「春江花月夜」を演奏し関係者を喜ばせた。

  9月30日には、関係者の案内で吉備津神社などを見学「岡山の文化に触れられた」と感激。10月1日、離岡した。


 琵琶論議や文化交流に花咲く

高明氏宅で歓談した市民訪問団
  琵琶奏者の高明氏は、1961年生まれの57歳。琵琶奏者の家系に生まれ、現在中国音楽家協会琵琶研究会理事洛陽分会長を務めている。

  演奏家としての活動の他、琵琶奏者の育成や、対外交流活動とも取り組んでいる。岡山の吉備楽の洛陽訪問にも尽力した。
  今年4月、岡山市民友好訪問団の訪中時には、団員が洛陽市内の高明氏の自宅を訪問した。訪れたのは、宮本光研副会長、荒木敏雄理事、池田武久会員ら。

  室内には、高明氏が長年取り組んでいる、古文書を参考に自らの手で復元した琵琶がズラリ。それらに囲まれた中で、琵琶演奏を披瀝。しばし琵琶論
古文書から復元した琵琶
議や文化交流論議に花を咲かせた。
  訪問団側は、池田氏が得意のハーモニカを演奏、歓待に応えた。
  この時の交流が縁で、今回の岡山での演奏が実現した。

中日韓民族音楽コンサート
      日本の琵琶と箏を演奏  
                 「河洛文化節」で木庭、佐藤さん熱演

  河洛文化節「中日韓第一回民族音楽コンサート」が、9月15日から洛陽市で開かれ、当協会からは出演する2人の演奏家を含めて4人の代表団(団長・黒住昭子副会長)を組織し、訪問した。
  演奏家は、箏の佐藤美由樹さん(三鈴音楽学院講師)と、琵琶の木庭千春氏(号は木庭巒水、薩摩琵琶)の2人。
  佐藤さんは「ロンドンの夜の雨」「汽車ごっこ」「華宝」を、木庭氏は「平家物語」を演奏、盛んな声援を受けていた。
琵琶の木庭千春氏                                箏の佐藤美由樹さん
 
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座談会 特集 
    〝協会青年部〟が船出   


 
名称は〝水蜜会〟で  幅広く若者を結集
                               星野 耕平 氏 (会社員 岡山市)

  私が、岡山市日中友好協会に入らせてもらったのは、10年くらい前だったと思います。
  地元の銀行に就職し、上海に1年間研修生として行っていました。中国語はそこで学びました。上海に行くまでは、中国に対する印象はご多分に漏れず良いものではありませんでした。

  しかし、現地で過ごしてみると、人としての優しさというか、懐の深さというか、本当に〝情の厚さ〟といったものを強く感じたのです。
  1年間で帰って来たのですが、本当に良い経験をさせてもらったと思いました。それだけに、何か恩返しをしたいとの気持ちがあり、友好協会の門をたたきました。
  今回、ようやくお手伝いできるチャンスが巡ってきたと思い、青年部の創立を呼び掛けているのです。

  青年部の名称は、一応〝水蜜会〟と決めています。メンバーは、私と横溝政資さん、大森達郎さんの3人。とりあえずこの3人で打ち合わせをして、頑張っていこうという気持ちです。年齢的には30歳代までということに。
  そして、決まっていることの一つは、この水密会よりももう少しワクを広げた飲み会的な集まり〝カモメ会〟(仮称)を組織することです。
  幅広く若者たちに集まってもらって、日中友好協会に関心を持ってもらい、中国に興味を持ってもらえるような基盤をつくりたいのです。
  これを年間4回程度考えており、初回は12月7日に決めています。今、参加メンバーの呼び掛けを始めています。
  もう一つは、中国にスタディツアーといったものをやろうと考えています。今、ちょっと中国に観光旅行に出掛ける程度では、中国というものは分かりません。

  若い人たちには、中国の経済とか政治とか、勉強する機会は実際のところありません。そんな若者に、旅行を
企画するのです。
  とりあえず3人で、頑張っていきたいと考えています。

 中国と係わりたい 裾野広げる活動を
                         横溝 政資 氏 
(会社経営 岡山市)

  私は、岡山市日中友好協会設立とほぼ同い年、1981年の生まれで36歳です。
  学校を卒業後、東京で仕事をし、その後会社を辞めて中国に渡りました。それが私の中国との係わりの始まりです。25歳の時でした。

