2021協会設立40周年へ
2019年10月
令和元年10月
  259号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平

没後60周年記念シンポジウム in 岡山
      内山完造と岡山
                 神奈川大学研究会と共同研究成果を報告 

  内山完造没後60周年記念「内山完造と岡山」シンポジウムが、10月26日、岡山市北区の西川アイプラザで開かれた。これは、生涯を日中友好に尽した井原市(芳井町)出身の内山完造の没後60周年を記念して、岡山市日中友好協会と神奈川大学(横浜市)内山完造研究会が共催で開いた。完造の果たした偉業を論じ顕彰すると共に、これからの日中友好活動を展望した。


中西寛治資料も新たに発掘
     

  会場には、日中友好運動関係者、内山完造研究者、顕彰活動関係者、それに郷土史研究者ら約80人が詰めかけた。
 また、関連する写真類や資料類もパネル展示されていた。中には親族の内山家から提供された未公開の写真も紹介されていた。参加者らが興味深そうに見入る姿もあった。

  シンポジウムに先立ち先ず岡山市日中友好協会の片山浩子会長が主催者として開会挨拶。神奈川大学教授で内山完造研究会の孫安石氏が、これまでの研究活動について経過を報告した。

  シンポジウムでは、先ず同大学人文学研究所の川崎真美研究員が「内山完造とゆかりの地」をテーマに調査報告。
  完造の親族になる内山書店(東京都)の内山籬会長が、完造関連の未公開アルバムについて報告した。この報告には、コメンテーターとして、佐藤明久氏(福山市日中友好協会会長)と井上浩氏(宇治市日中友好協会会長)も加わった。
  同大学名誉教授の大里浩秋氏は「内山完造と日中友好運動」について、研究成果を報告した。
  岡山側からは、当協会の松井三平専務理事が「中西寬治と岡山の日中友好運動」と題して報告した。中西寬治は戦後岡山に帰り、完造と共に日本での日中友好運動に取り組み、松井専務理事とも親交が深かった活動家。   今回、資料整理などを通じて新たに発見された中西関連の資料類などについて報告した。

  岡山大学前学長で同大学名誉教授の森田潔氏(上海交通大学客員教授)は「現在から未来に引き継ぐ内山完造と郭沫若」について報告した。
  森田氏は、上海での生活経験を踏まえて、現在の中国での完造の評価や、中国の人たちの受け止め方などについて、話した。
   
     川崎真美氏      孫 安石氏       内山 籬氏      大里浩秋氏
                        
      松井三平氏     森田 潔氏     井上 浩氏     佐藤明久氏











 【シンポジウムの詳しい内容等については、次号などで報告します】

中華人民共和国建国70周年
     大阪で記念祝賀会華やかに

挨拶する李天然駐大阪総領事

  中華人民共和国建国70周年記念祝賀会が、9月27日、大阪市のホテルニューオオタニ大阪で開催された。
  関西地区を中心に、西日本各地から行政、経済団体、日中友好団体、華僑華人団体等から約500人が駆けつけ盛大に行われた。

  冒頭、挨拶に立った中国駐大阪総領事館の李天然総領事は、まず、1949年10月1日、毛沢東主席が天安門楼上で高らかに「中華人民共和国成立了」と宣言して70年が経過したこと、そして、困難な時代から改革開放の時代を経て、経済的に世界のGDP第二位という発展を遂げてきたことを、具体的な数値をもって説明した。
  日中関係については、良い方向に向かっており、中日双方は、新しい時代に中日関係を発展させる責務があると強調。来年の習近平総書記の来日が実現するために努力していると述べた。

  その後、大阪府副知事、議会など各来賓の挨拶の後、滋賀県の三日月大造知事等のビデオメッセージが披露、また一帯一路に貢献のあった人々への表彰状授与などが行われ、和やかに懇談した。
  岡山からは、江田五月日中友好会館顧問を始め、県議会議長代理として小倉弘行副議長らが参加。当協会からは黒住昭子副会長、松井三平専務理事が参加した。
戻る このページのトップへ トップページへ

