設立40周年
2021年8月
令和3年8月
  270号

発行人 土井章弘
編集人 松井三平

 会長ご挨拶
新時代に向けて友好活動を更に積極的に
                         岡山市日中友好協会 会長 土 井 章 弘        

  1947年12月、上海から東京に引き上げてきた内山完造氏が、前年4月に小田郡矢掛町に引き上げていた中西寛治氏に連絡して、岡山で日本中国友好協会の支部を作るように要請されました。
  そして1949年に日本中国友好協会岡山県支部が創立され、事務局長に中西寛治氏が就任されました。そのような源流を継承して1981年(昭和56年)9月12日、岡山市日中友好協会が設立され、「市民みんなで日中友好!」の幕開けとなりました。

  初代、赤木五郎会長が高らかに発した総会宣言にはこうあります。
  「日中平和友好条約によって結ばれた両国の友好と連帯は、今やアジアと世界平和のために欠くことのできない要素となっています。わが協会は、引き続き日中両国民の友好の架け橋として、文化・人事の各方面において、積極的に交流を推し進め、相互理解と信頼を増進させ、永遠の日中友好のために尽力する所存です」。
  この崇高な設立の趣旨を活動の原点として今後も堅持して参りたいと思います。

  さて、2019年12月に始まった、新型コロナウイルス感染症の世界的流行のために、日中相互訪問も途絶えていますが、このような中でも、協会はオンラインを活用して、中学生同士のリモート交流やベネッセホールディングス名誉顧問、福武總一郎氏による「アートによる過疎地域の再生」講演会を開催、更に、岡山市の長泉寺と洛陽市の白馬寺をオンライン結んでの「雲上に響け!日中友好の鐘の音」など意欲的な交流を企画し実施して参りました。

 この40年間、岡山市日中友好協会は、岡山と中国の間で、市民の相互訪問、中国語講座、黄河流域の緑化活動、自然災害への相互支援活動、仏教交流、留学生支援、文化芸術交流、医療、福祉交流など、様々な分野での民間交流を通じて、日中両国民の相互理解と友好を深める努力をして参りました。
  また、中国残留孤児支援活動については、設立当初より積極的に取組み、講演会の開催や開拓団の足跡を訪ねる訪問団協力、山陽新聞社連載記事や関西テレビのドキュメンタリー制作協力など、忘れてはならない負の歴史を伝え、平和の大切さを伝承していく活動も展開して参りました。

  戦争を知らない世代に移ってきている今日、時代を担う若い人たちが友好協会に参加し、先人の築いてきた「日中友好の志」を受け継いでくれることを切に願っています。
  そして、コロナ感染症の終焉の暁には、新しい時代に向けての友好活動を更に積極的に進めて参りましよう!
40周年記念インタビュー   
   ANA
  ホールディングス㈱
  相談役
 大橋洋治
 我が岡山を愛する故のメッセージ 
《日中交流の実際と将来を語る》

  中国対応は〝戦略的互恵関係〟で 
 
  岡山市日中友好協会は、設立40周年を記念した特別インタビューを行なった。ご登場頂いたのは、岡山県出身で、ANAホールディングス㈱相談役、大橋洋治氏である。

「中国はいずれ世界一の
経済大国になる」−。
(東京・汐留シティセンターで)
 

◇大橋さんは旧満州のご出身で、お生まれの佳木斯や大連では名誉市民。最近の交流は。
―この2年間くらいコロナ禍で飛行機が飛べませんし行けていません。大連では大連マラソンとかアカシア祭りなどがあり、大歓迎してくれて、活発に交流しています。

  私は1940年の佳木斯生まれで、戦後の逃避行を経て1946年11月に引き揚げてきているのです。その当時、中国の人にはいろいろとご面倒をかけ、助けてもらった記憶が多いのです。
  全日空の〝育ての親〟とでも呼ぶべき岡崎嘉平太さん(元社長)との縁が出来たのも中国関係からです。中国とは大変ご縁があるのです。