  2007年の事で、そこから2016年まで約10年間、上海で現地採用として中国の現地企業に勤めていました。
  この間、中国の国有企業グループにも勤めたことがあり、中国という国は働く上で非常に魅力のある国であると常に感じていました。
  そこで、日本に帰国してから会社を立ち上げ、現在、日中間の貿易であったり、観光客誘致つまりインバウンド事業などを手掛けさせて頂いています。

  ですから帰国して仕事以外でも中国と係わりたいと常々思っており、星野さんに紹介頂いて、帰国後すぐこの友好協会に入会させて頂きました。
  私は一人で10年間、中国で過ごしました。ですから中国で外国人が受け入れられるまでには、楽しかったこともあったし、たいへんでした。

  逆に、中国人が日本にいる時、同じように日本を好きになってもらいたいという思いがあるのです。
  せっかく協会に入らせて頂くのであれば、もう少し(友好の)裾野を広げるような何か活動が出来ないかと考えているのです。それが、青年部であり、〝カモメ会〟の話に繋がっていくのです。

 若者たちの目線で スタディツアーを
                         大森 達郎 氏
(会社員 岡山市)

  岡山市日中友好協会の門をたたかせて頂いたのは、ちょうど1年前です。生まれ育った岡山に帰ってきたころでした。
  それまでは、自営業として観光の仕事やインバウンド商品の卸を行っておりました。元々は中国とは全く関係のないところからスタートしたわけです。

  ところが仕事をしていく中で、日本と中国の関係性は他の国と比べても非常に重要なものであると感じるようになりました。だからこそもっと関心を持った方がよいのではないか、関係性を作っていった方が良いのではないか、そう思ったのが事業をやっていたころの結論でした。

  岡山に帰ってきて、仕事としては関わることは少なくなったのですが、せっかく持ったこの思いをなんとかしたいという気持ちが強くあり、この友好協会に入らせて頂いたのです。これがちょうど1年前だったのです。
  これから青年部で活動していくに当たって、私は中国語が話せる訳ではありませんし、中国の事を知っているかとなるとまだまだです。
  ですから、どちらかというと岡山に住む若者たちの目線でいろいろな活動していけたらな、と思っています。個人的に実現させたいことの一つがスタディツアーです。

  私自身ももっともっと中国を見て、いろんな事を感じたいのです。それを回りの仲間たちに伝搬させ、岡山を盛り上げる力に変えていきたいと考えています。

                    歓迎メッセージ 
                                  会長 片山浩子
    
      青年部結成大歓迎。岡山に若者あり


  青年部を作ろうという皆さんのご意向、役員一同、大歓迎です。若い人たちが中国を知り、中国について学ぶことは重要です。そしてお互いの交流が若い人たちの間で出来たら本当に素晴らしいと思います。
  ここにいる皆さん中国が大好きです。中国と仲良くしたい、そのことが平和に繋がると信じて頑張っているのです。

  先日、北京で開催された日中友好フォーラムで東京都日中友好協会の方が発表され、全体的に組織自体が高齢化・老齢化しているとの指摘が出ていました。
  それに対し東京では〝青年部〟を立ち上げたと話されていました。

  ベネッセホールディングスの名誉顧問福武總一郎さんは、最近講演で中国に何度も訪問されています。併せて、直島メソッドを用いて、中国の農村の再生のお手伝いをされています。
  これらは若い中国の経営者育成の機関からの要請でしているとのことですが、得た富を中国のために、また地域のために何かしたいという人が大変に多くて、驚いているということでした。

  元気な中国の若者に負けずに、日本の岡山にもヤル気満々の若者ありということを、示して欲しいと期待しています。
 
新たな発想による活動に期待
未来を担う青年部が正に船出

                     
専務理事 松 井 三 平      

  日中友好団体の置かれた環境を見ると、全国的に会員・組織の高齢化が進み、少子化と併せて会員の減少に歯止めがかかっていません。
  これから益々日中関係の深化と相互理解の強化が計られなければならない時だけに、推進母体となる友好団体の活性化は喫緊の課題です。
  その鍵を握るのはなんといっても後継者、青年の発掘と育成でしょう。

  このような時、岡山市日中友好協会では、20代から30代にかけての会員が中心となり、青年部の結成の動きが出て来ました。
  10月7日には、中心的メンバー3名と片山浩子会長をはじめ協会理事会役員との初顔合わせ会が開催され、実質的な青年部スタートとなりました。

  今後、青年会員による新たな発想による活動の提案と実施、また大学生や高校生等に向けた会員増加対策などの組織活動が大いに期待されるところです。
  協会としては、今後、会則等の改正・整備や環境改善に努めていく方針です。