《2019・洛陽 日中韓民族音楽演奏会》
        日本は“さくら”の歌と踊りを披露


 伝統音楽の3カ国交流盛況
                   訪問団団長・協会副会長 黒 住 昭 子

  中国の中秋節に合わせて開催された「日中韓民族音楽演奏会」に参加するため、9月14日から3泊4日の日程で、伝統音楽の専門家の皆さんと洛陽市を訪問しました。
  今回の演奏会は、これまでも伝統音楽の交流を重ねてきている洛陽古琴学会の孫瑋珂会長の呼び掛けで実現したものです。日中韓三ヵ国での交流はこれで3回目となります。

  岡山からの演奏者は、尺八奏者の黒住素山さん、邦楽囃子奏者の望月太津友さん、日本舞踊家の花柳大日翠さん、琴奏者の佐藤美由樹さんの4人です。
  佐藤さんにはこれまで何度も洛陽市との音楽交流にご協力頂いていますが、他の3人の方々は初めての洛陽訪問でした。
  韓国からは、洛陽市の友好都市である忠清南道扶余郡の韓国芸術文化団体総連合会から演奏家等7人が参加していました。
   
 黒住素山さんの尺八  花柳大日翠さんの舞踊(右)と望月太津友さんの小鼓(中央)
 
 佐藤美由樹さんの琴  中国の演舞

  9月15日朝から演奏会の会場である洛陽テレビ局大ホールに詰め、リハーサルや打ち合わせを行い、午後3時からいよいよ本番。
  実はこの演奏会は、テレビ番組として洛陽中で放映するため収録していたので、地元の観客もたくさん集まり、舞台も華やかで、大いにムードを盛り上げていました。
  日中韓それぞれの演奏は独自の文化の特徴がよく表れ、非常に見応えがありました。
  日本側の演奏も、それぞれの分野を代表する高いレベルの皆さんが、日本の伝統音楽の存在感を存分に示して頂き、大変誇らしい思いでした。
  洛陽の多くの市民の皆さんもテレビで、素晴らしい日本の音楽や舞踊に存分に触れて頂いたことでしょう。

洛陽市歓迎会
  夜は参加者全員での食事会で、国や言葉を越えてお互いの演奏を称えあい、韓国は代表的な民謡「アリラン」を、日本は「さくら」の歌と踊りを披露し、心を通わせるひと時を楽しみました。
  この度、演奏家の皆さんに同行し、洛陽市との友好都市関係を軸として結ばれた日中韓の三都市の交流の意義を改めて感じさせられました。

  私たちは、平成26年の洛陽市芸術家訪日団との岡山・洛陽芸術家交流会や、昨年の洛陽市での河洛文化節中日韓民族音楽コンサート参加などを通じ、芸術家の皆さんや市民との交流を続けています。
  これからも岡山市日中友好協会として、さまざまな形で民間交流活動を促進し、相互理解を深めていきたいと思っています。

設立20周年記念講演会開催
            NHK記者招き県日中教育交流協議会 

講演する中村源太記者
  岡山県日中教育交流協議会(会長・岡本啓おかやま希望学園学園長)の設立20周年を記念した講演会が、8月10日、岡山市の県生涯学習センターで開かれた。

  講師はNHK報道局国際部の中村源太記者。「日本をとりまく国際情勢と日中青少年交流の意義」について、話した。
  当日は猛暑にもかかわらず、約70人が参加し、中村記者の話しを最後まで熱心に聴き入っていた。

  開会にあたり同協議会の岡本会長が挨拶。旭川荘名誉理事長の故江草安彦氏や森崎岩之助氏らが岡山上海便の就航を機に、岡山と中国の青少年交流を促進しようと県下各界の人々に呼びかけて1999年に設立された協議会の設立経過を紹介。
  現在、高校生交流を上海4年間、大連と6年間、そして本年上海との4年目の交流を継続していることを報告。20周年を迎えた協議会の活動に対し参加者の理解と協力を呼び掛けた。

