2021協会設立40周年へ
2019年4月
平成31年4月
  256号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平

4月21日〜25日 /洛陽・北京・上海                                                 岡山市民訪問団
 

北京市人民対外友好協会と初めて協議
  洛陽で開催される「牡丹花会」(牡丹祭り)に合わせて毎年訪問している「岡山市民訪問団」が4月21日午前9時過ぎの上海便で、岡山桃太郎空港を出発した。一行は、上海、北京経由で23日洛陽入り、友好交流する。

対外友好協会を表敬訪問し意見交換
  訪問団は、岡山市日中友好協会の片山浩子会長を団長に総勢10人。岡山市洛陽市友好都市議員連盟の元会長で顧問の楠木忠司氏も参加した。

  出発に当たって片山団長は「洛陽では、洛陽師範学院で、日本語を学ぶ学生さんと懇談することになっており、非常に楽しみにしている」と話した。それら協議を通じての新しい関係づくりに意欲を見せた。

  北京では、万里の長城(慕田峪長城)や天壇公園、前門街などを散策。交流が始まった北京市人民対外友好協会を訪問。
  同対外友好協会では、主管する幹部らが一行を出迎え、北京での活動内容や今後の交流の取り組みなどについて意見交換。
北京市人民対外友好協会を訪れた一行



  同協会とは、昨年開かれた民間友好団体交流会議や岡山で開催された日中友好交流会議などを通じて、関係者らと少しずつ友好交流を深めてきている。北京での直接の対話は今回が初めてとなる。

  洛陽入りは23日。洛陽市では牡丹花会や龍門石窟を見学。洛陽市政府へも表敬訪問、白馬寺に参観、洛陽師範学院で日本語を学ぶ学生等との懇談会を開催。洛陽を25日に発ち、上海経由で同日夜帰国。



 
熱烈歓迎!青島から少年卓球選手来日
      岡山と香川で卓球親善交流
                
瀬戸内日中友好卓球交流会  国 定   剛

岡山会場での参加者のみなさん
  瀬戸内日中友好卓球交流会(村上尚会長)は、3月22日から1週間、青島市卓球運動協会の董熙副会長を団長とする青島市少年卓球友好交流訪問団14名(うち選手は9~10才の小学生11名)を迎え、岡山・香川両地域で卓球交流を行った。
  交流の前半は香川(琴平)のヴィスポことひらの体育館で、後半は岡山のねや卓球道場で、それぞれ合同練習・試合を行った。

  香川会場では、昨年全日本クラブ卓球選手権大会3位のヴィスポことひらの選手たち。岡山会場では直前に行われた全国ホープス選抜大会で男女アベック3連覇を成し遂げた岡山選抜チームのメンバーも参加。両県でもトップレベルの小中学生選手約50名が腕を競った。
プレゼントの贈呈

  試合が終われば、そこは国や言葉は違っても同じ小中学生同士、お互いにプレゼントを交換、カタコトの日本語や中国語で賑やかにはしゃぎ合って交流を深めていた。
  同交流会では、青島市卓球運動協会と2014年に青少年を毎年相互に派遣し、卓球交流の協定を締結している。

  青島からの来訪は今年で3回目となる。この日中友好卓球交流は、中国の往年の名選手、故荘則棟氏(1961年より1965年まで世界卓球選手権男子シングルス3連覇、ピンポン外交で西側諸国との国交回復に貢献)と、同交流会の村上尚会長との出会いがきっかけで実現した。

  今回はその荘則棟氏ご夫人の佐々木敦子さん(現在東京在住)が琴平の会場に駆け付け、選手たちを激励した。
  来年は青島市へ両県の小中学生を10名程度派遣する予定。

 
中国人留学生新入生歓迎会
                  積極的な姿勢充満  

  岡山県中国人留学生新入生歓迎会が、4月28日、岡山大学国際交流会館で開かれた。当協会からは、青年部水蜜会代表の星野耕平理事が出席し祝辞を述べた。

  同留学生学友会の王俊祥会長が歓迎の挨拶。出席した約50名の新入生に向けて、日本で生活する上での注意点などを具体的に細かく丁寧に説明。その後、ゲーム大会や、カラオケなど交流した。