  〝未来は青年のものだ〟と高らかに宣言したのは、新中国の指導者、毛沢東でした。岡山市日中友好協会にも、協会の未来、そして日中友好活動の未来を担う青年部がいよいよ船出します。
  
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中華人民共和国駐大阪総領事館
  建国69周年記念祝賀会

             李天然総領事ら400人出席、盛大に

レセプションのオープニング

  中国駐大阪総領事館主催の建国69周年記念祝賀会が、9月28日、大阪市のホテルニューオオタニ大阪で開かれた。
宮本副会長、李総領事、松井専務理事
  祝賀会には、近畿地方を中心とする行政、議会、経済界、日中友好団体や華僑華人団体などから約400人が出席。

  冒頭、挨拶に立った李天然総領事は、李克強総理の訪日が大きな役割を果たしたこと、また両国の指導者が相互訪問することが予定されたりするなどをあげて、本年は日中関係が大きく好転していると強調した。

  一方、経済面では、現況の中国経済は〝ニューノーマル〟という供給調整局面に入り、安定した経済発展を遂げているとも話した。今回、当協会からは、宮本光研副会長と松井三平専務理事が出席。李総領事はじめ総領事館のメンバーや参加者と懇談した。

  全体的には、毎年、華僑華人の参加者が増えてきており、存在感を増している様子がうかがえた。

丹羽宇一郎氏を招き 県立図書館で講演会
                          11月24日 13時半より 
 
丹羽宇一郎会長
  日中友好協会会長で元中国大使の丹羽宇一郎氏を招いた講演会が、11月24日午後1時半から、岡山市北区の県立図書館2階多目的ホールで開かれる。

  テーマは「日中友好なくしてアジアの平和はない」。

  これは、日中平和友好条約締結40周年記念事業として開かれるもので、岡山県郷土文化財団、岡崎嘉平太記念館、県、吉備中央町などが共催する。入場無料。

  申し込み・問い合わせ先は、岡崎嘉平太記念館(加賀郡吉備中央町吉川きびプラザ1階、電話0866−56−9033)まで。

岡崎嘉平太とANA

  岡崎嘉平太記念館(加賀郡吉備中央町吉川4860-6 きびプラザ1階)は、12月27日まで、企画展として「岡崎嘉平太とANA(全日空)−その軌跡と今に生きる精神」を開いている。

  企画展では、岡崎氏が主に活躍した航空業界での活動ぶりを中心に紹介している。同氏は昭和27年の会社設立時から参画しており、全日空の基盤をつくり、世界企業にまで育てた人。

  全日空関連の遺品や、各界から贈られた数々の賞、写真類などを展示している。
  会場は、同館の企画展示室で、開館時間は午前9時から午後5時まで。休館日は毎週火曜日。

愛に生きた歌人  激動波乱の一生
 白 蓮
     
       柳 原 燁 子
 (やなぎわら  あきこ)  
        白蓮直筆の歌発見 (当協会保存 資料調査で )

ちり
てゆく
 落葉のあとを追ふごと

 冬の時雨の 音たてて降る
 
 〝愛に生きた歌人〟として、また新中国の要人との交流もあった白蓮(柳原燁子)の直筆と見られる和歌が、このほど岡山市日中友好協会で見つかった。
  これは、協会が保存していた資料を整理精査している中で発見されたもの。

  歌は「ちりてゆく落葉のあとを追ふごとく冬の時雨の音たてて降る 白蓮」。女性らしい流れるような筆跡。詠まれた時期ははっきりしない。
  もともと短冊だったものを軸装にしたものらしく、傷みもあったため、今回、短冊仕様に表装し直した。
  「白蓮さんの女性らしさが醸し出されるように」と、赤枠に金色の線をあしらった額としてある。サイズは縦52cm、横14cm

  白蓮は、1885年(明治18年)、妾腹の子として生を受けたが、現実には伯爵、柳原家の次女(燁子・あきこ)となり、大正天皇の従姉というやんごとなき公家華族の身分となった。これが数奇な運命の始まり。
  15歳で結婚させられ一子をもうけたが6年後離縁、実家に帰り〝幽閉〟状態の生活を送った後、女学校に入学。
  ここで、親友となる村岡花子(NHK連続テレビ小説「花子とアン」の花子のモデル)や、歌人の佐佐木信綱らに出会い、和歌の手ほどきを受けている。

  その後、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚させられるがこれも破綻。妻のままで婚家を出奔、中国の孫文を支援し続けた革命家、宮崎滔天の長男、龍介のもとに走る。これが、世間を騒がせた〝白蓮事件〟である。
  龍介との生活は順調で、昭和の戦中から戦後にかけての激動の時代を、夫は社会運動家として、燁子は主婦として、目覚めた婦人運動家として生き抜いていく。この間、歌人として歌は詠み続けている。