  講師の中村記者は、岡山操山高等学校1年の時に、同協議会が2005年より開始した第一回日中青少年交流事業「STUDENT EXCHANGE IN 上海」に参加。
  その後、進学した東京学芸大学在学中に北京師範大学に留学し、中国語に磨きをかけるとともに、韓国語もマスターし、着実にステップアップし進路を切り開いていっている。

  今回は、NHK記者の立場で、現在担当している中国、朝鮮半島の取材状況を交え、分かり易く日本を取り巻く国際情勢と相互理解の大切さを訴えた。
  講演の合間には得意の韓国語や中国語の比較などを話し、聴講者の関心をひいた。
  参加者は「本当に分かり易い講演だった。是非、第二回目をやってもらいたい」と期待していた。

  講演内容の詳細については、岡山県日中教育交流協議会会報「悠久」の今秋号に掲載される予定です。希望者は事務局までお問合せください。 TEL(086)  225−5083
 
戻る このページのトップへ トップページへ

旧満州避難
     の記録
 こうりょうおおしま
浩良大島開拓団跡を訪ねて 〈上〉

 
戦後74年初めての慰霊
                       近現代史研究者 青木康嘉

  2019年7月29日、伊藤明子は浩良大島開拓団本部跡に立った。戦後74年、浩良大島開拓団関係者として、初めての慰霊であった。
開拓団跡で慰霊する伊藤明子(写真①)
  伊藤明子は、在団中亡くなった9人の名前を呼び掛け、花束をささげ、慰霊の言葉を語った。(写真①)
  笠岡市古城山公園の一角に、「開拓魂」という満州開拓殉難碑(昭和38年建立)がある。
  すぐ傍に「とこしえに 月日はてらせ くにのため 散りにし拓友のみたまいしふみ」の石碑が刻まれている。
  これは、伊藤明子の父親である原田満左右(はらだまさすけ)元浩良大島国民学校校長の作である。
  1942年(昭和17年)、妻の賀世は9歳の直彦、2歳の和彦を連れ、妊娠5か月の身重で渡満した。そして同年10月20日、現地で明子は誕生した。

  浩良大島開拓団の「分村」送出の経緯を紹介したい。
  1937年から、大島村議会で分村計画が議論され、2年後、大島村は「経済再生指定村」となった。
  笠岡・浅口地区は長年、土地と水の不足に悩まされてきた。本土と大島の御嶽山の間にある狭い土地がすべてで、大島住民の土地平均は4反2畝、多くが零細農家であった。
  特産物は除虫菊ぐらいで、麦稈真田で麦わら帽子を作る内職や、村の男たちは備中杜氏として広島県の酒蔵へ出稼ぎに行く家庭が多かった。

  1941年1月、横溝光暉岡山県知事を迎え、先遣隊の壮行式が行われた。村役場の助役である島村末治を団長とする先遣隊20名が三江省渾潤地区の原野に入植した。
  満拓公社から浩良河(こうりょうが)地区を紹介され、「浩良大島開拓団」を設置した。佳木斯(ジャムス)の西北に位置していた。湯旺河、浩良河、柳樹河、渾潤河の4本の河が交流する肥沃な土地であった。

  2019年7月29日、目の当たりにした浩良河駅及びその周辺商店街は、2~30年前にタイムスリップした中国の「未開放地区」のような街だった。
  松花江(スンガリ)に沿ってこの地区は発展していて、綏佳沿線は、経済発展からまだ取り残されている。
  浩良大島開拓団の面積は1万2千町(ヘクタール)あって、倉敷市の面積の3分の1にもなる。本部(本部役員)、第2部落(昭和18年入植組)、第3部洛(昭和19年入植組)、報国農場(昭和19年入植組)と4か所に入植した。