  中国の各地から、期待を胸に日本にやってきた留学生たち、やはり何事にも積極的という印象が強かった。中国人留学生との交流は、私たちに多くの気付きを与えてくれるものだと改めて感じさせられた。 
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《岡山市日中友好協会定期総会記念講演・講演録》
    上海滞在2年の経験で得た

  日中友好への想い
     ◀上▶
               講師
   上海交通大学客員教授
                    岡山大学名誉教授・元学長
  森 田   潔  

森田 潔 氏
「兼高かおる世界の旅」の大ファン 子どものころから海外へのあこがれ
  私は中国という国が好きで、常に親中派と申しております。ここでは、中国に対する私の想いを自分の経験から、お話しさせて頂きます。
  まず、そういう想いになった経緯についてお話します。
  私たちはいろんな情報や知識を得ます。それは新聞であったり放送であったり、それらを通じていろんなイメージを持たれると思います。中国に対しても同じだと思います。

  ところが、一度現地に出向いて現地の人と話してみると、強いインパクトとなり、大きく印象が変わってしまうことがあります。今までの情報には、正しいものもあれば、間違っているものもあります。自分の目で見、確かめることは、大きな力となるのです。
  もう一つ、そこに行って生活するということは、また違ったエネルギーを得ます。現地の人といっしょに言葉を交わすと、全く違った印象が入ってきます。
  私は、そういった経験を2年間、上海で体験させてもらいました。

小学生のころから 海外での活動が夢
  それでは、私の経歴について少し触れておきたいと思います。この話しをするに至った経緯です。
  私は、子どものころからグローバル化というか国際化という事に強い関心を持っていました。小学生のころからテレビの「兼高かおる世界の旅」を楽しみに見ていました。30年間近く見続けていたと思います。毎週日曜日、本当に楽しみでした。
  自分も海外で活躍したい、こんな仕事をしてみたい、そんな想いを子どものころからずっと持っていました。アメリカン・ドリームを夢み、海外へのあこがれですね。この〝海外〟の中に中国が含まれていたかどうかは分かりませんが…。
  大学進学を目指す中に、兼高かおるさんへの想いがあって、医学部に行こうと思ったのです。その海外への接点が、当時「国境なき医師団」とか、野口英世とかの活躍にありました。
  これが私の将来の夢でした。実際は、大学病院で働くことになりましたから、かなえることにはなりませんでした。

  大学病院時代のことですが、岡山大学が、スーダンと協力していた時代があり、当時、約1ヵ月間、麻酔の指導に行ったことがあります。その時も、野口英世のガーナの研究所を1度訪ねてみたいと思いながら実現しませんでした。
  その後、岡山大学学長時代に、岡山大学とガーナ大学とが提携する機会に恵まれ、その時、念願の野口英世記念館(研究所)を訪ねることができました。
  兼高かおるさんは、90年の生涯で世界150ヵ国を訪問されました。私は、世界で1泊以上した都市を、ちょうど50ヵ国訪問しています。自分では、結構いろいろ行ったなと思っても、兼高さんの150ヵ国には及びません。本当にたいへんな仕事をなさったと思います。
  私自身、この50ヵ国訪問ですが1度も観光目的では行っていません。何らかの仕事を持っての訪問です。ついでに観光することはありましたけれどね。

  このように、私は岡山大学医学部の麻酔科医として人生を送ってきました。日本麻酔科学会の理事長もやらせて頂きました。全国に1万3千人いる麻酔科医の団体です。最後の12年間は、岡山大学病院長、岡山大学長として過ごしました。
  そして、現在、公職を離れて、上海交通大学客員教授という〝一社会人〟として活動させて頂いております。こういった麻酔科医、大学人、一社会人として、どの様に中国と係わってきたか、このことについてお話ししたいと思います。

初訪中は平成4年 北京へ日帰りの旅
  実は私自身、中国を初めて訪問したのは1992年(平成4年)10月25日でした。
  調べて見ると、平成天皇が初めて中国を訪問されたのが1992年10月23~28日だったと思います。ちょうどその時です。しかも、その日は日曜日で、日帰りをしたのです。
  そのころ、私たち麻酔科の教室に中国から1年間の予定で留学生が来ていました。非常に優秀な学生で北京大学からでした。
  こちらに来て1ヵ月くらいしたころ、急に元気がなくなり病院にも出て来なくなりました。このため、精密検査をしたところ脳に腫瘍があって、しかも悪性だと分かったのです。
  検討の結果、中国に帰って治療しようということになり、歩けるくらい元気になった時を見計らって25日の日曜日に帰国することになりました。朝、私が付き添って、伊丹空港から発って北京空港に着き、家族と北京大学関係者に状況説明をして検査データを提供し、その日の夕刻、帰国したのです。
初の訪中(北京日帰りの旅)当時の北京空港