◇ところが最近の中国はというと「中国はもはや、岡崎さんや、私の知っている中国ではないようだ。〝新しい中国〟になろうとしている」(日本経済新聞)と分析されていましたが。
― 新しい中国と言うと一帯一路のことをよく言いますが、私は一帯〝一路〟には反対で一帯〝全路〟つまり、全ての路に通じるものをつくらないといけないと主張しているのです。一路に〝空〟がないのもおかしい。

  今から10年くらい前、年10回くらいは中国に行っていました。行くと中国の人達と勉強会をするのです。すると中国の人は「我々は裕福ではないから、いろんな事を学んでいるのだ」という言い方をしていました。要人にしても「まだ後進国ですから…」と、そんな印象でした。
  ところが最近、5、6年前からは違います。過剰なほどの自信を感じさせられます。昔はそんな人はいませんでした。

  中国がそんな雰囲気になるのも、分からないでもないですよ。以前、私がアメリカのシンクタンク・ハドソン研究所の理事をしていたころ、その研究所のピルズベリー氏が、はっきりと、中国は建国100周年の2049年までに軍事・経済面で世界一となる戦略を立てている、と指摘しています。

 強硬な対中一辺倒  最善の策にあらず
  これは中国が言い始めたことではないのですが、最近中国も明確にそう言うようになってきている。そして、現実にそのような状況に向いてきているように思えます。

◇その中での米国の中国包囲網、中国の強権的指導体制に対して、日本の果たすべき役割、日本の立ち位置はどうなるのでしょう。
中国はいずれ世界一の経済大国になるでしょう。そんな中で、日本が米国と完全に同じ調子で、強硬な対中姿勢一辺倒であるのは、国益を考える上でも最善の策とは思えません。この態度は一種の〝思考停止〟状態です。
  日本にとって中国は一衣帯水の隣国同士です。
  戦略的互恵関係を構築して、互恵関係を維持することが重要となる。それを実践できるだけの外交力がこれからの日本の外交には必要なのです。

            岡山が日中交流をリードするんだ、との立場で
        我が愛する岡山はもっと元気を出して頑張って


おおはし・ようじ 氏
1940年、佳木斯生まれ    
戦後、高梁に引き揚げ。    
 慶應義塾大学卒後全日空入社。
社長、会長を経て現在相談役。
  経団連副会長も歴任。    
  
 
 嘉平太氏偉大な人 〝遺言〟も託された
◇岡崎嘉平太さんのこと。遺言のこと。
― 岡崎嘉平太さんは偉大な人でした。最初にお会いしたのは大学時代です。慶應義塾大学では、後に塾長となられる石川忠雄先生のゼミに入らせてもらって、中国共産党史などについて勉強しました。

  この間、何かの資料を探している中で、おやじから全日空の社長だった岡崎さんを紹介されたのです。学生の身で押しかけて行ったのですが、岡崎さんは非常に丁寧でした。それで全日空に良い印象を持ったのが始まりです。

  それで入社試験を受け、石川先生からは「珍しい事もあるね。全日空に入るなんて聞いたこともない」と言われながら〝岡崎全日空〟に入社したのです。

  会社に入ってみると、岡崎さんは非常に怖い人なんです。周りの人はものを言えないような雰囲気でしたが、それでも話はちゃんと聞いてくれました。
  岡崎さんはやっぱり中国しか頭にないのですよ。お亡くなりになる1ヵ月くらい前にお会いした時、わざわざ私を呼ばれて「全日空はアジアのために仕事をしてください」と言われました。

  私も「そうだな」と思っていましたが、その場では「ハイハイ」と聞き流しました。そしたら1ヵ月後くらいに亡くなられた。
  思い起こすと、非常に重い言葉です。岡崎さんの遺言ですよ。こんな人でした。

 方谷精神〝至誠惻怛〟  岡山人は冷たい…
◇故郷岡山への思いを。
― たくさんあります。中でも高梁が生んだ陽明学者・山田方谷の教えもその一つです。これには非常に思い出があります。
  方谷は幕末期、財政破綻寸前の備中松山藩の財政再建を実行するのですが、その精神は「至誠惻怛(しせいそくだつ)」つまり、真心と慈愛の精神なのです。
  方谷は素晴らしい人間です。そこで、NHKの大河ドラマに取り上げてもらおうと100万人署名活動を始めたのです。すると本当に100万人集まったのでNHKに提出しました。