本部跡に今や集落なし
  私達が訪ねた浩良大島開拓団本部跡と思われる場所には、現在、集落はなかった。左右は林野で1本の道
浩良大島開拓団本部跡(写真②)
がどこまでも続いていた。(写真②)「本部跡」に近い場所で、この地で亡くなった9人の慰霊式を行った。
  第2集落跡地である北陽村(五七村)の公園で談笑している老人達に、この村の様子を聞いた。伊藤明子は「私は1943年、この地で生まれました」と自己紹介し交流した。

  次に、浩良大島開拓団の「分村」形成の様子を紹介する。
  湯旺河、渾濶河、柳樹河・浩良河と清らかな川が流れ、地味は肥え、無住の原野と山林が広がる大地が続く浩良大島開拓団用地であった。
  山にノロ鹿、猪、野に「満州雉」の群れ、河に鱒やナマズがいた。5月には春・夏・秋の花が一斉に咲いた。
  しかし、何もかも順風満帆に事が進んだ訳ではなかった。

  1941年、先遣隊20名が出発した。酒杜氏6名、井戸掘り技術者1名、大工2名、運転手、製材業、洋裁師、牧畜業など様々な分野の人が先遣隊に行ったが、終戦時まで在団した者は8名(40%)だった。
  島村団長ほか幹部4名、勤労奉仕隊、先遣隊補充員が相次いで入植し、同年暮には、本隊6名、女子視察団6名が入植した。しかし、同年入植した隊員37名中、22名が脱落した。
  原田満左右著『拓魂』にはその理由を次のように書いてある。
  「緊張の後のゆるみ、広い未開の天地に放り出された寂しさ、頼りなさはやがて集団ノイローゼ(屯墾病)に見舞われた」。

  1942年夏、浩良大島開拓団員4名(老人2名・幼児2名)が、よく澄んだ冷たい井戸水を飲んで「アメーバ赤痢」にかかり死亡した。冬になると「屯懇病(不適応障害)」にかかるものも続出し、分村は一時疲弊した。
  島村末治団長、原田満左右校長は、母村へ帰国し団員誘致運動をし、隣接市町村まで募集を広げた。
  この時点での在団者は38名だった。5月10日、浩良大島国民学校が開校した。生徒は10名でスタート。翌1943年から誘致運動が功を奏し、再び大量入植者が来て、分村が本格化した。
  金光出身の平野治太は『拓魂』に1943年から1944年の頃の農作物の出来具合について「営農あれこれ」を書いている。
  「北満でもお米は取れるのか、あの寒い北満に入植するまではこんな疑問を感じていた。日照時間の長い夏は北満でも相当に暑い。大陸では昼間はぐっと気温が上昇するため、積算温度は短期間でも相当なものになるから、早稲系の品種を播種して、極く短期間に収穫できた」。
  長い冬凍結した水では冷たすぎるので、水をせき止め、水路をくねらせ、水を温めていく工夫が必要だった。
豊穣の収穫と秋祭り(写真③当時)
浩良大島開拓団の水田一帯は稲も実って黄金の波をただよわせた。1943年と1944年の秋祭りは盛大に行なわれた。(写真③)。

  振り返ってみれば、この2年間が浩良大島開拓団にとって最良の時だったかもしれない。1945年になって入植してきた人もいた。
  『拓魂』の資料によると、敗戦時在満浩良大島国民学校の在籍者は40名、浩良大島開拓団の在団者は232名になっていた。
  内訳は、笠岡市125名、寄島町20名、里庄町24名、鴨方町29名、金光町15名、その他の地域19名である。
  ところが1945年7~8月にかけての「根こそぎ動員」により、浩良大島開拓団の男性59名が応召されて、開拓団には老人・女性・子どもだけが残った。

