1999年11月
平成11年11月号
  129号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
日中子ども達が伝える 洛陽と岡山・小学生の写真展 11月21日~23日・コンベックス岡山
 岡山市日中友好協会主催の洛陽・岡山小学生の写真展は11月21日から3日間、コンベックス岡山で開催される。

 展示される写真は四つ切りで200枚。洛陽は申窪村小、岡山は綾南小、どちらからも100枚が並ぶ。小学生の写真展だけでも珍しいのに、中国からも出品されるとあって話題になっている。恐らく日本で初めての催事である。

 この計画は青少年の交流をどうするかを協会役員会で検討中に発案された。子供が果して興味を寄せるか心配があったが、子供は大喜びと快諾を得、実行に移された。

 案とは、子供が写した生活風景を集め、岡山と洛陽で展覧会を開く。特にカメラを持たない申窪小に配慮して、レンズ付フィルムを50台ずつ両校に配る。それを使用後は協会に送り返し岡山で現像、焼き付けをするというもの。

 春先に届けたカメラは秋になって帰り、この程膨大な数のネガの中から傑作を選んだ。それが展示されている。

 申窪校の子供は動物が好きらしい。山羊やら牛やらアヒルがよく写っている。岡山から資金を贈って建てた新校舎が嬉しいのか、4分の1の数を新校舎の写真が占めている。ヤオトンも登場する。子供の夢が写真一杯に表現されている。

 一方、綾南小の作品もやはり学校での暮らしぶりが多かった。テーマを学校がしぼって示したので、テーマに沿ったものが目立つ。中でも「私の宝物」というテーマには、今日の子供の気持ちがよく出ていたと思われる。また学校の近くの田圃で今年から稲を育てたので、それが興味を引いたか稲田のものにも面白い作品があった。

台湾大地震義援金 県外・県内各地から続々集まる
 温かいお志 ありがとうございます。
 11月4日現在 429,030円

 寄付者ご芳名はHP上では略させていただきます。

 
新中国建国50年記念文化講演会②         元 駐日中国大使館公使 丁 民 さん
 岡崎先生が中国に来られた時には、私は毎回お供をしていた。日中国交が回復した1972年の10月に、周恩来首相の招待で行われた覚書貿易事務所職員一同の長江下りと桂林の旅に同行した時、私は岡崎先生に中国には「設身處地」という言葉(相手の身になって考える)がありますよと紹介したら、岡崎先生はこの言葉が大変気に入った様子だった。30人にものぼる日中双方事務職員の招待旅行は、国交回復を準備するために努力した人々への、周恩来首相のねぎらいの心から出たものであった。次にお会いした時、岡崎先生は「人に会って色紙に何か書いてくれと頼まれたら"設身處地"と書いているよ」とおっしゃった。

設身處地
 岡崎先生も周恩来首相も、この言葉通りのことを実行している。国交回復直前頃、日本の業者が中国にゴルフ場を建設する計画を立てた時、中国の事情をよく知っている岡崎先生は断固反対された。「今はまだ早い。もう少し経って中国人がゴルフができるようになってからならよい。日本人だけがゴルフをするのはよくない」とおっしゃった。周・岡崎の関係は、肝胆相照らす仲とよく言われているが、その通りだった。2人の間では、多くの言葉を必要としなかった。周恩来首相は岡崎先生の功績を高く評価していたが、言葉で誉め称えるのではなく行動で示している。

肝胆相照
 中日友好協会の孫平化会長が、上海バレー団を率いて訪日し、田中首相、大平外相と国交回復の最後の詰めをしての帰り、2台のチャーター機を使って帰れという指示を周恩来首相が出した。そして、1台は日本航空、あと1台は全日空でとわざわざ指定した。これは、周恩来首相の岡崎全日空社長への思いやりであった。私はその場に居合わせたので周首相の気持ちがよく分かった。

飲水不忘掘井人
 また、国交正常化の際に、日本側代表団は政府の代表と役人だけで組織して、国交回復に尽力した覚書事務所の関係者は全然考えに入れていなかった。代表団の名簿に入っていないのを知った周恩来首相は、国交回復の日を北京で迎えられるように岡崎先生を初め産業界や友好人士の招待を外交部に命じた。"水を飲む時には、井戸を掘った人のことを忘れない"の言葉を行動で表したものである。周恩来首相は岡崎先生に毎年中国へ来てくれと言った。先生は毎年中国に来られた。晩年になってから、経団連の土光敏夫会長と一緒に訪中された。2人は新中国の建設に役立つ多くの提言をしてくれた。