  今でも一生懸命宣伝して回っています。大河ドラマ化が決ったら、もう死んでもいいくらいです。それなのに岡山の人は、案外、方谷に対して冷たい。確かに方谷をドラマにするには〝女気〟がないからかね…。

 空のシルクロード  ぜひとも創りたい
◇岡山県の皆さんへ、故郷へのメッセージ。
― 岡山には昔、吉備真備の様な人間がいたのです。それを引き継ぐ様な人が出て来て欲しい。そして日中の友好を更に育んで行くことが大切です。
  そういうことをもっと元気にやって頂けないか。東京から見ると日本列島の西に行くほど元気がない。経済も全部そう。私の愛する岡山には、西日本の中心で日本全体を盛り上げるよう、もっともっと元気を出して頑張ってやって欲しい。

◇大橋さんご自身の将来への夢、展望を。
―A NAで〝空のシルクロード〟を創ろうという構想があるのです。想いとしては深いものを心に秘めています。一帯一路と言うけれど、これには〝空〟がない。「一衣帯水」の日中関係を大事にしながら、一帯一路に、「みんなの空」が加わり、中国、中東からヨーロッパ、そして宇宙へと「一帯一路全空」の「空のシルクロード」を創りたいと夢みています。

吉備真備、山田方谷  偉人に続け岡山の人
◇民間友好団体の果たすべき役割と岡山市日中友好協会へのご提言。
― いっぱいあるのですが、その一つが例えば山田方谷。昔、こんな偉い人がいたんだよということを、中国の人にも伝えて欲しい。それを分かってもらえれば、中国もそんなに日本を侮ったりしませんよ。
  民間交流として中国と一番付き合いのあるのは岡山だと思っています。古くは遣唐使で行った吉備真備、最近では中国から留学生としてやって来た郭沫若さんもいる。郭さんは後楽園に鶴を贈ってくれた。

  こうした交流は、地域に根ざした草の根運動です。このような運動を起こし続けて行かなければなりません。     岡山が日中交流をリードするとの立場で継続してやって欲しい。是非ともこれをお願いしたいと思います。

         方谷の大河ドラマ化、決まったら悔い無し…

◇アーカイブ
岡崎嘉平太氏と 全日空と訪中団
  1988年(昭和63年)3月14日、新岡山空港の開港後初となる全日空国際チャーター便「日中友好岡山県民の翼」が中国に飛んだ。
  岡山市日中友好協会と両備バスが企画し、北京、洛陽、上海を訪れた。訪問団長は、岡崎嘉平太氏、総勢  102人、記念すべき訪中団だった。
1988年3月16日 洛陽空港での記念撮影

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 40年間の交流継続 大変誇りに思う
                                相談役・前会長 片山浩子 

  岡山市日中友好協会が40周年を迎えました。1981年9月、初代会長赤木五郎氏が「市民みんなで日中友好」と総会宣言をされて協会活動の第一歩を踏み出して40年。
  会長も今や6代目、なんと多くの方々が協会を支え、活躍し、なんと多くの交流の行事や事業を実行してきたことでしょう。
  こんなに真面目に立派に日中友好に取り組んでいる協会は日本中を探してもそうはないと思います。40周年おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。

  岡山市が洛陽市と友好都市として提携されたのも同じ年で、協会は岡山市のもと洛陽市とのご縁を深め、民間交流を推進してきました。
  官と民が手を携えて40年間も交流事業を継続できましたことを大変誇りに思っております。

  私は協会設立の30周年の年、2011年から2020年までの9年間第5代会長を務めさせていただきました。    思い出に残っていることはいろいろあります。2007年から洛陽市人民対外友好協会と協会が共同で始めた洛陽小浪底緑化協力事業は2008年日中緑化交流基金(通称小渕基金)からの助成を受けて12年間続きました。   毎年4月洛陽市政府から牡丹祭りへの招待を受け、市民訪問団を結成して訪問してきましたが、その時、訪問団全員で孟津県小浪底を訪れ農村の方々と一緒に植樹を行ってきました。