8月9日にソ連が参戦
  1945年8月9日、ソ連が参戦した。
  未明、佳木斯第10師団司令部付近に戦闘機から爆弾が投下された。ソ連国境から200キロほどしか離れていない浩良大島開拓団は大混乱になった。
  8月11日、原田満左右も召集された。同日、避難命令が出たが「籠城」で衆議一致した。13日、再び避難命令が出た。本部に残っていた団員約150名が集合し、倉庫から防寒具が支給され、全員に幾許かのお金も支給された。   =敬称略=
 以下次号に続く
 

戻る このページのトップへ トップページへ

◎ 上海市より2019年度 ◎
  『白玉蘭記念賞』
    小幡篤志氏(旭川荘)が受賞  「傑出した貢献に感謝する」 

受賞者のみなさんと(右端・小幡氏) 上海東方芸術センター前で
  旭川荘の日中・アジア医療福祉研修センター所長、小幡篤志氏(旭川荘企画広報室長)が、このほど、上海市人民政府から2019年度「白玉蘭記念賞」を授与された。

  同記念賞は、同人民政府が、友好交流活動の中で、特に功績のあった外国人を対象に贈っているもの。同年度には全58人が受賞、内日本人は6人だった。

  授与の理由は「上海の発展への多大なるご支持と友好交流の中で果たされた傑出した貢献
上海東方芸術センター前で
に感謝する」となっている。式は、9月12日、上海市の上海東方芸術センターで行なわれ、同市幹部から表彰状とメダルを授与された。

  小幡氏は、厚労省、岡山県を経て2011年旭川荘に入り、同年に初めて上海を訪問。以降、旭川荘と上海市の福祉交流の最前線にいた。

  旭川荘と上海市との交流は、古くは、同荘の創立者、川﨑祐宣氏の訪中を起源に、江草安彦氏(当時、旭川荘理事長)を中心に意欲的に続けられてきた。
  この長い交流の中で、江草氏も白玉蘭記念賞を受賞、上海市栄誉市民の称号も受けている。旭川荘で同記念賞を受けるのは3人目となる。

  小幡氏は「身の引き締まる思いです。苦労も無くは無かったので素直に嬉しい。これからも努力していきたい」と意欲的に話している。






岡崎嘉平太記念講演会
岡山大学記念館で開催
 

  岡山県郷土文化財団岡崎嘉平太記念館など主催の第18回講演会が、10月16日、岡山市の岡山大学創立五十周年記念館で開かれた。

  講師は、日中経済協会の前理事長、岡本巌氏と、成蹊大学法学部教授の井上正也氏。会場には、郷土史研究者や同財団関係者ら約100人が訪れ熱心に聞き入っていた。
  岡本氏は、米中が対立する世界情勢の中で、日本の立ち位置をどう考えたらよいかについて講演。
  「このような状況はしばらく続くだろう」とした上で、日中の国民感情や相互理解の改善に向けて「日本人はもっと中国に行き、お互いに理解し合うことが必要だろう」と指摘した。

  井上氏は、新資料や証言を基に「苦悩する岡崎嘉平太」の実像ついて話した。

岡崎嘉平太記念館
没後30周年記念行事

  岡崎嘉平太記念館(加賀郡吉備中央町吉川、きびプラザ)は、没後30周年を記念したイベントを開催している。
  メーンとなる企画展「日中国交正常化の礎―LT・MT貿易と岡崎嘉平太」は、きびプラザ1階の同記念館企画展示室で開かれている。
  会期は12月27日まで。入場無料。毎週火曜日休館。
  岡崎嘉平太ゆかりの地を巡る見学コースは、11月9日行われる。見学するのは、同町の大和山山頂に建てられている〝望郷の碑〟。
  同日は、岡山駅西口(午前8時30分)か記念館(同9時30分)に集合。学芸員が案内する。参加費300円。定員30人。
  問い合わせ・申し込みは同記念館(電話0866−56−9033)。
 
 加油!
 ファイト!
 