 話が前後するが、日中国交回復の前に、アメリカは中国と内々に接触を持っていた。中米国交回復について、ワルシャワやシリアやパキスタンで秘密裡に話し合っていた。キッシンジャー特使は秘密の洩れるのを恐れ、話し合いの進み具合を決して外に言ってはいけない、特に日本人は秘密保護ができないから気を付けるように言った。結局、ニクソン大統領中国訪問の発表30分前に、アメリカは日本に伝えた。

 ところが、周恩来首相は岡崎先生との会見の時、挨拶の中で、「日本はアメリカより遅れないようにした方がいいですよ」と突然言った。中米国交正常化の話し合いが進んでいることを暗に日本に教えた。岡崎先生は周恩来首相の気持ちをすぐ理解した。肝胆相照らす2人の仲がよく表れている。
(文責・岡本/次号へ続く)

刀勢画・宮田雅之 ―芸術記念庁を訪ねて―                  協会理事 洞 富美男
 五百数十年前、郷土の画聖「雪舟」は北京にあった。求めに応じて宮殿試院中堂の壁面に黒龍を描いたと記録が有る。本場中国でもそれも宮殿礼部で筆をとるわけで、さぞや緊張したであろうと考えるのは我ら凡人である。彼は居並ぶ貴族百官の前に進み出て、凛と張り詰めた空気の中でおおきく息を吸い込み、一点を見つめて一気に筆をおこしたに違いない。彼の筆が進むにつれて宮殿内には、溜め息とも感嘆ともつかぬどよめきが高い天井に響いたであろう、と、私は夢想しながら上海図書館の高い天井に響く音楽隊の演奏で始まった宮田雅之芸術記念庁の開幕式に参加していた。

 この上海図書館は中国の現代化を象徴する斬新な建物である。その上海図書館に日本人の切り絵作家宮田雅之の常設コーナーが10月15日に開幕した。宮田雅之といえば国連公認画家であるが、谷崎潤一郎作品の挿画、近くはNHKの「花の乱」のタイトル画で広く知られそのファンも多い。一方氏は近代中国古典に強くひかれ新境地を開いたと言われていた。残念な事に97年正月、上海での筑紫哲也のテレビ番組収録語の帰国途中帰らぬ人となった。

 そもそも切り絵は中国の民間工芸で日本にも伝来している。しかしながらそれらは素朴な手工芸の域であった。それを芸術の域に昇華させた氏の研究と努力には敬服する。そしてこの宮田芸術には歴史・文化・哲学を深く探求し、その『意』に基づいて表現するという、中国芸術の表現手法をとっておられる。それはまさに技の世界をはるかに超え『刀勢画』の名に相応しい新芸術である。

 中国で生まれた文化に、日本人が新たな命を吹き込み、また中国に帰り多くの中国人に刺激と感動を与える。文化交流の原点と意義はここに有るのではないだろうか。経済交流には「力」の関係による衝突の危険性を常に含んでいる。文化の交流には力ではなく「心」の交流が有り平和が有る。その意味で今回の宮田雅之芸術庁は、日中の文化交流新時代の記念碑ともいえる。正面に展示された開眼の鑑真和尚の作品がすべてを見据えているようだった。是非一度は訪れたい上海の新名所である。

悲劇の青春を訪ねる旅③ 満蒙開拓青少年義勇軍殉難者祈念 
                                  岡山県立総社高校教諭 青木 康嘉
桃山雪松中学校との交流
 校門を入ると、男子生徒が赤色や青色や黄色や桃色の旗を立てて、アーチを作ってくれていた。その歓迎ぶりにまず驚いた。バスが、校舎前に到着して降りると、女生徒のブラスバンドが、我々を暖かく迎えてくれた。「歓迎日本客人光臨我校」と、赤地に白抜きの横断幕が目につく。

 今回の「旅」を提案したのは、2年前の秋だった。元村上中隊の隊員で構成する「九六会」では、20年前から行こうという話しが出たまま実現していなかった。私の誘い水が、後押しして実現した。しかし、私は一つだけ条件を付けた。それは、仲間内の慰霊だけではいけませんよ、村上中隊の元隊員を中心に募金をし、21世紀を生きる中国の子供たちのために教育基金を寄付し、将来の日中友好に繋がる旅にしないと意味がありませんよ、と言った。

 応接室に案内された。熱いお茶に西瓜、スモモ、バナナまで卓上にあった。校長、桃山学区の教育長いずれも40歳前後の女性であった。ポニーテールのかわいい少女が寄付に対するお礼の挨拶をしてくれた。