  新中国誕生後、父の宮崎滔天と龍介は、国父・孫文を支援していたことから、常に国賓扱いで、白蓮も2回、夫妻で国賓として招待され、毛沢東や周恩来ら指導者と歓談している。
  激動の中、時代と格闘し続けた白蓮は、1967年(昭和42年)81歳で生涯を閉じている。

  白蓮の書については、岡山市立中央図書館でも直筆の句が展示されている。
  (額装の表装については、福山市日中友好協会会長の佐藤明久氏のご寄贈をいただきました。感謝申上げます。)
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岡山市多文化共生推進ネットワーク
   各種団体の情報交換促進

  岡山市多文化共生推進ネットワーク会議が、10月2日、岡山市役所で開かれた。当日は22団体から約40人が参加、岡山市日中友好協会からは猪木正実理事が出席、意見を交換した。

  会議は、外国人留学生や研修生、観光客・旅行者ら異文化を持った外国人と多く関係を持つ市内の各種団体が一同に会し、情報交換を通じてネットワークを作り、他文化共生社会作りを市民ぐるみで推進していこうと開かれた。
  今回は特に豪雨災害が続いた後だけに、災害時の対応・外国人への情報伝達方法などについて活発な意見が交わされた。
  今後については、参加団体間のネットワーク作りを進め、情報交換を続けて行くことなどを確認した。

  参加団体は次の通り。
  あくら編集委員会 ▽岡山NPOセンター ▽岡山インドネシア友好交流協会 ▽岡山外語学院 ▽岡山科学技術専門学校 ▽岡山倉敷フィリピーノサークル ▽岡山華僑華人総会 ▽岡山県行政書士会 ▽岡山県国際経済交流協会 ▽岡山県国際交流協会 ▽岡山県国際団体協議会 ▽岡山県中小企業団体中央会 ▽岡山市外国人市民会議 ▽岡山市日中友好協会 ▽岡山商科大学 ▽岡山大学 ▽岡山トルコ文化センター ▽岡山ネパールソサエティ ▽岡山ユネスコ協会 ▽加計学園 ▽環太平洋大学 ▽こくさいこどもフォーラム岡山  ▽在日本大韓民国民団岡山県地方本部 ▽山陽学園大学 ▽就実大学・就実短期大学 ▽世界女性会議岡山連絡会 ▽大学女性協会岡山支部 ▽中国学園大学・中国短期大学 ▽西川日本語教室 ▽ノートルダム清心女子大学 ▽メンターネット

 第16回日中友好交流会議  11月18・19日 岡山市で開催

  日中両国の相互理解と民間交流の促進を目的とした第16回日中友好交流会議が、11月18、19の両日、岡山市で開かれる。
 会場は、JR岡山駅西口のANAクラウンプラザホテル岡山(岡山市北区駅元町15−1)と岡山コンベンションセンターなど。

  会議には、日中合わせて約300人が参加する予定で、同様の会議が岡山で開かれるのは初めてとなる。
  主催は、日中友好協会(丹羽宇一郎会長)と中国側の中日友好協会(唐家璇会長)。参加するのは、中国側は、中日友好協会代表団をはじめ、岡山県内の各自治体と友好関係にある江西省、上海市、天津市、鎮江
市、九江市などから約200人。日本側は、各地の日中友好協会や自治体などの関係者。

  会議は、18日は午後7時から同9時まで同ホテルで歓迎会。19日は午前9時から開会式・全体会議があり、代表団の挨拶・紹介、来賓挨拶、日中双方の基調報告、講演などが行われることになっている。

  日中のこの交流会議が始まったのは1983年(昭和58年)で、日中の国交回復が実現して間もなくのころ。 当時、日中友好協会は宇都宮徳馬会長、中日友好協会は廖承志会長だった。両氏の提唱でスタートしたという。
  双方の友好協会の会員が率直に意見を交換し、相互理解を図り、交流を促進していこうという狙いだった。  第1回会議は北京で開かれ、その後2年間隔で、日本、中国が交互に開催してきた。
  前回の15回会議は、湖南省長沙市で開かれ、日中双方で約240人が参加している。