  これが最初の訪中ですが、その日いざ帰国しようとすると、北京空港はチェックインカウンターにも何処にも英語表示が全くないのです。どうすれば良いのか、迷ってしまいました。
  やっとのことでJALマークを見付けて駆け込み、説明して助けてもらって、飛行機まで待ってもらい帰国したことを思い出します。
  今から30年くらい前の話しで、国際空港の北京空港に英語表記がなく、出国税も中国通貨・元でしか払えませんでした。まだ、国際化が全く進んでいなかったのです。

  その2年くらい前、私の小学生の息子が訪中しているのです。当時、岡山市と洛陽市が友好都市提携を結び、記念にお互いの小学生の訪問交流を計画していました。
  良い機会だと思い小学4年生だった息子を行かせました。北京から列車で1日かけて洛陽市を訪問、上海経由で帰ったのだと思います。
  帰ってからどうだったかと聞きますと「きたねぇ。もう行かん」と言ったのを覚えています。30年前は、それくらい子どもにとっても印象は良くなく、中国はなかなか国際化も進まず発展途上というか、むしろ発展前の時期だったのです。

  私が今、北京や上海など中国の都市をいくら訪問したか、パスポートで数えて見ますと、最初の15年間は僅か3回でした。しかし、その次の10年間は、2005年に病院長に就任したこともあり、学長時代も含めて51回も訪問しています。ですから、年5回は中国を訪問し、中国各地の病院や大学と提携する作業を続けてきました。   そして大学を退任してから2年間は、上海との往復が増え、なんと48回に及んでいます。1回の滞在は3、4日で、それを月に何回か繰り返しています。
  岡山・上海間には毎日定期便がありますし、1時間半程度のフライトですから、東京よりちょっと向こうに行く程度の感覚で、苦痛でも何でもありません。
  ターミナルも岡山は人が少ないので、簡単に手続きが済みますし、出入国についても中国は今、ウェルカムで何の抵抗もなくスッと入れてくれます。これで見ますと、中国生まれの人より、私の方が多く各都市に行っていることになると思います。

恩師・小坂教授が 中国の時代を予言
  私が中国と初めて係わりを持ったのは1992年と申しましたが、元々私たち麻酔科の領域では、早くから中国との交流を進めてきたのです。1987年(昭和62年)、日中臨床麻酔討論会を北京で開催しているのです。
  討論会については、私の2代前の岡山大学学長をされ、私の恩師でもある小坂二度見教授が自ら取り組んで実現されたものです。

  当時中国は非常に遅れた段階にありましたが、先生は、これからは間違いなく中国の時代だから、中国とは仲良くしなければいけないと、口癖のようにおっしゃっていました。
第一回中日臨床麻酔学討論会
  そして、中国の麻酔学会に働き掛けられ、第1回の討論会開催にこぎ着けられたのです。いわゆる天安門事件(1989年)の前だったと思います。
  両麻酔学会が協定を結び、2年ごとに開催地を日本と中国と繰り返しながら行き来するという方式で、10年間続きました。中国から多くの留学生も受け入れました。

  ところが、2002年(平成14年)、中国でSARS(サーズ、重症急性呼吸器症候群)が発生しました。中国にとっては、一大事件だったと思います。その時から、私たちがいくら連絡を取っても音信不通となりました。この間、約5年間、討論会は中断しています。
  SARSは、中国の南部から始まりウィルスによる感染はあっという間に拡大、わずか1年半で約8千人の患者となり、約700人の死亡者が出ました。その後、収束しましたので、討論会の方は、2006年に再開し、現在に至っています。

日本の麻酔学会は 早期に中国と交流
  このように私たちは、麻酔科医として中国との交流は、かなり親密に続けてきました。この間、私は、2009年(平成21年)から4年間、日本麻酔科学会の理事長を務めました。当時、中国側の代表を務めていたのが、上海交通大学麻酔科の主任教授だった于布為さんでした。
記念式典で于布為教授と
  彼は、先程お話した、中国から受け入れた留学生の一人でした。1980年代に2年間、埼玉医科大学に留学し、日本で麻酔科を勉強して帰りました。当時、米中は良好な関係ではなかったため、多くの中国人は日本に来て医学を学んで帰ったのです。