 北京外大に留学決定    わ こ  
   
二胡奏者 就実高3年  横田和子 さ ん

  「小学生のころ、押し入れにあった二胡を引っ張り出して触ったのが最初。本格的にやり出したのは中学3年生のころからかな」。
  二胡は、中国・天津に留学経験のある母親が持ち帰ったものだった。

  以後、二胡の魅力にとりつかれて、今は先生について特訓中。「最初の2ヵ月は〝ギーギー〟ばかりで悔しくて。コツがつかめるときれいな音が出始めて楽しくなりました」。
  現在の二胡は、焦げ茶色の〝老紅木〟製で梅の彫りがある。「使い込んでいくと手になじむし、味が出るのです。音に感情が出るのが好きなところです」。

  今回、卒業後の進路として、北京外国語大学(中文学部)留学を選んだ。3年目からの学部では、経済貿易コースを希望している。
  「発展する中国で学べるのです。向こうで就職してそれから帰ってきてもいい。本場で二胡も習いたいし」。

  既に大学も見学済みで、来春4月の入学に向けて期待は膨れるばかり。中国語も目下猛勉中。入学まで半年を切った。頑張れ!
 


会員消息 
【入会者】
  黒住 素山さん(岡山市)
活動日誌 
 8/10…県日中教育交流協議会20周年記念講演会‐中村源太NHK報道局記者(県生涯学習センター)
 8/31…井尻昭夫吉備学園理事長、旭日中綬章記念祝賀会(岡山プラザホテル)
 9/ 3…故中西寛治氏自宅訪問
 9/ 7…瀬戸内日中友好卓球交流会理事会(協会事務所)
 9/14…日中韓民族音楽演奏会訪中団7名、洛陽へ出発(~9/17帰国)
 9/19…協会理事会(事務所)
 9/24…NPO国際協力研究所・岡山、竹島潤副代表理事来局。
 9/27…中華人民共和国建国70周年記念祝賀会(ホテルニューオオタニ大阪)
 9/28…県日中教育交流協議会招聘「STUDENT EXCHANGE岡山」で上海第一中学生徒ら17名来日。
       岡山と大阪で高校生交流実施(10/2帰国)
10/11…山陽新聞社内山完造シンポジウム取材
10/21…内山完造シンポジウム展示用写真パネル到着
先憂後楽
  洛陽の知人から、これまで日中医療交流でお世話になってきた第五人民医院、中心医院、中医医院の3か所の院長が一斉に退職したというニュースが入ってきた。何かあったのか?と心配したが、そうではなく、時期が来たのだという。それは第二線に退く制度だ。

  中国の定年は男性が60歳、女性が55歳だが、定年になる2年から3年前に一線を引き第二線に行き、権限はそのままでポストは後進に譲るという制度で、公務員と国有企業の幹部に適用されている。人口が多いからという国情はあると思うが、年配者がいつまでも地位にしがみつかず、若い優秀な人材に挑戦させる制度は素晴らしい。

  一方、日本では60歳過ぎても雇用延長で65歳定年が普通となり、75歳まで働いてもらおうという案もある。人口減少で労働者が少なくなり、高齢者や外国人労働者に頼らざるを得ない日本の実情がある。中国からの観光客が驚くのは、バスやタクシーのドライバーに高齢者が多いことだ。「大丈夫ですか?」と聞かれて「経験があるので大丈夫ですよ」と答えている。

  NHKの番組で総廃業時代という特別番組があった。後継者がいなくて企業が大量に廃業する時代が来ているという。余裕のある段階で、経営者自らがM&Aか廃業を決断すべきだという警鐘だった。

  外国人観光客が増加することも大切だが、産業、学校、介護などに受け入れ、定住して地域の一員として共生していく社会の受け入れ態勢、仕組みづくりが問われている。                          (松)



「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


戻る   このページのトップへ トップページへ