 尊敬している日本の皆様、雪松中学校の視察は、日中友好のために良いことです。学校を代表して心より歓迎いたします。我が雪松中学校は、発展中で財政的余力があまりありません。((中略)日本の皆さん、あなたたちが我が校に寄付してくれた教育基金は、お金だけでは計れない援助だと思っています。我が雪松中学校生徒は、21世紀に向かって、一生懸命勉強して国際社会の競争の中で、勝つよう努力したいです。生徒を代表しまして心からお礼を申し上げます。日中友好がさらに発展することを願っています。

 その後、生徒たちにバレーボールとサッカーボールを手渡した。夏休みであるのに、多くの生徒が参加してくれて、バスが見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。

 今回、寄付金は、約50万円集まった。その大半は村上中隊の元隊員やご遺族が、参加できないけど、ご供養にといって渡されたものだ。約50万円のお金には、その熱い思いが詰まっているのだ。その6割を2つの中学校に教育基金として寄付した。元隊員やご遺族は理解してくれると確信している。

 参加者14人全員、すがすがしい思いで、学校を後にした。

大茄子訓練所
 勃利大訓練所から、さらに約十数キロ離れた所に、大茄子訓練所がある。勃利大訓練所から行軍で、約2時間以上かかった。

 赤煉瓦の塀の中に入った。そこは養豚所であった。日本人が作った井戸が残っている。

 「これは、戦時中日本人が飛び込んだ井戸だ。私たちは引き揚げて毎年弔っている。」管理人であるお婆さんが説明した。

 大主上房開拓団の女性達が、昭和20年8月16日逃避行中、ソ連軍の攻撃を受けて捕まった。誰もいなくなった大茄子訓練所跡に、女性たちは収容された。その夜、マッチをすって女性を求めてきた。女性は、子供の首を絞め近くに埋葬した。そして、井戸に次々飛び込んだ。また、首をくくった。33名の犠牲者がでた。この話は、3年前の『悲劇の大地』で紹介した。

 「ここは、山形中隊のあたりだ。岡山の第二大隊第四中隊、村上中隊はもう少し西へ1キロぐらい行った所だ。」
 「どうしてそれが分かるんですか。」
 「あの向こうに山があるだろう。あの山で、わしらは薪を取りに行っていた。あの山の位置関係からして分かる。」

 結局、大茄子訓練所跡が分かるものが何もないので、この井戸のある場所で元隊員の慰霊をした。

 昭和19年5月下旬、村上中隊は大茄子訓練所に入所した。満蒙開拓青少年義勇軍は、3年間の訓練後、義勇隊開拓団へと移行する。

 夢を駆り立て、土の戦士として囃し立て、送り込んだ先で待っているものは、発疹チフスやアメーバ赤痢、凍傷、皮膚病、栄養失調、ホームシックであった。

 米30%、大豆20%、高梁50%が混ざり合ったご飯に、ジャガイモかキャベツの味噌汁だった。日曜日や祝日には汁粉や炊き込みご飯が出た。しかし、15~16歳の少年には常に空腹感に襲われた訓練所生活であった。

 大茄子訓練所の最初の犠牲者が、坂口知君(山陽町出身)だった。昭和19年8月に発疹チフスから下痢、衰弱で死亡した。

 「サカグチサトシゴシソクイク」と電報を打ったら、「どこへ行ったんですか」と返電があったと言う。中隊葬をした。8人兄弟の次男。この度、弟さんと妹さんが「供養してください」と寄付をもってこられた。

 池上健一さんは、ホームシックから下痢で死亡した。大茄子訓練所で1年間に16名の方が死亡した。冥福を祈った。

三峡下りと妻の散骨の旅                              会員 家野 四郎
 「十四歳的森林」の舞台は宜昌市(湖北省)とその山奥の森林だ。そして、その著者の董宏猷さんは武漢市に住んでいる。

 そこでわたしはこの「十四歳的森林」の出版を機に、この物語の舞台であるいわゆる「三峡」あたりを訪れようと思った。三峡下りとして旅行社がしきりに宣伝しているところだ。重慶から船で長江(揚子江)を3日がかりで下ること650キロ、宜昌までがそれである。そして武漢から空路上海を経て帰国というコースになる。

 これで董宏猷さんに会えて報告もできるし、妻掬子と二人で行く予定にしていたコースを踏破することになる。その証拠として、三峡あたりの適当な場所へ"散骨"しようと思いついた。