  彼自身、日本で学び、帰国後中国の麻酔科を創り上げたという経歴の持ち主です。親日派で、日本に対して強い想い入れを持ってくれています。中国で開かれた創立25周年記念の中日臨床麻酔討論会で、彼は約500人の中国人聴衆の前で、はっきりと「我々中国の麻酔科が今日あるのは日本のおかげである」と発言しました。
  日本への〝礼〟の気持ちを決して忘れてはならないと言ってくれたのです。そういった間柄ですので、彼とは非常に親しく交流させて頂いております。

  学長を退任するに当たって、退任後の事を考えていました。任期を終えたら何か仕事でもしようか、海外の仕事をしても…と漠然と思っていました。そんな中に、上海交通大学に客員教授として来ないか、とのお誘いがあったのです。飛びつくような思いでお世話になろうと決めたのです。

上海交通大学は 最優秀大学の一校
  上海交通大学はいわゆる総合大学です。大学名にある〝交通〟の意味が日本語とは少し異なっていて、英訳すると〝コミュニケーション〟の意味が近い言葉かも知れません。日本でいう交通の意味ではありません。医科もあり、文系もありの総合大学です。
上海交通大学 医学院の前で
  学生数3万6千人、留学生4千人、中国でも5指に入るエリート校で、江沢民元国家主席の出身校としても知られています。
  創立は1896年(明治29年)で、岡山大学の前身の第六高等学校(1898年創立)とほぼ同時期です。上海ではもう1校、復旦大学が有名で、この2校が5指に入っています。

  上海交通大学の医学院は、上海市内に14の付属病院を持っており、その中の一つに瑞金病院があります。ベッド数は約1600床で、中国では最高の医療水準の病院です。そこで私は麻酔科の教授として勤務させて頂いているのです。
  瑞金病院で私は、主として手術室で働くのですが、手術数は年間4万例、毎日約100例の手術をこなしています。岡山大学病院では、いくら頑張っても1日30例ですから、その規模はお分かりになると思います。
  この病院には、VIPのための別棟もあります。一般市民の方とVIPは別扱いなのです。そんなシステムになっているのです。

  手術室の中は、全く日本と変わりありません。施設も医師の技術レベルも同じです。しかし、私が見たところ、違いはあります。日本の方が、まだまだ患者さんに対する想いというか、扱いというか、やり方については先を行っていると思います。中国はまだ遅れていると感じます。
  面白いのは、昼食のとり方です。彼らは日本のような〝弁当〟は持って来ないし、決して食べません。聞くところによりますと、中国の方は冷たいものはあまり食べなくて、弁当を持ってくる習慣はないそうです。みんな暖かいものを食べます。手術室の隣にあるカフェテラスで自分で選んで食べています。熱を通したものを食べるという生活の知恵だと思います。
  手術室では、こういった生活をしているのですが、昼食に関しては私にとって美味しいと感じたものは一度もありません。日本人にはちょっと合わないのかも知れませんね。

大震災と原発事故 岡大も大ピンチに
  次に、大学のグローバル化問題に少し触れてみたいと思います。  私は病院長に就任した後、学長時代も含めて中国各地の大学や病院を訪問し、連携をとらせて頂けるよう協議して回りました。
  皆さんご承知のように、現在、何処の大学も、グローバル化しないと生き残れないということで、グローバル化を迫られております。

  たまたま、私が学長に就任した年(2011年4月)に東北大震災(同年3月11日)が起こりました。岡山大学には中国からの留学生がたいへん多く、全留学生の60数%に達していました。
  そのような中で大震災があり、福島の原発事故が起こったのです。「日本は危ない!」となって、中国人留学生は本国にどんどん帰ってしまいました。岡山と福島はあれだけ離れていても、そうなのです。そして、帰ったのはいいのですが、再度、岡山大学に戻って来ない状態が続きました。大学にとっては、たいへん苦しい時代を迎えていたのです。