日中平和友好条約40周年において
   体で体験してこそ真の理解

                  岡  山 大学名誉教授
                 上海交通大学客員教授  森 田  潔 

  私は、昨年まで岡山大学に勤めておりました。もとより、日本の大学は大きな変換点にあり、大学のグローバル化が叫ばれていた時でもありました。
  私自身、20歳代後半、ニューヨークに2年間留学し、この時の何事にも代えがたい経験が、後の私の人生に大きな影響を与え、今の自分があると考えています。

  学長に任じた時、海外留学生達に、私と同じように、何事にも代えがたい経験ができるよう大学環境を整えること、また、すでに世界各国で活躍している国際同窓生との絆を築くために、世界各地に国際同窓会支部を設置する計画を発表しました。
  現在、世界中に54か所の支部が存在し、活発な交流を続けています。

  岡山大学には、現在(2018年4月)767名の海外留学生が美しいキャンパスで勉学に励んでいます。中国からは369名で、約半数を占めています。
  岡山大学学生の半数以上が文字どおり、中国(日本の中国地方も含めて)各地から集まる、中国総合大学(戦前、岡山に帝国大学を作るときに予定していた大学名)であります。

  かつて、岡山大学の前身である第六高等学校に学んだ著名な中国人、郭沫若は、私ども岡山大学の同窓生ともいえる存在であります。
  中国革命後の1955年に学術文化視察団長として日本を訪れた際、第二の故郷として岡山にも立ちより、後楽園、第六高等学校跡、岡山大学などを訪問し、その時の心境を書いた書を残して帰りました。その書は現在、岡山大学の学長室に掲げられております。

  国どうしの友好は、人の交流があってこそ始まります。自分の目で見、体で体験してこそ真の理解が深まるところです。
  日中平和友好条約が結ばれて40年、多くの方が中国から日本を訪れております。しかし、それに見合うだけ日本から中国を訪問しているとは言えません。

  私は、現在、上海交通大学客員教授として、半分を上海で生活をしております。私が果たす役割は、多くの日本人が中国を訪問するきっかけを作ることであると思っております。
  日中の教育交流が、両国の発展の基礎であることを信じてやみません。

(この原稿は、岡山県日中教育交流協議会会報「悠久」第五十三号に掲載されたものを転載したものです) 

会員消息  
【入会者】  森田 潔さん(岡山市)  
        木庭 千春さん(岡山市)
活動日誌 
 8/10…会報発送(協会)
 8/18…吉備路文学館訪問
 8/22…NHK、山陽新聞社取材(協会)
 8/25…中国語センター運営委員会(協会)
 8/25…青年部準備会
 8/26…日中青年交流受入れ準備会議(県生涯学習センター)
 9/ 1…福武教育文化振興財団事例発表会(プラザホテル)
 9/10…岡大メディカルセンター訪問(岡大医学部)
 9/13…理事会(協会)
 9/14…河洛文化祭参加訪問団出発(~17)
 9/28…中国建国69周年祝賀会出席(ホテルニューオオタニ大阪)
10/ 1…上海第一中学来岡(~10/4)
10/ 2…多文化共生協議会(岡山市)
10/ 7…青年部との顔合わせ会(爺や)
10/11…岡崎嘉平太記念館勝野館長来局
先憂後楽
  「温故知新」とは論語(為政)が出典で、「古い事柄も新しい物事もよく知っていて初めて人の師となるにふさわしい」(広辞苑)とある。本年は日中平和友好条約締結40周年にあたり、この意味を強く感じている。

  先日、協会に青年部を作ろうと有志が集まり語り合ったが、彼らは岡山と中国の歴史についてはあまり知っていなかった、というより関心が少なかった。郭沫若という名前も知らなかった.。

  今協会では先輩から引き継いだ多くの歴史的資料の整理に着手している。時代は新中国が成立した前後から1970年初頭までのものが中心だ。そこには、まだ中国とは国交が無く敵視国として見られていたために厳しい官憲の弾圧があった中で、活き活きと活動した人々の軌跡が刻まれている。

  矢掛町に全国で初めて「日中友好協会」の看板を掲げた中西寛治さんは、県支部の初代事務局長を皮切りに生涯を日中友好活動に捧げた活動家だった。彼がいなければ、後楽園の丹頂鶴も存在していなかったかも知れない。何より私たちの友好協会もこの世に生まれていなかった。

  中西さんの古い時代の日中友好を受け継ぎ、80年代から今日まで友好協会と活動を繋いで来たのが私たちの友好協会だ。

  そして、このバトンを次の世代へ引き継ぐ時代に入った。幸いこの事業をつなごうとする青年達が現れた。古い資料や語り継がれたことをこれからの活動に活かすため、協会設立40周年の3年後を見据えて準備していきたい。 (松) 



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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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