  医療交流、教育交流、芸術交流、仏教交流など多方面にわたり活発な交流を実施してきました。
  洛陽市ばかりでなく、上海市、天津市、江蘇省、北京市も人民対外友好協会を通じて訪問し友好を深め、友好協定を締結しました。
  一方、会員の高齢化が進んできましたので、若い方々に活躍していただきたく青年部を立ち上げました。今後大いに期待するところです。

  昨年からは予想もしなかった新型コロナウイルス感染症のため外国との行き来が途絶えてしまいました。
  中国との交流もオンラインでやり取りをせざるを得ませんが、知恵と工夫で交流を絶やすことなく続けてくださるよう願っております。

  この40年間は、今や世界第1位の経済大国にもなろうとする中国の発展ぶりを見続けた年月でもあったように思います。
  そしてまた今は、政治的には難しい関係にもなっていますが、こんな時こそ民間交流を促進しお互いを知る機会をたくさん作って、両国を理解する若者を育て、世界の平和に貢献出来ますよう、継続を力に、これからも会長をはじめ会員の皆様が力を合わせてますます発展されますことを期待しております。

 涙で始まった交流 だから今も続く
                                副会長 宮本光研 

  1980年当時は、岡山県仏教会の華山恵光会長が、日中交流を目的に岡山県日中仏教文化交流会をつくられ、その事務局長だったころです。
  中国ではあの文化大革命の嵐が収まり、途絶していた日中交流がやっと出来るようになり、翌年早速第1回訪中団を出したのです。

  華山さんや私たちにとっては正に〝春が来た〟で、洛陽では古刹・白馬寺を訪問、和尚と初めて交流しました。お互い手を取り合って「よく来てくれた…」。涙、涙で言葉が続かない。和尚は一切モノ言わずの「他言無用行」で動乱を乗り越えたそうです。

  ここから岡山市日中友好協会との交流も始まり、今も続いているのです。先人の想いと努力の結果です。
  世代交代は必然です。重要なのは、この歴史を共有することです。それには、中国との往来を活発化することです。若い世代の人達にもどんどん往来して欲しいですね。
  交流は、私たちも〝ゼロ〟から始めたのですから。

 本音のお付き合い 理屈だけじゃダメ
                                永年会員 大道寺正子 

  私が中国とご縁が出来たのは、今から38年前、会社(両備バス)でガイドの研修業務を担当していた42歳のころでした。
  当時の両備バス、松田基社長から相談を受けて、中国のガイドさんや旅行社の皆さんに、ガイド業務の研修をしてあげることになったのです。

  日本流と言いますか〝両備流〟の案内の仕方、おもてなしの方法などについて、中国の方々に研修しました。北京から洛陽、内モンゴルまで各地に毎年くらい行きました。
  その時、教えた人達が、よく岡山まで尋ねて来てくれます。お付き合いは、そろそろお子さんやお孫さんの時代に入っています。
  本音のお付き合いが出来たからでしょうね。こちらも包み隠さずお話しします。

  岡山市日中友好協会とは、その当時からのご縁です。40年、良くやって来られましたね。中国は、行ってみて分かるのですが、良い意味悪い意味、両面から〝何でもあり〟の国です。  若い人達には、周りをよく見て、現場を知ることをお勧めします。これからも交流が楽しみです。

 洛陽大学に初留学 40年あっと言う間
                                第1号派遣留学生 笹野佳子 

  私は1985年、岡山市日中友好協会派遣留学生の第1号として洛陽市の洛陽大学へ留学しました。これが交流のきっかけです。
  帰国後は、協会事務局員として、映画上映会や日中青年キャンプなどの活動に従事しました。40周年と言いますが、本当にあっという間のような気がします。

  速かったですがこの間、中国も変わりましたね。最近では2009年に仕事で中国に行ったきり行っていませんが、経済的にも豊かになり昔のイメージとは全然違います。
  昔のように〝して差し上げる交流〟は成り立ちません。対等の交流になるでしょうね。