  これを何とかしなければならないーこれが新学長に課せられた喫緊の課題のようなものでした。  当時、文科省が打ち出していたのが「スーパーグローバル大学創成支援」事業です。グローバル化を進めている大学を選んで支援しようというものです。全国30校を募集していました。
  そこで、何としてもこれに入らなければならないとして、各種計画を作りデータを出し、その支援事業に応募しました。ありがたいことに認めて頂きました。その頃から、留学生も戻って来るようになりました。

  グローバル化に向けての私の戦略は、第一に中国にターゲットを絞ることでした。グローバル化というと、何となくアメリカとかヨーロッパを連想し、欧米からの留学生を増やそうと思うかも知れませんが、私は中国に絞るべきだと考えていました。 (次号へ続く)
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投 稿   志賀島の旅と新元号「令和」
                            則 次 美弥子 

  私たち親子3人は、福岡市の志賀島へ旅に出た。「倭の国王 後漢に使いをやり 金印を受ける」−。この一文に魅せられたからだ。

  まず、福岡タワーから展望したが、遠くに見える志賀島より、眼前に広がる玄界灘に釘付けになった。
  東郷元帥曰く「敵艦見ゆ。天気晴朗なれども波高し」。この言葉は小学生の時に何度も聞いたものだ。さらに、私たちの両親がこの海をどんな思いで渡って満州に行ったのかと思うと感無量、胸が熱くなった。

  やがて、天然の細い陸路(海の中道)に続く志賀島に着き、金の国印(漢委奴国王印)が見つかったという山裾へ来た。階段は曲折し、かなり高い所まで登った。
  開けた広場に建物らしいものはない。礎の上の石台に金印のレプリカが燦然と、しかもぽつんと置いてある。  2cm四方の金印は、特殊な加工を施した箱の中に入っていた。
  見つかった所とはいえ、こんな形で展示されていることに少々驚いたが、太陽の光を浴びて一層の輝きを放つ姿に、現代的な表現なんだなあと感心した。

  貿易のために金印を持ち出し、戦乱によって失ったと記憶しているが、当時に想いを馳せると歴史のある旅は奥が深く興味を一層かき立ててくれる。
  息子は中学の教科書に載っていたというが、娘は金印に見入ったままだ。この金印が本物・偽物と学会で論争されているのも、また面白い。

  次に、蒙古襲来古戦場跡を訪れた。後に地元の人たちが蒙古軍供養塔を建立したという。先人は良いことをしてくれた。
  異国情緒のある蒙古塚、墓標の金と朱の文字も鮮やかだ。お花も手向けてあり、管理は行き届いていた。昭和13年には蒙古の指導者「徳王」も参拝したという。

  再び車中の人となる。
  奇しくも今日は新元号が発表される。その時が近づいた。「日本の漢詩から選べばいいのにねえ」と思わず口に出たが誰も応答してくれない。
  「令和」。
  ついに出た。ナビのテレビではっきりと見た。それは日本の古典からのものだった。やったあー。
  思い思いのことを喋っているうちに、観光タクシーから降りる時になった。運転手さん、ありがとう。

  旅から帰って翌日の新聞を隈なく読んだ。ある人曰く、「日中がうまくいってないから政治的な関係が影響か」。また、「初春令月…」は王羲之の蘭亭序の序文を模したとされる…。この二つの記事に心を奪われた。
  一つ目の記事はよく分かる。色々問題がある現代のことだから。
  二つ目の記事、つまり、漢文学を基に研究を重ねた当時であれば、その過程で当然あり得る表現だと思う。裏を返せば日中友好の架け橋的な役割を含んではいないかと、私には思えてならない。穿った思いだろうか。
  話しは変わるが、以前、主人の名の左に〝御令閏様〟(ごれいけいさま)と書かれたハガキを頂いた。身に余る宛名に少々照れたが今も手元にある。

  最後に、戦前・戦中・戦後を生きてきた私には〝令〟の持つ別の意味が強い。「招集令状」。この文字は未来永劫、絶対に使われてはならぬ。
  恒久の平和を強く祈って止まない。
  いろいろ考えさせられた旅の途中で生まれた「令和」。新元号に拍手を贈る。
                                    (平成31年4月3日記す)