 この"散骨"ということ。ここ数年来よく耳にするようになったが、ほんとに可能なのか、法律上の問題はないのか、よく分からないので早速調査研究にかかった。

 先ず文字も"散骨"でいいのか辞書を引いたが、「広辞苑」にも「日本語大辞典」にも載っていない。勿論中国語辞典にもない。これは93年から95年頃から後にほとんどの辞書に「山骨」の次に入ることになったらしい。つまりわが家の辞書が古かったのだ。

 中国人の学者にも尋ねてみたが"散骨"またはそれに類する適当な単語はなく、周恩来さんのことも無論知っていて、中国語では「撒骨灰」(骨の灰を撒く)とでも言うべきだとの答えを得た。

 また法的制約等については知り合いの弁護士さんに尋ねてみたところ国内法では他人の迷惑になる方法を取らぬ限り全く問題はないと。但し中国の法律についてはわからないとのこと。

 しかし、この点は、大学の先輩で上海へ運んで呉淞沖でやはり長江へ流した人にも連絡をとった上で教えてもらった。これなら大丈夫と大いに力を得た。あとは実行あるのみ。

 そこで、重慶から「三国号」(2,500トン)で下る「三峡」クルーズに参加したわけである。国慶節(10月1日)は船の中、船長のウェルカム・パーティーとやらは期待したほどではなかったがテレビは朝から晩まで慶祝番組一色。ゆっくりと下りながら白帝城、小三峡などを観光しつつ船中2泊、西陵峡を通過する時、「十四歳的森林」の舞台となった"大老嶺"をはるかに仰ぎ見ながら、舷側から「撒入江中」したわけである。

 この事実を知った武漢市文聯の人たち(作家、書家、画家など)が董宏猷さんとともに集まり、感動的な出来事としてわたしのために歓迎宴を準備してくれたのだ。わたしはただ驚くばかり、促されるままに、引き続き新聞記者のインタビューに応じたり、揮毫会で筆を持たされたりという有り様だった。

 そして翌日の「武漢晩報」の記事になり、日本まで持って帰ることができた。またテレビの方は後ほど、テープにして送ってくれるそうで楽しみに待っている。

 とにかくわたしのちょっとした思いつきが、武漢市で予期しない大きな反響を呼び、また帰国してからもいい土産話として受けていることは望外の喜びだった。

 亡妻掬子も、天国で半ば迷惑そうな顔で、喜んでくれているのではないだろうか。

 しかし、「冬」で一応きりをつけて、3年ばかりかかった大仕事を済ませたつもりだったのに、また引き続き「春、夏、秋」に馬力をかけなければならないことになってしまって、嬉しいことはうれしいのだが、同時に大荷物をまた背負い込むことになった。

活動日誌
10/20 中国三誌(ピープルズチャイナ・北京週報・中国画報)友の会―80回月例会
10/22~29 日中懇話会友好訪中・岡山→上海→南昌→貴陽
11/9

洛陽市教育代表団歓迎会(綾南小学校主催)

中国関係消息
中国残留孤児訪日
11月1日、中国残留孤児20人が来日した。1981年から始まった肉親捜しのための訪日調査も通算で30回を迎えたが、肉親捜しが年毎に困難になっている。全員が集団で来日する方式は今回が最後になる。

先憂後楽
 10月29日の上海・岡山便はほぼ満席だった。乗客の約半数は中国人で大きく二団体に分かれていた。

 その一つは江蘇省の各地から成る「研修生」で倉敷児島の縫製業各社へ分散して3年間の予定という女性ばかり約50名。胸に行き先の企業名が明記された名鑑をつけている。引率役の男性が話しているのを聞いた。『彼女達に頼らないと縫製業は成り立たなくなる。日本でだれがミシンを踏んでくれるのだ』これは、偽らざる本音だろう。まだあどけなさが残る彼女達の表情は、期待と不安が入り混じった複雑な様相だった。

 もう一つの団体は、美作町が招聘した鎮江市の15名ほどの小学生民族音楽団。これはもう日本の子供たちと同じように賑やかにハシャイでいた。利発そうな子供たちは期待に目を輝かせていた。

 航空機は交通手段に過ぎないが、人々の夢と期待、不安などいろんなものを運んでいるのだと改めて思う。

 航空機の搭乗率を上げるには、観光、ビジネス、友好交流などの日本人訪問者を各方面でボトムアップしていくことが必要だが、一方往復便である以上中国からの訪問者も増えてこないといけない。その意味では、研修や留学、交流団などの拡大は大歓迎だ。

 11月からは上海到着が虹橋空港から浦東国際空港に移る。当面は不便さを感じるかもしれないが、春頃までには定着するだろう。週3便への新たな目標を持つくらいの気概でこの路線を発展させよう。(松)

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