  また、中国の悪い面ばかりが目立つようですが、良い面を伝えていく交流が必要でしょう。医療交流とか高校生交流などは良いのでは。後継者も育てて。頑張ってください。

 
 前向きに明るく お互いに頑張ろう
                                AMDAグループ代表 菅波 茂

  私が皆さんの岡山市日中友好協会と係わるようになったのは、1985年に皆さんと岡山大学医学部アジア伝統医学研究会が共催して開催した東洋医学研究講座がきっかけでした。
  このアジア伝統医学研究会が現在のAMDAの前身です。

  これまでの活動を通じて感じたのは、中国の人と親しくなるためには、家族同様のお付き合いが必要だと言うことです。
  ホテルにお泊めするのも結構なのですが、直接自宅に招いて泊まって頂くことや、不幸があった時には葬儀に必ず参列してあげるすること、そのようなお付き合いこそ必要だと思う。
  AMDAもそのようなお付き合いを積み重ねて30ケ国以上に信頼できるネットワークを作ってきたのです。

  これからの夢と言われると、長寿医学研究所というクリニックを創りたいと思っています。私はインドのアユルベーダー、中国の漢方医学という伝統医学、そして現代医学を学んで来ました。
  これらを駆使して長寿社会に貢献したいと考えています。大切なのは前向きに、明るく、楽しく生きること。古い事にこだわってばかりいてはいけません。
  お互い頑張りましょう。

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 江田五月氏逝去
        設立時から参与とし活躍

  参議院議長や法務大臣などを歴任、当協会にも多大なご支援を頂いてきた江田五月氏が、7月28日、逝去されました。80歳でした。謹んでお悔やみ申し上げます。

  葬儀は同31日、近親者のみで行なわれ、後日、お別れの会が予定されています。

  江田氏は裁判官の出身で、実父の三郎氏の死去を受け、当時の社民連から参院議員に初当選、細川連立政権や民主党菅政権などで活躍。

  岡山市日中友好協会には、設立時から参与に就任、活動にご協力頂きました。

 
会員消息 
 【入会者】
  赤田 博之氏(笠岡市)
  渡邉 嘉朗氏(岡山市)
活動日誌  
 7/12…松井専務理事、北京卓越假期旅行社のオンライン番組に出演。
       岡山県の経済、医療等を紹介。約千人が視聴
 7/20…日中友好会館の来年度緑化事業説明会にオンライン参加
 7/21…40周年祝賀会案内状発送作業(事務局)
 7/23…日中友好バトミントン大会開催(協会青年部主催。岡山ふれあいセンター)
 7/28…江田五月元参議院議長、協会参与ご逝去(享年80歳)
 8/ 5…全日空相談役、大橋洋治氏インタビュー(東京・汐留シティセンター)
 8/11…会報バックナンバーPDF最終調整協議(山本理事、事務局)
先憂後楽
  協会の40周年事業は最終コーナーを回り、ゴールに近づいた。3年前から準備していたはずが、なかなか構想通りには進まなかった。とりわけ新型コロナの感染拡大という大きな災害もあり、実現できなかったこと、修正を余儀無くされたことが多い。その中で、神奈川大学の協力を得て内山完造、中西寛治資料など協会に眠っていた貴重な資料整理の端緒が付けたことは大きな成果だった。

  これらの資料が語る岡山の友好の歴史は私たちに引き継がれた。そしてそれは又後世に伝えていくべき任務も課せられたことを意味する。

  1956年の岡山県学術視察訪問団に参加した先人が後楽園の鶴をはじめ、様々な友好モニュメントを作り、岡山での友好の種をまいた。そしてその人々が再建呼びかけ人となって今日の岡山市日中友好協会を設立し40年が経過した。

  「四十にして惑わず」と孔子が2500年ほど前に説いている。協会40年の営みを振り返る時、一つだけ確信をもって言えることは「市民みんなで日中友好を」という設立精神が正しかったという事だ。「不惑」の精神でこれからもこの理念を会員の皆様と共有していきたい。そしてこれから50年に向かって前進しよう。「五十にして天命を知る」領域に達するように。   (松井三平)



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