 
  がんばって
   います
    元気です
 
 重要なのは知識より人間性
中国語を通し中日文化交流

           
洛陽から派遣    かく  しゅうしょう
                中国語の講師     郝  周紹 さん

日本料理を味わいたい
京都・東京にも行きたい 
  来岡は3月29日。「洛陽よりちょっと寒かったですが、予想通り環境は良いし、これまで中国で勉強してきた通りです」。
  岡山市と友好都市縁組を結んでいる洛陽市から、交流事業として、今春、岡山市立後楽館高校に中国語講師(外国語指導助手)として派遣されて来たばかり。新学期から教壇に立っている。

  洛陽では、2009年から洛陽師範学院で日本語教師を務めている。「外国語が好きで、日本について興味を持っていた」ことから、大学では日本語科を専門に選び、学んできた。
  「最初は難しかったですが、〝習うより慣れろ〟です」ときっぱり。日本文化では、文学とか映画、ドラマ、それに日本料理などに関心があったという。

  勉強熱心で、2015年には、奈良市で開かれた東アジアサマースクールに、自費で参加した。これが初来日。「奈良は長い歴史を持った都市ですし、遺跡の保存も良くやっています。勉強になりました」。

  洛陽では、大学生相手に中国語で日本語を教えているが、岡山では高校生に日本語で中国語を教える。かなり勝手は違うようだが、生徒には「中国語を教えながら、本当の中国のことや、中国人の日常生活を紹介し、文化交流に役立てていきたい」。
  教師として目指すのは「重要なのは、人間としての良い資質を育てることです。知識より人間性です。正直であること、やさしくあること、優れた伝統文化を理解することなどです」と強調する。

  1年間の任期中「一生懸命努力して仕事を十分やって、この派遣を良い体験として活かしたい。選んでくれたことに感謝しています」と、あくまで真面目。
  そして「チャンスがあればもう一度日本に来て、専門にしている文学についてもっと深く学びたい」と夢を膨らませる。

  洛陽に、病院勤務の夫人と今年9月小学校に入学する愛娘を残し、単身赴任で自炊生活。家族とは毎日連絡を取りあう。「日本料理を味わいたいし温泉とかへも行ってみたい。京都とか東京にも…」と意欲的だ。  バスケットの選手だったというスポーツマン。38歳。

 
活動日誌 
 3/18…理事会・懇親会
 3/22…青島市青少年卓球訪日団来日(瀬戸内日中友好卓球交流会主催)~28日
 3/24…中国語検定試験
 3/25…後楽館高校中国語講師・常丹丹さん帰国(岡山空港)
 3/29…後楽館高校中国語講師・郝周紹氏来岡(岡山空港)
 4/ 4…会報編集会議(協会)
 4/15…中国語センター初級会話クラス開講
 4/21…岡山市民訪問団出発~25日(洛陽、北京)
 4/26…「岡山と中国」会報発送(協会)
先憂後楽
  牡丹の開花時期になってきた。岡山市内の半田山植物園、古都・小鳥の森にある三徳園、そして新見市にある千屋牡丹園、これら全ての牡丹は洛陽から当協会を通じて導入されたものだ。

  きっかけは1988年に架橋記念で開催された瀬戸大橋博覧会にさかのぼる。これを記念するために何か良いアイデアはないかと当時の両備バス社長、松田基氏からご相談を受けた。博覧会場で開催される『洛陽の日』に合わせて、舞台に洛陽牡丹を咲かせて展示しては?と申し上げたら即座に快諾され、必要な資金1千万円の拠出を約束された。

  すぐに、洛陽市政府に連絡を取り、花木公司の応諾を得て、牡丹苗千本の輸入が決定した。花の輸出入と植物検疫に詳しいスタッフ、そして両備グループ青年重役会と当協会がチームを編成し牡丹苗輸入促進訪問団を洛陽に派遣した。現地での作業は困難を極めたが、友好第一の精神で日中合作の輸出手続きが終了した。

  無事に日本に到着したと安心したのもつかの間、コンテナに虫がいたことが判明し検疫でストップ。燻蒸処分にすると他の全ての苗も死んでしまう可能性がある。陳情を重ね、最小限にとどめてもらい、岡山までなんとか到着した。

  博覧会場ではワイン樽に植えられた牡丹が見事に咲き誇り、任務を完了した。その時のノウハウが、三徳園や千屋牡丹園への導入時に生きた。

  咲き誇る牡丹を見るにつけ、お世話になった松田氏はじめ、難波一進さん、国忠征美さん、そして洛陽花木公司の劉政安さんら日中友好のために汗を流した人々の顔が浮かぶ。  (松)



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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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